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王宮の大広間を彩っていた優雅なワルツが、唐突に止んだ。
シャンデリアの煌めきの下、着飾った貴族たちが息を呑み、視線を一点に集中させる。
その視線の先にいるのは、この国の第二王子ロランドと、その腕にしなだれかかる男爵令嬢ミナ。
そして、彼らと対峙するように一人佇む、公爵令嬢ルーア・バーンスタインだ。
ロランド王子は、金色の髪を揺らしながら、まるで劇場の主役のように声を張り上げた。
「ルーア・バーンスタイン! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
広間がどよめきに包まれる。
誰もが予想だにしなかった事態に、扇で口元を隠し、ひそひそと噂話を始める貴族たち。
そんな中、婚約破棄を突きつけられた当の本人であるルーアは、ゆっくりと瞬きを一度だけした。
そして、無表情のまま懐から懐中時計を取り出し、チラリと針の位置を確認する。
(現在時刻、二十時十五分。予定されていたダンスの終了時刻から三分遅延。この断罪劇のせいで帰宅時間がずれ込むわね……)
ルーアにとって、婚約破棄そのものは大した問題ではなかった。
問題なのは、この茶番劇によって自身の貴重な睡眠時間が削られること、ただ一点のみだ。
彼女は懐中時計をしまうと、冷ややかな視線を王子に向けた。
「……殿下。今の発言、公的な決定事項と受け取ってよろしいのでしょうか?」
あまりに淡々とした反応に、ロランド王子の眉がピクリと跳ね上がる。
彼はルーアが泣き崩れるか、あるいは怒り狂うことを期待していたのだろう。
「なんだその態度は! 自分が置かれている立場を理解していないのか!? 貴様は、私の愛するミナに対して数々の陰湿な嫌がらせを行ってきただろう!」
「ひどいですぅ、ルーア様ぁ……。私、怖くて……」
ミナがロランドの胸に顔を埋め、震えるふりをする。
その演技力は三流の舞台役者にも劣るが、お花畑脳の王子には効果てきめんらしい。
ロランドはミナを抱きしめ、さらに語気を強める。
「教科書を破く、階段から突き落とそうとする、お茶会に呼ばない……数え上げればキリがない! これほどの悪行、未来の王妃としてふさわしくない!」
周囲の貴族たちが、「まあ、なんて恐ろしい」「やはり鉄の女と呼ばれるだけはある」と囁き合う。
ルーアは小さくため息をつき、ドレスの隠しポケットから一冊の手帳を取り出した。
「殿下、事実確認をさせていただきます。まず教科書の件ですが、ミナ男爵令嬢が授業中に居眠りをしてよだれで汚したものを、私が新しいものと交換する手配をした記録が図書委員会の議事録に残っています」
ペラリ、と手帳をめくる音だけが響く。
「次に階段の件。あの日時、私は王宮の経理室で予算編成の最終チェックを行っていました。証人は財務大臣と経理課の職員十名です。アリバイは完璧かと」
「なっ……」
「最後にお茶会の件ですが、招待状は送りました。しかし、返信期限を二週間過ぎても音沙汰がなかったため、欠席として処理しただけです。ビジネスマナーの欠如を私のせいにされては困ります」
ルーアの口から次々と放たれる正論の弾丸に、ロランドはたじろいだ。
「へ、屁理屈を言うな! とにかく、貴様のその冷血な性格にはもう耐えられないのだ! 私は真実の愛を見つけた! ミナこそが、私の運命の相手だ!」
「そうですぅ! 愛は理屈じゃないんですぅ!」
ミナが便乗して叫ぶ。
ルーアは手帳をパタンと閉じると、今日一番の冷ややかな眼差しを二人に向けた。
「つまり、正当な理由なき一方的な婚約破棄、ということでよろしいですね?」
「う、うるさい! 理由なら今言っただろう! 貴様への愛が冷めたのだ!」
「愛が冷めた。なるほど、個人的な感情による契約不履行ですね。承知いたしました」
ルーアの声色が、スッと変わる。
それは、面倒な仕事を片付ける際の、事務的かつ効率的なトーンだった。
「では、こちらの処理に入らせていただきます」
彼女はそう言うと、どこからともなく取り出した大きめの鞄を開き、中から分厚いファイルと、年代物の、しかし手入れの行き届いた『魔導計算機』を取り出した。
ガシャン、と重厚な音が床に響く。
「……な、何だそれは?」
「何って、精算の準備ですが?」
ルーアはドレスの裾を邪魔にならないように蹴り上げると、その場でしゃがみ込み、魔導計算機のキーを凄まじい速度で叩き始めた。
タタタタタタタッ!
