婚約破棄!悪役令嬢は手切れ金で優雅に高飛びさせていただきますわ!

苺マカロン

文字の大きさ
22 / 28

22

しおりを挟む
「――おかしい」

歓迎会の翌朝。

私は執務室の机に向かい、眉間に深い皺を寄せていた。

目の前には、昨夜の宴会費用の請求書。
そして、私の相棒である魔導計算機。

いつもなら、指先一つで瞬時に計算が終わるはずの単純な足し算が、できない。

「1+1=……田んぼの田?」

「エーミール様? どうしました、朝から寝言みたいなことを」

コーヒーを持ってきたガストン団長が、不思議そうな顔で覗き込んでくる。

「いえ、計算機の調子が悪いようです。数字が踊って見えます」

「踊る? 数字が?」

「ええ。ワルツを踊っています。……ふふ、優雅ですわね……」

私はフワフワとした感覚に包まれていた。
天井が回っている。
床が波打っている。

「あっ、エーミール様!? 顔が真っ赤っすよ!?」

「赤字? 赤字はいけません……黒字に転換しなければ……」

「いや、そういう意味じゃなくて! 体温が!」

ガストン団長が慌てて私のおでこに触れようとした、その瞬間。

プツン。

私の視界がブラックアウトした。

「エーミール様ぁぁぁ!!」

遠くで、野太い悲鳴が聞こえた気がした。

***

次に目を覚ました時、私は自室の天蓋付きベッドの中にいた。

「……ここは?」

重い瞼を開けると、心配そうな顔をしたギルバート様が、すぐそばに座っていた。

「気がついたか、エーミール」

「閣下……? 私、どうして……」

体を起こそうとしたが、鉛のように重くて動かない。

「寝ていろ。倒れたんだ」

ギルバート様が優しく私の肩を押し戻した。

「倒れた……私が?」

「ああ。執務室でガストンの腕の中に崩れ落ちたそうだ。あいつ、『女神が死んだ! 世界の終わりだ! もう肉が食えねぇ!』って泣き叫んで、砦中が大パニックだったぞ」

「……あの筋肉ダルマ、あとで減給ですね」

私は掠れた声で毒づいた。

「熱がある。三十九度だ」

ギルバート様が、濡らしたタオルを私の額に乗せてくれる。
ひんやりとして気持ちがいい。

「三十九度……。計算外です。私の自己管理(ヘルスケア)は完璧だったはずなのに」

「王都での激務と、昨日の長距離移動。それにあの馬鹿騒ぎだ。疲れが出たんだろう」

「疲労……。非効率ですわ。寝ている時間は一銭の利益も生まないのに」

私が悔しがると、ギルバート様は苦笑して、私の頬を指でつついた。

「君は本当に、病人の時まで損得勘定か」

「当然です。……あ、そうだ。明日の温泉リゾートの視察、キャンセルしないと。それから氷の出荷リストの承認も……」

私が起き上がろうとすると、ギルバート様が今度は少し強引に、私をベッドに縫い留めた。

「ダメだ」

「ですが、納期が」

「仕事なら、俺とガストンたちで分担して終わらせた」

「え?」

「視察は延期。出荷リストは俺が承認印を押した。帳簿の整理も、ガストンたちが泣きながら終わらせた。『エーミール様が安心して休めるように』とな」

ギルバート様は、サイドテーブルを指差した。
そこには、綺麗に整理された書類の束と、一輪の花が飾られていた。

「……あいつら、数字を見ると頭痛がすると言っていたのに」

「君のためなら、頭痛薬を飲んででも頑張るそうだ。……愛されているな、君は」

胸の奥が、熱とは違う温かさで満たされた。

「……バカ者どもめ。計算ミスがあったら、給料から天引きしてやりますから」

私は照れ隠しにそう呟き、また枕に頭を沈めた。

「さて」

ギルバート様が、椅子を引き寄せた。

「部下たちが頑張ったんだ。上司(ボス)である俺も、働かないとな」

「閣下の仕事? 書類仕事なら終わったのでは?」

「いや、俺の仕事はこれだ」

彼は、湯気の立つ器を手に取った。
甘い香りがする。林檎と蜂蜜を煮込んだスープだ。

「さあ、口を開けて。あーん」

「は?」

私の思考回路が停止した。

あーん。
今、この『氷の辺境伯』と呼ばれる強面の武人が、幼児に向けるような言葉を?

