婚約破棄、心より感謝申し上げます!

八雲

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「……犬」

「……犬だな」

私とシグルド様が呆然としていると、廊下の奥からドタドタという凄まじい足音が近づいてきた。

「ガレスーーッ!! 観念なさい!!」

その叫び声に、ガレス団長が「ひいっ!」と短く悲鳴を上げ、反射的にハニーちゃん(犬)を背後に隠した。

バン!!

扉が物理的に蹴破られた。

蝶番が悲鳴を上げ、木片が飛び散る。

砂煙の向こうから現れたのは、鬼の形相をしたアイアンサイド夫人だった。

手にはなぜかフライパンが握られている。

「覚悟はいいわね、この女たら……し……?」

夫人は部屋の中を見回し、動きを止めた。

そこにあるのは、情事の痕跡ではない。

カメラを構えたまま固まっている私とシグルド様。

そして、部屋の隅で必死に何か(モフモフしたもの)を背中で隠そうとしている、冷や汗まみれの夫。

「……あら? 女は? 『ハニー』とかいう泥棒猫はどこ!?」

夫人は血走った目で叫んだ。

その迫力に、私は思わず「おぉ……」と感嘆の声を漏らした。

これだ。

これこそが、私が求めていた『本物の修羅場』だ。

私はポケットから、先ほど屋台で買った余りのドーナツを取り出した。

そして、部屋の隅にある椅子にサッと移動し、足を組んで座る。

「(アンズ、貴様なにをくつろいでいる)」

シグルド様が小声で突っ込んでくるが、私は無視してドーナツを齧った。

「(しっ! 静かに。今いいところなんですから)」

特等席での観劇タイムだ。

ガレス団長が、震える声で弁明を試みる。

「ご、誤解だマリア! 女などいない! 誓ってやましいことは何も……!」

「嘘をおっしゃい! じゃあ、あなたが隠しているその後ろのモノは何!? 香水の匂いもするわよ!」

「こ、これは……その……」

「見せなさい! どんな厚化粧の女か、顔を拝んでやるわ!」

夫人がフライパンを振り上げ、夫に詰め寄る。

「待ってくれマリア! 君のためなんだ! 君がアレルギーだから……!」

「はあ!? 私のアレルギーがなんだって言うのよ! 言い訳は見苦しいわ!」

「違うんだ、本当に……!」

ガレス団長が後ずさりし、足元のクッションに躓いた。

その拍子に、背後に隠していた『ハニーちゃん』が、コロンと転がり出た。

「わんっ!」

短い足をバタつかせ、愛らしい鳴き声を上げるコーギー。

「……へ?」

夫人の動きがピタリと止まった。

フライパンが手から滑り落ち、ゴトッという音が響く。

「……い、犬?」

「……そうだよ。僕の浮気相手は、このハニーちゃんだ」

ガレス団長は観念して、床に座り込み、ハニーちゃんを抱き上げた。

「すまない……。昔から犬が大好きだったんだが、君が犬猫アレルギーだと聞いて、言い出せなかったんだ。でも、どうしてもモフモフしたくて……」

沈黙が落ちる。

夫人はハニーちゃんを凝視し、次に夫の涙目を見、そして最後に私たちを見た。

「……つまり、貴方は」

夫人の肩がプルプルと震え始めた。

「私との夕食よりも、この短足の犬との時間を優先したと言うの……?」

おっと、雲行きが怪しい。

「『愛しのハニー』? 『秘密の花園』? 私には『仕事だ』って嘘をついて、この犬に高いジャーキーを貢いでいたわけ!?」

「い、いや、それは……!」

「私という妻がいながら! こんな毛玉に現(うつつ)を抜かすなんて!」

夫人の怒りのボルテージが再点火した。

「浮気よ! これは立派な浮気だわ! 心の浮気よ!」

「そ、そんな殺生な!」

「離婚よ! 私と犬、どっちが大事なのよ!」

「選べない! 種類が違う!」

「最低ーーッ!!」

パコーン!!

夫人の平手打ちが、団長の頬に綺麗に入った。

「ぶほっ!?」

団長が回転しながら吹っ飛ぶ。

「わんわん!」

ハニーちゃんが興奮して吠える。

カオスだ。

最高にカオスだ。

私はドーナツを咀嚼しながら、心の中で拍手を送った。

(いいわー。その「どっちが大事なの」っていう理不尽な二択。これぞ痴話喧嘩の醍醐味ね)