軽快かつ高速な打鍵音が、静まり返った大広間にこだまする。
「えー、まずは婚約期間十年における、精神的苦痛に対する慰謝料。これは王家との契約条項第5条に基づき、基本金の三倍を請求させていただきます」
「は、はあ!?」
「次に、私がこれまで代行してきた殿下の公務に関する未払い賃金です。書類作成、式典の根回し、地方視察のレポート代筆……これらは本来、殿下がなすべき業務でした。労働基準法および王宮規定の管理職手当を適用し、時間外労働分は五割増しで算出します」
タタタタッ、ターン!
小気味よい音が響くたびに、ロランドの顔色が青ざめていく。
「ちょ、待て! 金の話などしていない!」
「いいえ、これは金の話です。殿下は『愛』という不確かな概念で契約を破棄しようとしていますが、婚約とは家と家、国と国との契約です。契約解除には違約金が発生する。商売の基本でしょう?」
ルーアは計算機を叩く手を止めず、顔だけを上げてニッコリと笑った。
その笑顔は、慈愛に満ちた聖女のようでありながら、目の奥は全く笑っていない。
まるで借金の取り立てに来た死神のようだった。
「さらに、私が殿下の尻拭いのために費やした『化粧品代』および『ストレスケア代』も上乗せさせていただきます。殿下の失言をフォローするために奔走したせいで、私のお肌は荒れ放題でしたから」
「そ、そんなものは言いがかりだ!」
「領収書、すべて保管してありますわよ? 日付と用途、そしてその原因となった殿下の不始末のリストと照らし合わせれば、因果関係は明白です」
ルーアはファイルから束になった紙を取り出し、ヒラヒラと見せつけた。
そこには、これまでのロランドの失態と、それにかかった経費が事細かに記されている。
「うっ……」
言葉に詰まるロランドを尻目に、ルーアは計算機のエンターキーを力強く叩いた。
チーン!
完了を告げるベルの音が鳴り響く。
ルーアは計算機から吐き出された長い長い紙テープをちぎり取り、恭しく王子の前に差し出した。
「はい、こちらが今回の請求総額になります。分割払いは金利15パーセントいただきますが、王族の面子にかけて、もちろん一括払いですよね?」
ロランドは震える手でその紙を受け取り、そこに書かれた数字を見て目を剥いた。
「なっ……! なんだこの桁は!? 国家予算の三ヶ月分はあるぞ!?」
「あら、妥当な金額ですよ。むしろ、私の十年という青春を捧げた対価としては安いくらいです」
ルーアは涼しい顔で言い放つ。
会場の空気は、完全に変わっていた。
先ほどまでは「婚約破棄された哀れな令嬢」を見る目だったが、今は「絶対に敵に回してはいけない女」を見る恐怖と尊敬の入り混じった眼差しになっている。
「さあ、殿下。サインをお願いします。ここにサインをいただければ、私は今すぐこの場から消え失せ、二度と殿下の視界に入ることはありません」
「ぐぬぬ……」
「それとも、国王陛下をお呼びしましょうか? 陛下なら、この請求書の正当性を正しく理解してくださると思いますが」
国王という単語が出た瞬間、ロランドの肩がビクリと震えた。
厳格な父王に、自分の浮気と職務怠慢、そしてこの莫大な請求書が見つかれば、廃嫡は免れない。
「わ、わかった……! 払えばいいんだろう、払えば!」
「ありがとうございます。支払期限は明日のお昼十二時となっておりますので、遅れなきよう」
ルーアは懐からあらかじめ用意していた『債務承認弁済契約書』を取り出し、羽ペンを渡す。
ロランドは悔しげに唇を噛み締めながら、震える手でサインをした。
その様子を見ていたミナが、呆然と呟く。
「ロランド様……私たち、真実の愛で結ばれてるんですよね……? お金なんて関係ないですよね……?」
「黙ってろミナ! 今それどころじゃないんだ!」
王子の怒鳴り声に、ミナがびくりと縮こまる。
その愛の薄っぺらさに、ルーアは鼻で笑いそうになるのを必死でこらえた。
(さて、これで書類は整ったわ)
ルーアはサイン入りの契約書を大切にファイルにしまうと、鞄を閉じて立ち上がった。