「な、何を仰っているのですか! 自分で食べられます!」

「ダメだ。スプーンを持つ筋力エネルギーの無駄遣いだ。俺がやるのが一番効率的だろ?」

「うっ……ロジック(理屈)で攻めてくるとは」

「ほら、冷めるぞ。あーん」

スプーンが口元に差し出される。
ギルバート様は真顔だ。ふざけているわけではなく、本気で看病しようとしている。

拒否するのは、彼の好意(と労働力)を無駄にすることになる。

私は観念して、小さく口を開けた。

「……あ、あーん」

パクリ。

甘酸っぱい林檎の味が広がる。
温かい。
そして何より、恥ずかしい。

「どうだ? 美味いか?」

「……はい。適正な糖度です」

「そうか。じゃあ、もう一口」

そこからは、羞恥プレイの連続だった。
スープを飲ませてもらい、口元を拭いてもらい、汗をかいたら着替え(さすがにメイドを呼んだが)の手配まで。

至れり尽くせり。
過保護すぎる。

「か、閣下。もう十分です。これ以上のサービス(奉仕)は、対価を支払えません」

私が布団を被って訴えると、ギルバート様は笑った。

「対価なら、もう貰っている」

「え?」

「君が大人しくしている顔を見られるだけで、俺には十分な報酬(メリット)だ」

彼は布団の上から、私の頭を撫でた。

「普段は強気で、隙がなくて、可愛げのない計算機みたいな君が……こうして弱って、俺を頼ってくれている。……悪くない気分だ」

「……性格が悪いですわね」

「君ほどじゃない」

軽口を叩き合う。
その空気が心地よくて、私はまたウトウトとしてきた。

だが、眠りに落ちる寸前。
ギルバート様が、ポツリと呟いたのが聞こえた。

「……心配したんだぞ、本当に」

その声は震えていた。

「君が倒れたと聞いた時、目の前が真っ暗になった。国を失うよりも怖かった」

彼は私の手を握りしめ、その甲に額を押し付けた。

「お願いだ、エーミール。無理はしないでくれ。君がいなくなったら……俺は、どうすればいいか分からない」

彼の体温が、震えが、直接伝わってくる。

ドクン。

心臓が大きく跳ねた。

これは、熱のせい?
いいえ、違う。

私の脳内で、ずっと保留(ペンディング)にしていた計算式が、勝手に答えを弾き出しそうになる。

『胸の高鳴り』+『心地よい束縛感』+『失いたくないという恐怖』=???

答えは明白だ。
でも、それを認めてしまえば、私は私でいられなくなる気がして。

「……閣下」

私は、握られた手に少しだけ力を込めて握り返した。

「……死にませんよ。まだ、老後の資金(二千万金貨)が貯まっていませんから」

「……ははっ、そうか。なら安心だ」

ギルバート様は顔を上げ、涙ぐんだ目で笑った。

「じゃあ、早く治して稼がないとな」

「ええ。コキ使ってやりますから、覚悟しておいてください」

私は目を閉じた。
意識が闇に沈んでいく中、私は一つの事実を認めざるを得なかった。

(……計算ミスですわ、エーミール)

この感情は、損得勘定では割り切れない。
そして、この人を愛してしまったという事実は、どんなに計算しても『赤字(リスク)』にはならない。

むしろ、私の人生における、最大の『黒字(幸福)』になるかもしれない。

そう自覚した瞬間、私の熱はさらに一度上がった気がした。

「……知恵熱でしょうか。バカなことを考えすぎました」

私は熱い頬を枕に押し付け、深い眠りへと落ちていった。

***

翌日。

私の熱は嘘のように下がった。
だが、別の『症状』が残ってしまった。

「おはよう、エーミール。顔色はいいな」

執務室に入ってきたギルバート様を見た瞬間。

ドクンッ!!

