婚約破棄、心より感謝申し上げます!

苺マカロン

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「……ねえ、シグルド様」

「なんだ」

「その腕、離してくれません?」

「却下する」

夕闇に包まれた王都の大通り。

雑踏の中、私はシグルド様の左腕にガッチリとホールドされていた。

いわゆる「腕組みデート」の体勢である。

しかも、ただ腕を組んでいるだけではない。彼の掌が私の手を包み込み、指を絡ませる「恋人繋ぎ」までセットだ。

密着度が異常に高い。

彼の硬い二の腕の感触がダイレクトに伝わってきて、心臓に悪いことこの上ない。

「任務だろう? 騎士団長の目は誤魔化せない。これくらい自然に振る舞わなければ、即座に見破られるぞ」

シグルド様は涼しい顔で、もっともらしい理屈を並べる。

今日の彼は、いつもの漆黒の公爵服ではなく、少し着崩したシャツにベストという「遊び人の貴族の三男坊」風の衣装だ。

前髪を下ろし、伊達眼鏡をかけているが、隠しきれない色気がダダ漏れである。

すれ違う女性たちが、ことごとく振り返っては頬を赤らめているのが分かる。

「それは分かりますけど、近すぎませんか? これじゃあ歩きにくいんですけど」

「文句を言うな。ほら、あーん」

「は?」

シグルド様が、屋台で買った焼き菓子(一口サイズの揚げドーナツ)を私の口元に突き出した。

「カモフラージュだ。この辺りのカップルは皆やっている」

「やってませんよ! どこ調べですか!」

「『下町恋愛白書・決定版』という本に書いてあった」

「何を読んでるんですか公爵様!」

私が抗議しようと口を開けた隙に、ポンとドーナツが放り込まれた。

「んぐっ……!」

「どうだ? 美味いか?」

「……ん、おいひいです(悔しいけど)」

甘い砂糖とシナモンの香りが口いっぱいに広がる。

シグルド様は満足げに笑うと、自分の指についた砂糖をペロリと舐めた。

その仕草があまりに自然で、かつ扇情的だったので、私は顔が熱くなるのを感じた。

(……なんなの、この人。本当に楽しんでるじゃない)

私たちがこんな茶番を繰り広げているのは、もちろん遊びではない。

前方三十メートル。

人混みに紛れて歩く、大柄な男の背中があった。

ガレス・アイアンサイド騎士団長。

普段は銀色の鎧に身を包んでいる彼が、今は地味なローブを目深に被り、コソコソと周囲を警戒しながら歩いている。

「……それにしても、怪しいですね」

私は声を潜めた。

「騎士団長ほどの要人が、護衛もつけずにこんな繁華街を一人歩きなんて」

「ああ。しかも、向かっている方向が妙だ」

シグルド様の目が鋭くなる。

「この先は、高級娼館や会員制のクラブが立ち並ぶ『大人の社交場』エリアだぞ」

「うわぁ……。やっぱりクロです?」

「まだ分からん。だが、奥方の心配はあながち間違いではなかったようだな」

ガレス団長は、時折立ち止まっては背後を確認し、また足早に進んでいく。

その動きは、明らかに「誰かに見られたくない」人間のそれだった。

「おっと、曲がったぞ」

団長が路地裏へと入っていった。

私たちも慌てて後を追う。

路地に入った瞬間、シグルド様が私を壁際に引き寄せた。

「しっ……! 隠れろ」

ドン、と壁ドンされる形になる。

顔が近い。

吐息がかかる距離で、シグルド様が路地の奥を覗き込んだ。

「……あそこだ」

視線の先には、レンガ造りの古びた建物があった。

看板には、蔓草に絡まった文字で『秘密の花園』と書かれている。

窓は分厚いカーテンで閉ざされ、中の様子は全く見えない。

いかにも怪しい。

怪しすぎて、逆に清々しいほどだ。

「『秘密の花園』……。ベタな名前ですね」

「ああ。ここらでは有名な、完全会員制のサロンらしい。何が行われているかは、会員以外には極秘だとか」

ガレス団長は、その重厚な扉の前で立ち止まった。

そして、周囲をキョロキョロと見回した後、扉を特定のりズムでノックした。

コン、コンコン、コン。

すぐに扉が少しだけ開き、中から誰かが顔を出した。

団長が何かを囁くと、扉が大きく開き、彼は吸い込まれるように中へと入っていった。

バタン。

扉が閉まり、再び静寂が戻る。

「……入りましたね」

「ああ。間違いなく、あそこが現場だ」

シグルド様は私から体を離し(少し残念そうに)、腕組みを解いた。

「さて、どうする? 正面から突入するか?」

「無理ですよ。会員制なんでしょう? 合言葉とか会員証がないと入れません」

「権力を使えば……」

「ダメです。騒ぎになって団長が逃げたら、証拠が掴めません」

私は顎に手を当てて考えた。

ここは裏口を探すべきか?