背筋をピンと伸ばし、堂々とした態度で王子とミナ、そして周囲の貴族たちを見渡す。
「皆様、お騒がせいたしました。これにて、私とロランド殿下の婚約は正式に破棄されました。以後、私に関わらないようお願い申し上げます」
完璧なカーテシーを披露すると、ルーアは踵を返した。
その足取りは、来た時よりも遥かに軽い。
「あ、そうだ」
出口に向かいかけたところで、ルーアは思い出したように振り返った。
「殿下、明日からの公務ですが、未処理の書類が山積みですので頑張ってくださいね。私はもうやらないので」
「……え?」
「それでは、ごきげんよう」
ルーアは颯爽と大広間を後にした。
背後から、「え、書類? 山積み? 待て、ルーア! おい!」という王子の悲鳴が聞こえてきたが、彼女は振り返らない。
夜風が頬を撫でる。
王宮の重苦しい空気から解放されたルーアは、満天の星空を見上げ、大きく伸びをした。
「やった……やったわ……!」
口元から自然と笑みがこぼれる。
「これで、あの無能な王子の尻拭いから解放される! 毎晩の残業も、休日の呼び出しも、意味不明なポエムを聞かされる時間も、全部終わり!」
彼女は拳を空に突き上げ、叫びたい衝動を抑えながら呟いた。
「自由だわ! しかも、一生遊んで暮らせるだけの慰謝料付きで!」
ルーア・バーンスタイン、十八歳。
悪役令嬢としての汚名を被りながらも、彼女は今、人生で最高の夜を迎えていた。
しかし、彼女はまだ知らない。
その優秀すぎる事務処理能力と、一切の情に流されない鋼のメンタルに目をつけた、さらに厄介な男がすぐ近くにいることを。
王宮のテラスの影から、一人の男が興味深そうに彼女を見下ろしていた。
「……面白い。あれほどの計算高さ、私の領地に欲しい人材だ」
闇夜に溶け込むような黒髪と、凍てつくような氷色の瞳を持つ男。
隣国の公爵、クラウス・フォン・ドラグーンが、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべていた。
シャンデリアの煌めきの下、着飾った貴族たちが息を呑み、視線を一点に集中させる。
その視線の先にいるのは、この国の第二王子ロランドと、その腕にしなだれかかる男爵令嬢ミナ。
そして、彼らと対峙するように一人佇む、公爵令嬢ルーア・バーンスタインだ。
ロランド王子は、金色の髪を揺らしながら、まるで劇場の主役のように声を張り上げた。
「ルーア・バーンスタイン! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」
広間がどよめきに包まれる。
誰もが予想だにしなかった事態に、扇で口元を隠し、ひそひそと噂話を始める貴族たち。
そんな中、婚約破棄を突きつけられた当の本人であるルーアは、ゆっくりと瞬きを一度だけした。
そして、無表情のまま懐から懐中時計を取り出し、チラリと針の位置を確認する。
(現在時刻、二十時十五分。予定されていたダンスの終了時刻から三分遅延。この断罪劇のせいで帰宅時間がずれ込むわね……)
ルーアにとって、婚約破棄そのものは大した問題ではなかった。
問題なのは、この茶番劇によって自身の貴重な睡眠時間が削られること、ただ一点のみだ。
彼女は懐中時計をしまうと、冷ややかな視線を王子に向けた。
「……殿下。今の発言、公的な決定事項と受け取ってよろしいのでしょうか?」
あまりに淡々とした反応に、ロランド王子の眉がピクリと跳ね上がる。
彼はルーアが泣き崩れるか、あるいは怒り狂うことを期待していたのだろう。
「なんだその態度は! 自分が置かれている立場を理解していないのか!? 貴様は、私の愛するミナに対して数々の陰湿な嫌がらせを行ってきただろう!」
「ひどいですぅ、ルーア様ぁ……。私、怖くて……」
ミナがロランドの胸に顔を埋め、震えるふりをする。
その演技力は三流の舞台役者にも劣るが、お花畑脳の王子には効果てきめんらしい。
ロランドはミナを抱きしめ、さらに語気を強める。
「教科書を破く、階段から突き落とそうとする、お茶会に呼ばない……数え上げればキリがない! これほどの悪行、未来の王妃としてふさわしくない!」