「ひぃっ!?」

心臓が早鐘を打ち、顔が沸騰し、思考回路がショートした。

「ど、どうした? また熱か?」

ギルバート様が心配して近づいてくる。
顔が近い。カッコいい。無理。

「ち、ちちち、近寄らないでください! 感染(うつ)ります!」

「風邪はもう治ったんだろう?」

「風邪ではありません! これは……その……『対人恐怖性・接近過敏症候群』です!」

「なんだその病名」

私は計算機を盾にして後ずさった。

認めてしまったが最後、意識しすぎて直視できない。
これが『恋』というバグの恐ろしさか。

「とにかく! 半径二メートル以内の接近を禁じます! 業務連絡は筆談で!」

「ええ……昨日あんなに甘えてくれたのに……」

ギルバート様がガックリと肩を落とす。

その様子を見て、ガストン団長たちがヒソヒソと話していた。

「おい、見たか。女神がツンデレに進化したぞ」
「デレの反動がすげぇな」
「あれはあれで、ご褒美なんじゃねぇか?」

騎士たちの生温かい視線に見守られながら、私の『恋の病』との闘病生活(仕事は通常運転)が始まったのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました

由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。 彼女は何も言わずにその場を去った。 ――それが、王太子の終わりだった。 翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。 裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。 王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。 「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」 ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

婚約破棄を望むなら〜私の愛した人はあなたじゃありません〜

みおな
恋愛
 王家主催のパーティーにて、私の婚約者がやらかした。 「お前との婚約を破棄する!!」  私はこの馬鹿何言っているんだと思いながらも、婚約破棄を受け入れてやった。  だって、私は何ひとつ困らない。 困るのは目の前でふんぞり返っている元婚約者なのだから。

婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢カルルは、ある夜会で王太子ジェラールから婚約破棄を言い渡される。しかし、カルルは泣くどころか、これまで立て替えていた経費や労働対価の「莫大な請求書」をその場で叩きつけた。

【完結】私が誰だか、分かってますか?

美麗
恋愛
アスターテ皇国 時の皇太子は、皇太子妃とその侍女を妾妃とし他の妃を娶ることはなかった 出産時の出血により一時病床にあったもののゆっくり回復した。 皇太子は皇帝となり、皇太子妃は皇后となった。 そして、皇后との間に産まれた男児を皇太子とした。 以降の子は妾妃との娘のみであった。 表向きは皇帝と皇后の仲は睦まじく、皇后は妾妃を受け入れていた。 ただ、皇帝と皇后より、皇后と妾妃の仲はより睦まじくあったとの話もあるようだ。 残念ながら、この妾妃は産まれも育ちも定かではなかった。 また、後ろ盾も何もないために何故皇后の侍女となったかも不明であった。 そして、この妾妃の娘マリアーナははたしてどのような娘なのか… 17話完結予定です。 完結まで書き終わっております。 よろしくお願いいたします。

心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁

柴田はつみ
恋愛
王国の公爵令嬢セレーネは、家を守るために王太子レオニスとの政略結婚を命じられる。 婚約の儀の日、彼が告げた冷酷な一言——「心配するな。俺の好きな人は別にいる」。 その言葉はセレーネの心を深く傷つけ、王宮での新たな生活は噂と誤解に満ちていく。 好きな人が別にいるはずの彼が、なぜか自分にだけ独占欲を見せる。 嫉妬、疑念、陰謀が渦巻くなかで明らかになる「真実」。 契約から始まった婚約は、やがて運命を変える愛の物語へと変わっていく——。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

謹んで、婚約破棄をお受けいたします。

パリパリかぷちーの
恋愛
きつい目つきと素直でない性格から『悪役令嬢』と噂される公爵令嬢マーブル。彼女は、王太子ジュリアンの婚約者であったが、王子の新たな恋人である男爵令嬢クララの策略により、夜会の場で大勢の貴族たちの前で婚約を破棄されてしまう。

処理中です...