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「……ああ。見える、見えますわ。お花畑の向こう側で、歴代のゴールドマン公爵たちが『こちらへおいで、ナタリー……』と手招きしていますわ……」
ゴールドマン公爵邸、ナタリーの自室。
部屋を真っ黒な布で覆い、窓を閉め切った暗闇の中で、私はベッドに横たわり、虚空を指差して呟いた。
「お嬢様、それはお花畑ではなくて、昨日セドリック様が無理やり置いていった『魔除けのハーブ』の鉢植えです。……あと、ご先祖様を勝手に呼び戻さないでください」
侍女のアンが、冷めた顔で私の額のタオルを替えた。
「いいえ、アン。私は今、失恋のショックと、昨日の野蛮な王(ゾルグ)からの求愛という名の精神的暴行により、命の火が消えかかっていますの。……ああっ、意識が……意識がキャビアの粒のように霧散していく……!」
「お嬢様、熱は37度ちょっとしかありません。ただの知恵熱です。……あ、噂をすれば、本物の死神……ではなく、セドリック様がお見えですよ」
扉が開き、長身の影が滑り込んできた。
セドリック様は、相変わらず隙のない官服姿だが、その手に提げているのは書類ではなく、見慣れない木の手桶だった。
「……ナタリー。まだ死んでいないようだな」
「……。……。……セドリック、様……。……来ないで。今の私は、死の香りをまとった不浄の存在……。あなたが近づくと、その輝かしいキャリアに『看取りのプロ』という不名誉な経歴が刻まれてしまいますわ……」
私は弱々しく(演技半分、だるさ半分で)目を細めた。
「……お前のその、死に際の間際まで饒舌な口をどうにかしろ。……アン、あとは私がやる。下がっていいぞ」
「はい、よろしくお願いします! お嬢様の『悲劇の独り言』に付き合うのは、もう限界でしたので!」
アンは逃げるように部屋を出ていった。
静まり返った暗闇で、セドリック様が私のベッドの脇に椅子を引いて座った。
「……ナタリー。少し体を起こせ。粥を持ってきた」
「粥……? そんな、健康的なものを今の私に? 今の私に必要なのは、氷水に浸したドクダミか、泥水のスープですわ……」
「黙って食え。これは、私がわざわざ厨房のシェフを追い出して、火加減を監視して作らせたものだ」
セドリック様は、小皿に盛られた真っ白な粥をスプーンで掬い、私の口元に突きつけた。
「……えっ。セドリック様が、監視を? ……あ、あなた、まさか毒を入れて、私のこの終わりのない悲劇を物理的に終わらせようというのですか!?」
「……お前の脳内は、一度洗浄した方がいいな。……ほら、あーんしろ」
「あ……あ、あーん……?」
私は、驚きのあまり思考が停止した。
あの、鉄の仮面を被ったような冷徹なセドリック様が、私に食事を運んでくださる?