周囲の貴族たちが、「まあ、なんて恐ろしい」「やはり鉄の女と呼ばれるだけはある」と囁き合う。
ルーアは小さくため息をつき、ドレスの隠しポケットから一冊の手帳を取り出した。
「殿下、事実確認をさせていただきます。まず教科書の件ですが、ミナ男爵令嬢が授業中に居眠りをしてよだれで汚したものを、私が新しいものと交換する手配をした記録が図書委員会の議事録に残っています」
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「なっ……」
「最後にお茶会の件ですが、招待状は送りました。しかし、返信期限を二週間過ぎても音沙汰がなかったため、欠席として処理しただけです。ビジネスマナーの欠如を私のせいにされては困ります」
ルーアの口から次々と放たれる正論の弾丸に、ロランドはたじろいだ。
「へ、屁理屈を言うな! とにかく、貴様のその冷血な性格にはもう耐えられないのだ! 私は真実の愛を見つけた! ミナこそが、私の運命の相手だ!」
「そうですぅ! 愛は理屈じゃないんですぅ!」
ミナが便乗して叫ぶ。
ルーアは手帳をパタンと閉じると、今日一番の冷ややかな眼差しを二人に向けた。
「つまり、正当な理由なき一方的な婚約破棄、ということでよろしいですね?」
「う、うるさい! 理由なら今言っただろう! 貴様への愛が冷めたのだ!」
「愛が冷めた。なるほど、個人的な感情による契約不履行ですね。承知いたしました」
ルーアの声色が、スッと変わる。
それは、面倒な仕事を片付ける際の、事務的かつ効率的なトーンだった。
「では、こちらの処理に入らせていただきます」
彼女はそう言うと、どこからともなく取り出した大きめの鞄を開き、中から分厚いファイルと、年代物の、しかし手入れの行き届いた『魔導計算機』を取り出した。
ガシャン、と重厚な音が床に響く。
「……な、何だそれは?」
「何って、精算の準備ですが?」
ルーアはドレスの裾を邪魔にならないように蹴り上げると、その場でしゃがみ込み、魔導計算機のキーを凄まじい速度で叩き始めた。
タタタタタタタッ!
軽快かつ高速な打鍵音が、静まり返った大広間にこだまする。
「えー、まずは婚約期間十年における、精神的苦痛に対する慰謝料。これは王家との契約条項第5条に基づき、基本金の三倍を請求させていただきます」
「は、はあ!?」
「次に、私がこれまで代行してきた殿下の公務に関する未払い賃金です。書類作成、式典の根回し、地方視察のレポート代筆……これらは本来、殿下がなすべき業務でした。労働基準法および王宮規定の管理職手当を適用し、時間外労働分は五割増しで算出します」
タタタタッ、ターン!
小気味よい音が響くたびに、ロランドの顔色が青ざめていく。
「ちょ、待て! 金の話などしていない!」
「いいえ、これは金の話です。殿下は『愛』という不確かな概念で契約を破棄しようとしていますが、婚約とは家と家、国と国との契約です。契約解除には違約金が発生する。商売の基本でしょう?」
ルーアは計算機を叩く手を止めず、顔だけを上げてニッコリと笑った。
その笑顔は、慈愛に満ちた聖女のようでありながら、目の奥は全く笑っていない。
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「さらに、私が殿下の尻拭いのために費やした『化粧品代』および『ストレスケア代』も上乗せさせていただきます。殿下の失言をフォローするために奔走したせいで、私のお肌は荒れ放題でしたから」
「そ、そんなものは言いがかりだ!」
「領収書、すべて保管してありますわよ? 日付と用途、そしてその原因となった殿下の不始末のリストと照らし合わせれば、因果関係は明白です」
ルーアはファイルから束になった紙を取り出し、ヒラヒラと見せつけた。
そこには、これまでのロランドの失態と、それにかかった経費が事細かに記されている。
「うっ……」
言葉に詰まるロランドを尻目に、ルーアは計算機のエンターキーを力強く叩いた。
チーン!
