冤罪断罪、お断り!婚約破棄の前に夜逃げを決め込む。

八雲

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「……もう嫌、この生活。誰よ、自由は素晴らしいなんて言ったのは」

宿場町『サン・セット』を命からがら脱出し、さらに西の国境付近の町『ウェスト・エンド』。
私は、場末の酒場『錆びた錨亭』の隅っこで、ジョッキのエール(安物)を睨みつけていた。
隣では、ララさんが机に突っ伏して「……ぱん……。ふわふわの、白パンが食べたい……」と、うわ言のように繰り返している。

「我慢なさいな。あの『紫のマント』がいつどこから現れるかわからないんだから」

「でもぉ、エドさん。ヴィル様、あんな格好でよくここまで来れましたよね。普通、不審者として門前払いされるはずなのに」

「あの王子、無駄に顔と育ちがいいから、変装がマヌケでも『高貴な方の奇行』としてスルーされちゃうのよ。はた迷惑な話だわ」

私は溜息をつき、エールを煽った。
喉を通る刺激が、疲れた体に染み渡る。
しかし、安らぎの時間は一分と持たなかった。

カランカラン、と入り口のベルが鳴る。
嫌な予感がして顔を上げると、そこには見覚えのある『黒ずくめの男』が立っていた。

「……ううっ。また、腹が……。おい、店主。一番効く薬草茶か、白湯をくれ……」

ゼクスだ。
ポート・サウスで別れたはずの用心棒が、なぜかここにいる。
しかも、以前より数段顔色が悪い。

「……ちょっと、エドさん! あのお兄さん、追いかけてきたんじゃ!?」

「静かに! 帽子を深く被りなさい!」

私はララさんの頭を無理やり机に押し付けた。
ゼクスはカウンターに腰を下ろし、胃を押さえながら独り言を漏らしている。

「……ったく。公爵閣下も人使いが荒い。……『娘を見つけたらこれを渡せ。ついでに王子の邪魔もしてこい』なんて……。俺の胃が保つわけがないだろう……」

彼の指の間には、小さな黒い筒状の密書が見えた。
……お父様からのメッセージ!?
気になる。死ぬほど気になるけれど、ここで「やあ、ゼクス」なんて声をかけたら、即座に身柄を確保されてしまう。

「――ほう。そこの剣士、悩みがあるようだな。私のレモネードを飲むか?」

酒場の奥から、あの『呪いの低音』が響いた。
見れば、一番暗い席に、紫のマントを羽織った男――ヴィルフリードが鎮座していた。
彼は相変わらず、付け髭をピクピクさせながら、怪しげな液体をグラスに注いでいる。

「……なんだ、あんたは。不審者か?」

「失礼な。私は愛の探求者、ヴィル・シュタインだ。……して、その密書。もしや私の探している『赤い小鳥』に関わるものではないか?」

(……あの王子、まだあの名前を名乗ってるの!?)

私は机の下で拳を握りしめた。
ヴィルフリードがゼクスにじりじりと詰め寄っていく。
宿敵(?)同士の遭遇。酒場の中に、妙な緊張感が漂い始めた。

「……赤い小鳥だと? あいにく、俺が探しているのは『生意気な皿洗いのガキ』だ。アンタの小鳥とは無関係だろうよ」

「ほう……。奇遇だな。私も、そのガキ……いや、少年に出会ったことがある。レモネードの味が天才的に、私……の婚約者に似ていたのだ。……おい、店主。この街に、最近来た少年を知らないか?」

店主が私たちの席を指差そうとした瞬間、私はとっさに立ち上がった。

「す、すみませーん! トイレ、トイレはどこですかー!?」

私はわざと裏返った声を出し、ララさんの腕を引いて裏口へと走り出した。
背後で「……ん? あの声、どこかで……」というゼクスの呟きが聞こえたが、振り返る余裕なんてない。

「待て、少年! 逃げることはないだろう!」

ヴィルフリードの叫び声が聞こえる。
私は厨房を突っ切り、洗い場の横を抜け、裏通りのゴミ捨て場へと飛び出した。

「エ、エドさん! ゼクスさんまで気づき始めましたよ!」

「分かってるわよ! もう、あの二人が揃うなんて、どんな悪運の連鎖よ!」

私たちは路地裏の影に身を潜め、酒場から出てくるであろう追手たちの様子を伺った。
すると、酒場の中からゼクスがフラフラと出てきて、壁に手をついた。

「……ダメだ。あいつらの声を聞くだけで、胃液が逆流する……。……おい、お前ら! 隠れているのは分かっているぞ! エド、そこにいるんだろう!」

流石はプロの用心棒。
私たちの隠密スキルなんて、彼には通用しなかったらしい。
私は観念して、影から顔を出した。

「……相変わらず鼻が利くわね、お兄さん」

「……当たり前だ。お前、ポート・サウスの時よりさらに煤汚れてるぞ。……それと、これを預かっている」

ゼクスは、懐から例の密書を私に向かって放り投げた。

「公爵閣下からだ。『たまには親孝行しに帰ってこい。さもなくば、王子のポエム日記を全100巻セットで逃亡先に送りつける』だそうだ」

「……お父様、最悪。実の娘を脅迫するなんて!」

私は受け取った密書をギュッと握りしめた。
中には短い手紙と、見たこともない紋章が刻まれた銀の指輪が入っていた。

「それは、隣国の騎士団に顔が利く証だ。……閣下は、お前が本当に帰りたくないなら、隣国で好きにしろと言っている。……ただし、あの大バカ王子を巻くのが条件だ」

「……お父様」

少しだけ、胸の奥が熱くなった。
お父様は、私の「自由」を認めてくれたのだ。ただし、試練付きで。

「――見つけたぞ! イーズ! 今度こそ逃がさん!」

酒場の裏口から、紫のマントを翻したヴィルフリードが飛び出してきた。
付け髭が右頬でぶら下がっているが、その目は執念に燃えている。

「あー、もう! 感傷に浸る暇もないわね! ゼクス、その大バカを止めて!」

「断る。非番だと言ったはずだ。……うっ、胃が……」

ゼクスは再び蹲った。役に立たないわね!
私はララさんの手を引き、月明かりに照らされた西の街道へと駆け出した。

「行くわよ、ララさん! 次の街で、隣国の騎士団に助けを求めるわ!」

「はい! エドさん、どこまでも付いていきます!」

背後で「イーズーーー! 結婚してくれーーー!」という王子の絶叫が夜空に響き渡った。
私は一度も振り返らず、闇の中へと消えていった。
お父様からの「自由への鍵」を握りしめて。
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