泣き喚け! 婚約破棄された悪役令嬢は、全速力でどん底へ

八雲

文字の大きさ
16 / 28

16

しおりを挟む
「……ああ、憎らしい。この、溢れんばかりの健康体が憎らしいですわ……!」


熱が下がって二日後の朝。
私は公爵邸のバルコニーで、真っ赤に熟したリンゴを齧りながら、抜けるような青空に向かって毒づいた。


頬の血色は良くなり、肌にはツヤが戻り、あんなに「絶望の淵」にいたはずなのに、お腹は規則正しく鳴っている。


「お嬢様。リンゴを二個も完食しておいて、健康を恨むのは流石に無理があります。……あと、その真っ黒なベールを被って果物を食べる姿、近所の子供たちが泣きながら逃げていきましたよ」


「いいのよ、アン。私は『健康という名の呪い』にかけられた死体なんですの。……見て、この脈拍。なんて力強いのかしら。私の意志に反して、生きようとする細胞たちが恨めしいわ……!」


私が再びドラマチックに溜息をついた時、背後の扉が静かに開いた。


「……お前、バルコニーで何を喚いている。……ほら、約束のインクだ」


セドリック様だ。
彼は、私が熱望していた『絶望の特注黒インク』の瓶を、無造作にテーブルへ置いた。


「セドリック様! お待ちしておりましたわ! ……まあ、見てください。この、闇を煮詰めたような漆黒……。これこそが、私の冷え切った血にふさわしい筆記具ですわね!」


私は喜びのあまり、黒いベールを跳ね除けてインク瓶に飛びついた。


「……。……。……元気そうだな。……ナタリー」


「ええ、残念ながら! 私の魂は死んでいるのに、体だけは図々しくも再生してしまいましたの。……これもまた、一つの残酷な喜劇だと思いませんこと?」


私はインク瓶を愛おしそうに撫でながら、セドリック様にニヤリと笑いかけた。
しかし、セドリック様はいつものように冷徹なツッコミを返さず、じっと私を見つめていた。


「……お前は、いつまで死んでいるつもりだ」


「えっ……? ……いつまで、と言われましても。私は一生、この悲劇のヒロインという名の墓守として生きていく決意をして――」


「いい加減、認めろ。ナタリー」


セドリック様が一歩、詰め寄ってきた。
太陽の光を背負った彼の長身が、私に濃い影を落とす。


「お前は、昨日、私が持ってきた粥を完食した。……今朝も、そのリンゴを美味しそうに食べた。……そして今、新しいインクを見て、目を輝かせている」


「そ、それは生理現象というか、物欲というか……!」


「それが『生きている』ということだ」


セドリック様の声は、いつになく低く、そしてどこか切実だった。
彼は私の手からインク瓶をそっと取り上げると、空いている方の手で、私の胸元を指差した。


「ここにあるのは、冷えたコンソメスープでも、バラバラになった硝子細工でもない。……熱を持って、必死に動いている心臓だ。……お前がどれだけ言葉で自分を殺そうとしても、お前の体は、一秒たりとも生きることを諦めていない」