「……アンズ」

隣に立っていたシグルド様が、私のドーナツ袋に手を突っ込んできた。

「一つ寄越せ」

「あら、公爵様も観戦モードですか?」

「見ていられん。馬鹿馬鹿しすぎて糖分が必要だ」

シグルド様はドーナツを口に放り込み、やれやれとため息をついた。

「おい、ガレス。マリア夫人。いい加減にしろ」

公爵の一喝が響く。

取っ組み合いをしていた夫婦が、ハッと我に返った。

「こ、公爵閣下……! 申し訳ありません、取り乱しました!」

夫人が慌ててドレスを直す。

シグルド様は冷静に告げた。

「事実は明白だ。ガレスに女はいない。ただの犬好きの隠れ家だ。……まあ、妻に嘘をついた罪は重いがな」

「うう……面目次第もありません……」

団長が床に正座して項垂れる。

「マリア夫人。君の夫は、国一番の愛妻家として有名だ。ただ、少しばかり動物への愛も重かっただけだ。許してやってはどうだ?」

夫人は唇を噛み締め、チラリと夫と犬を見た。

「……女じゃないなら、まあ……最悪の事態よりはマシですけど」

「わん?」

ハニーちゃんが首をかしげ、夫人の足元に擦り寄った。

「ひっ!」

夫人が後ずさるが、ハニーちゃんは尻尾を振って見上げている。

そのつぶらな瞳攻撃。

「……くっ、確かに可愛いですわね」

夫人はハンカチで鼻を押さえた。

「くしゅん! ……でも、私はアレルギーなんです。家では飼えません」

「分かっている! だからここに……」

「なら、せめて私にも紹介なさいよ! コソコソされるのが一番腹立つのよ!」

「えっ……い、いいのか?」

「週一回なら……私も、マスクをして付き合ってあげなくもないわよ」

「マリアぁぁぁ!! 愛してるぅぅぅ!!」

ガレス団長が感涙して夫人に抱きつこうとし、再び「近寄らないで獣臭い!」と拒絶される。

どうやら一件落着のようだ。

私は最後のドーナツを飲み込み、立ち上がった。

「よかったですね、団長。これからは堂々とモフれますね」

「ああ、アンズ嬢、公爵閣下。感謝する。おかげで胸のつかえが取れた」

団長は晴れ晴れとした顔で笑った。

ハニーちゃんが私の足元にトテトテと歩いてくる。

「よしよし、お前が元凶ね。可愛い顔して罪な犬だわ」

私はしゃがみ込み、ハニーちゃんの頭を撫でた。

ふわふわの手触り。

首輪には、立派な宝石がついている。

「……ん?」

その首輪の裏側に、小さな金属プレートがついているのに気づいた。

文字が刻まれている。

(……これ、どこかの紋章?)

薔薇と剣をあしらった、優美な紋章。

この国の王家のものではない。

私は記憶の糸を手繰り寄せた。

元婚約者候補として、王妃教育で叩き込まれた他国の紋章リスト。

薔薇と剣。

東の大国、オリエント王国。

そして、その紋章の下に刻まれた名前。

『プリンセス・シャルロット』

「……あ」

私の背筋に、冷たいものが走った。

シャルロット。

オリエント王国の第二王女。

「ワガママ」「破壊神」「気に入らないものは国ごと燃やす」と噂される、あの?

「……ねえ、団長」

私は引きつった笑顔で尋ねた。

「このワンちゃん、どこで拾ったんですか?」

「ん? ああ、二週間ほど前、王宮の裏庭に迷い込んでいたんだ。首輪が高そうだったから、どこかの貴族の犬だと思って探したんだが、飼い主が見つからなくてな」

「王宮の裏庭……」

間違いない。

外交使節団か何かに紛れて、脱走してきたのだ。

そして、その飼い主はおそらく今頃……。

「大変だーーッ!!」

店の外から、切羽詰まった声が聞こえてきた。

血相を変えた兵士が、壊れた扉から飛び込んでくる。

「だ、団長!! 探しましたぞ!! 緊急事態です!!」

「なんだ騒々しい。夫婦喧嘩は終わったぞ」

「それどころではありません! 王宮に、オリエント王国の使節団が怒鳴り込んできました!」

「オリエント王国だと?」

「はい! シャルロット王女殿下が『私の愛犬がこの国で拉致された! 今すぐ返さなければ宣戦布告とみなす!』と大暴れしておりまして……!!」

兵士の報告に、その場の全員が凍りついた。

視線が、一斉にハニーちゃんに集まる。

「わん?」

ハニーちゃんは無邪気に首をかしげた。

「……ガレス」

シグルド様が、幽鬼のような声で言った。

「貴様……よりによって、隣国の核弾頭(王女)の愛犬を誘拐していたのか……?」

「ち、ちがう! 私は保護を……!」

「言い訳は後だ! アンズ、犬を確保しろ! 今すぐ王宮へ走るぞ!」

「ええっ!? 私もですか!?」

「当たり前だ! 第一発見者は貴様らだぞ!」

私の平穏な「浮気調査」は、一瞬にして「国家存亡の危機」へとクラスチェンジした。

ドーナツの甘い余韻など、どこかへ吹き飛んでしまった。

「もう……! だから嫌なのよ、王宮に関わるのはーーッ!!」

私の絶叫は、夜の街に虚しく響き渡った。
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