それとも、通気口から潜入?

いや、ドレス姿では無理がある。

悩んでいると、建物の裏手から、若い女性店員らしき二人が出てきた。

ゴミ捨てだろうか。

「ねえ、今日の『ハニーちゃん』、機嫌悪いみたいよ?」

「えー? また? 最近わがままよねぇ」

「でも、あのお客さん……ガレス様だっけ? あの方が来るとデレデレなのよ」

「分かるー! あの強面の騎士様がメロメロになってるの、見てて面白いわよね」

彼女たちはクスクス笑いながら、再び中へ戻っていった。

私とシグルド様は顔を見合わせた。

「……聞きました?」

「ああ。『ハニーちゃん』に『メロメロ』だと」

「確定ですね。真っ黒です。騎士団長が、店の女の子に入れあげてるなんて」

「ガレスめ……。硬派な男だと思っていたが、中年の危機か?」

シグルド様が呆れたように頭を振る。

「よし、証言は取れた。あとは現場の写真を押さえれば任務完了だ」

「どうやって中に入ります?」

「裏口の鍵、今開いてたぞ」

「え?」

「店員が戻る時、鍵をかけ忘れていた」

さすが監査役。

細かいミスを見逃さない。

「行こう。愛の巣での情事、特等席で拝ませてもらおうじゃないか」

シグルド様がニヤリと笑う。

私たちは足音を忍ばせ、建物の裏口へと回った。

ドアノブを静かに回す。

カチャリ。

開いた。

中は薄暗い廊下になっており、甘いお香の匂いが漂っている。

奥の方から、話し声が聞こえてくる。

私たちは壁伝いに進み、声のする部屋の前までたどり着いた。

そこは、扉が少しだけ開いていた。

中から、ガレス団長の猫なで声が聞こえてくる。

「おお……今日も可愛いな、ハニー」

ゾッとした。

あの野太い声で戦場を指揮する男が、まるで赤ちゃんに話しかけるような声を出している。

「寂しかったか? ごめんな、昨日は来られなくて」

「…………」

相手の返事は聞こえない。

おそらく、口付けでもしているのだろうか。

「ほら、お土産だよ。お前の大好物の高級ジャーキーだ」

ジャーキー?

随分と渋い好みのアマさんだ。

「さあ、こっちへおいで。よしよし、いい子だ……」

ガサゴソと衣擦れの音がする。

いよいよ決定的な瞬間だ。

シグルド様が懐から、魔道具のカメラを取り出した。

「(行くぞ、アンズ)」

「(はい!)」

私たちは息を合わせて、扉を蹴破……るのは野暮なので、勢いよく開け放った。

「そこまでよ! 浮気現場、押さえさせてもらったわ!!」

「監査だ、ガレス! 言い逃れはできんぞ!」

カメラのフラッシュが焚かれ、部屋の中が白く染まる。

「ぬおっ!? な、なんだ!?」

ガレス団長の驚愕の声。

そして、目が慣れてきた私の視界に飛び込んできたのは。

ベッドの上で絡み合う男女……ではなく。

部屋の中央、フカフカのクッションの上で、ガレス団長に抱きしめられている、一匹の生き物だった。

「……わん?」

つぶらな瞳。

茶色い毛並み。

短い足。

それは、どう見ても『犬』だった。

しかも、かなり恰幅の良い(太った)コーギーだ。

団長の手には、高級ジャーキーが握られている。

「…………へ?」

私はカメラを構えたまま固まった。

シグルド様も、口を半開きにして停止している。

ガレス団長だけが、犬を抱きしめたまま、真っ赤な顔で私たちを見ていた。

「こ、公爵閣下!? それにアンズ嬢!? な、なぜここに!?」

「……ガレス」

シグルド様が、震える声で尋ねた。

「その……『ハニー』というのは……」

「は、はい……」

ガレス団長は観念したように、腕の中の犬を掲げた。

「この子の名前です。……捨て犬だったのを拾ったのですが、妻が犬アレルギーで家では飼えず……ここの店主に頼んで、預かってもらっているのです」

「わんっ!」

ハニーちゃんが元気に吠えた。

部屋に、気まずい沈黙が流れる。

私はゆっくりとカメラを下ろした。

「……つまり、浮気相手というのは……」

「この犬です」

「『秘密の花園』というのは……」

「ただのペット預かり所(兼、犬好きが集まるサロン)です」

「……」

「……」

私とシグルド様は顔を見合わせ、そして同時にガクッと肩を落とした。

「……帰るか」

「そうですね……」

これが、『騎士団長浮気疑惑事件』の、あまりにも平和で、拍子抜けする結末だった。

だが、この時の私たちはまだ気づいていなかった。

この「犬」が、実は隣国の王室で飼われていた迷い犬であり、とんでもない外交問題に発展する爆弾であることを。
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