「………………っ」


「……あなたは、まだ生きています。ナタリー。……それを、そんなに悲しまないでくれ」


セドリック様の指先が、ほんの一瞬だけ、私の頬に触れたような気がした。
看病の時の、あの温かさが、再び私の心の中に流れ込んでくる。


私は、言葉を失った。
いつものように「失礼ですわ! 私の心臓は今、ドロドロのタールでできていますのよ!」と叫ぶことが、どうしてもできなかった。


だって、彼の瞳があまりにも真剣で。
冷徹な官僚という仮面の裏側で、彼がどれだけ私の「生」を肯定しようとしてくれているのかが、痛いほど伝わってきてしまったから。


「……。……。……セドリック様。……あなた、卑怯ですわ」


私は、震える声でようやくそれだけを絞り出した。


「……卑怯? 何がだ」


「……そんな風に、真っ当なことを仰るなんて。……それじゃあ、私がただの『立ち直れないフリをしている恥ずかしい女』みたいではありませんこと」


「……自覚があったのか」


「ありませんわよ! ……ああ、もう! インクを返してくださいまし! 私は、生きる苦しみを歌い上げるために、これを注文したのですからね!」


私はひったくるようにインク瓶を取り返すと、セドリック様から視線を逸らした。
顔が熱い。知恵熱がぶり返したのかもしれない。


「……勝手にしろ。……ただし。パーティーで倒れたりしたら、私がその『特注インク』を全部お前の口に流し込んでやるからな」


「……っ! なんて野蛮な! 流石は冷徹宰相補佐官、看病の次は拷問の予告ですのね!」


「……。……ふん。……あばよ、健康な死体様」


セドリック様は、少しだけ口角を上げると、背を向けて立ち去っていった。


私は、残されたバルコニーで、黒いインク瓶をぎゅっと抱きしめた。


「……。……。……心臓、うるさいですわね」


ドク、ドクと、確かに脈打つ音。
生きている。
私は、まだ生きている。


それを認めさせられたことが、今日一番の敗北……。
それなのに、私の口からは、なぜか小さく笑みが漏れてしまった。


「……アン! 見ていなさい。私、今日中に五十編のポエムを書きますわよ! 命の輝き(執念)をインクに変えて、王都中を恐怖のどん底に陥れてやるんですから!」


「はいはい、絶好調ですね。……本当にお嬢様は、立ち直るのがお上手ですこと」


アンの呆れた声を聞きながら、私は黒いペンを握りしめた。
立ち直れない令嬢の物語は、悲劇という名の「強行軍」へと、さらにギアを上げていくのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

【完結】旦那は堂々と不倫行為をするようになったのですが離婚もさせてくれないので、王子とお父様を味方につけました

よどら文鳥
恋愛
 ルーンブレイス国の国家予算に匹敵するほどの資産を持つハイマーネ家のソフィア令嬢は、サーヴィン=アウトロ男爵と恋愛結婚をした。  ソフィアは幸せな人生を送っていけると思っていたのだが、とある日サーヴィンの不倫行為が発覚した。それも一度や二度ではなかった。  ソフィアの気持ちは既に冷めていたため離婚を切り出すも、サーヴィンは立場を理由に認めようとしない。  更にサーヴィンは第二夫妻候補としてラランカという愛人を連れてくる。  再度離婚を申し立てようとするが、ソフィアの財閥と金だけを理由にして一向に離婚を認めようとしなかった。  ソフィアは家から飛び出しピンチになるが、救世主が現れる。  後に全ての成り行きを話し、ロミオ=ルーンブレイス第一王子を味方につけ、更にソフィアの父をも味方につけた。  ソフィアが想定していなかったほどの制裁が始まる。

旦那様には愛人がいますが気にしません。

りつ
恋愛
 イレーナの夫には愛人がいた。名はマリアンヌ。子どものように可愛らしい彼女のお腹にはすでに子どもまでいた。けれどイレーナは別に気にしなかった。彼女は子どもが嫌いだったから。 ※表紙は「かんたん表紙メーカー」様で作成しました。

頑張らない政略結婚

ひろか
恋愛
「これは政略結婚だ。私は君を愛することはないし、触れる気もない」 結婚式の直前、夫となるセルシオ様からの言葉です。 好きにしろと、君も愛人をつくれと。君も、もって言いましたわ。 ええ、好きにしますわ、私も愛する人を想い続けますわ! 五話完結、毎日更新

《完結》悪女と噂されたわたくしのざまぁ

ヴァンドール
恋愛
悪女と噂のわたくしとの結婚なら、どれほど軽んじても問題はないと思っていた旦那様。 ところが……。

【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。

銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。 しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。 しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……

新婚初夜に『白い結婚にしてほしい』と言われたので論理的に詰めたら夫が泣きました

ささい
恋愛
「愛人がいるから、白い結婚にしてほしい」 政略結婚の初夜にそう告げた夫ルーファス。 妻カレンの反応は—— 「それ、契約不履行ですよね?」 「あなたの感情論、論理的に破綻してますよ?」 泣き落としは通じない。 そして初夜の翌朝、夫は泣いていた。 逃げ道は全部塞がれ、気づけば毎日論破されていた。 これは、論破され続けた夫がなぜか幸せになる話。

処理中です...