完了を告げるベルの音が鳴り響く。
ルーアは計算機から吐き出された長い長い紙テープをちぎり取り、恭しく王子の前に差し出した。
「はい、こちらが今回の請求総額になります。分割払いは金利15パーセントいただきますが、王族の面子にかけて、もちろん一括払いですよね?」
ロランドは震える手でその紙を受け取り、そこに書かれた数字を見て目を剥いた。
「なっ……! なんだこの桁は!? 国家予算の三ヶ月分はあるぞ!?」
「あら、妥当な金額ですよ。むしろ、私の十年という青春を捧げた対価としては安いくらいです」
ルーアは涼しい顔で言い放つ。
会場の空気は、完全に変わっていた。
先ほどまでは「婚約破棄された哀れな令嬢」を見る目だったが、今は「絶対に敵に回してはいけない女」を見る恐怖と尊敬の入り混じった眼差しになっている。
「さあ、殿下。サインをお願いします。ここにサインをいただければ、私は今すぐこの場から消え失せ、二度と殿下の視界に入ることはありません」
「ぐぬぬ……」
「それとも、国王陛下をお呼びしましょうか? 陛下なら、この請求書の正当性を正しく理解してくださると思いますが」
国王という単語が出た瞬間、ロランドの肩がビクリと震えた。
厳格な父王に、自分の浮気と職務怠慢、そしてこの莫大な請求書が見つかれば、廃嫡は免れない。
「わ、わかった……! 払えばいいんだろう、払えば!」
「ありがとうございます。支払期限は明日のお昼十二時となっておりますので、遅れなきよう」
ルーアは懐からあらかじめ用意していた『債務承認弁済契約書』を取り出し、羽ペンを渡す。
ロランドは悔しげに唇を噛み締めながら、震える手でサインをした。
その様子を見ていたミナが、呆然と呟く。
「ロランド様……私たち、真実の愛で結ばれてるんですよね……? お金なんて関係ないですよね……?」
「黙ってろミナ! 今それどころじゃないんだ!」
王子の怒鳴り声に、ミナがびくりと縮こまる。
その愛の薄っぺらさに、ルーアは鼻で笑いそうになるのを必死でこらえた。
(さて、これで書類は整ったわ)
ルーアはサイン入りの契約書を大切にファイルにしまうと、鞄を閉じて立ち上がった。
背筋をピンと伸ばし、堂々とした態度で王子とミナ、そして周囲の貴族たちを見渡す。
「皆様、お騒がせいたしました。これにて、私とロランド殿下の婚約は正式に破棄されました。以後、私に関わらないようお願い申し上げます」
完璧なカーテシーを披露すると、ルーアは踵を返した。
その足取りは、来た時よりも遥かに軽い。
「あ、そうだ」
出口に向かいかけたところで、ルーアは思い出したように振り返った。
「殿下、明日からの公務ですが、未処理の書類が山積みですので頑張ってくださいね。私はもうやらないので」
「……え?」
「それでは、ごきげんよう」
ルーアは颯爽と大広間を後にした。
背後から、「え、書類? 山積み? 待て、ルーア! おい!」という王子の悲鳴が聞こえてきたが、彼女は振り返らない。
夜風が頬を撫でる。
王宮の重苦しい空気から解放されたルーアは、満天の星空を見上げ、大きく伸びをした。
「やった……やったわ……!」
口元から自然と笑みがこぼれる。
「これで、あの無能な王子の尻拭いから解放される! 毎晩の残業も、休日の呼び出しも、意味不明なポエムを聞かされる時間も、全部終わり!」
彼女は拳を空に突き上げ、叫びたい衝動を抑えながら呟いた。
「自由だわ! しかも、一生遊んで暮らせるだけの慰謝料付きで!」
ルーア・バーンスタイン、十八歳。
悪役令嬢としての汚名を被りながらも、彼女は今、人生で最高の夜を迎えていた。
しかし、彼女はまだ知らない。
その優秀すぎる事務処理能力と、一切の情に流されない鋼のメンタルに目をつけた、さらに厄介な男がすぐ近くにいることを。
王宮のテラスの影から、一人の男が興味深そうに彼女を見下ろしていた。
「……面白い。あれほどの計算高さ、私の領地に欲しい人材だ」
闇夜に溶け込むような黒髪と、凍てつくような氷色の瞳を持つ男。
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