私は恐る恐る口を開いた。
温かな粥が、喉を滑り落ちる。
「……。……。……。……おいしい」
「だろうな。米の炊き方から塩の加減まで、一ミリの妥協も許さず作らせたからな」
「……セドリック様。あなた、本当は私のことが心配で、昨日の仕事も放り出して駆けつけてくださったのでしょう? 『ナタリーが死んだら、誰が私の人生にツッコミを入れてくれるんだ!』って、泣きながら……」
「……仕事は終わらせてきた。泣いてもいない。……お前が寝込んで、公爵邸の芝生がこれ以上荒らされないことを喜んでいただけだ」
セドリック様は無表情で次のスプーンを差し出した。
けれど、その手はとても丁寧で、私がこぼさないように、もう片方の手で顎のあたりをフォローしてくれている。
「……。……。……。……ふふ。悲劇のヒロインも、たまには病気になるものですわね。こんなに優しくしていただけるなんて」
「……勘違いするな。お前が治らないと、パーティーの監視役としての私の任務が終わらないからだ」
「嘘つき。……セドリック様、あなたの手、さっきから少し震えていますわよ。……もしかして、私を失うのが、そんなに怖いですの?」
私がニヤリと笑うと、セドリック様の手が一瞬ピタリと止まった。
「……。……。……熱のせいで、幻覚でも見ているんだろう。……さっさと食え。……全部食べたら、お前が欲しがっていた『失恋記念の特注黒インク』の許可を出してやってもいい」
「特注の! 黒インク! ……ああっ、元気が出てきましたわ! 今の私の細胞が、創作意欲という名のガソリンで再起動しましたのよ!」
私はガバッと起き上がると、セドリック様の手からスプーンをひったくった。
「……。……。……。……おい、病人」
「今の私は、病人ではありません! 『執念の作家』ですわ! セドリック様、見ていてください。パーティー当日、列席者全員を失神させるほどの、地獄のようなポエムを書き上げて差し上げますわ!」
私は勢いよく粥をかき込んだ。
セドリック様は、呆れたように、しかしどこか安心したように眼鏡を指で直した。
「……全く。現金な奴だ。……ナタリー。あまり無理はするなよ。……お前が本当に死んだら……。……その……。……笑えない冗談が、この国から消えてしまうからな」
セドリック様の最後の一言は、とても小さくて、咀嚼音にかき消されそうだった。
私は粥を飲み込み、彼を見つめた。
暗闇に慣れた瞳に、彼のわずかに赤くなった耳が見えた気がした。
「……セドリック様。……今の言葉、録音しておきたかったですわ。私の『墓石に刻む名言集』のトップにランクインしましたのに」
「……寝ろ。明日の朝、熱が下がっていなかったら、そのインクの話は白紙だ」
セドリック様は乱暴に私の頭に布団を被せると、足早に部屋を出ていった。
私は暗い布団の中で、粥の温もりを噛み締めた。
立ち直れない。
私はまだ、婚約破棄された絶望の底にいる。
けれど。
「……おのれ、セドリック様。看病までドラマチックにするなんて。……私の『悲劇』の台本に、勝手な修正を加えないでくださいまし……」
私は、少しだけ軽くなった体で、心地よい眠りへと落ちていった。
ゴールドマン公爵邸、ナタリーの自室。
部屋を真っ黒な布で覆い、窓を閉め切った暗闇の中で、私はベッドに横たわり、虚空を指差して呟いた。
「お嬢様、それはお花畑ではなくて、昨日セドリック様が無理やり置いていった『魔除けのハーブ』の鉢植えです。……あと、ご先祖様を勝手に呼び戻さないでください」
侍女のアンが、冷めた顔で私の額のタオルを替えた。
「いいえ、アン。私は今、失恋のショックと、昨日の野蛮な王(ゾルグ)からの求愛という名の精神的暴行により、命の火が消えかかっていますの。……ああっ、意識が……意識がキャビアの粒のように霧散していく……!」
「お嬢様、熱は37度ちょっとしかありません。ただの知恵熱です。……あ、噂をすれば、本物の死神……ではなく、セドリック様がお見えですよ」
扉が開き、長身の影が滑り込んできた。
セドリック様は、相変わらず隙のない官服姿だが、その手に提げているのは書類ではなく、見慣れない木の手桶だった。
「……ナタリー。まだ死んでいないようだな」
「……。……。……セドリック、様……。……来ないで。今の私は、死の香りをまとった不浄の存在……。あなたが近づくと、その輝かしいキャリアに『看取りのプロ』という不名誉な経歴が刻まれてしまいますわ……」
私は弱々しく(演技半分、だるさ半分で)目を細めた。
「……お前のその、死に際の間際まで饒舌な口をどうにかしろ。……アン、あとは私がやる。下がっていいぞ」
「はい、よろしくお願いします! お嬢様の『悲劇の独り言』に付き合うのは、もう限界でしたので!」
アンは逃げるように部屋を出ていった。
静まり返った暗闇で、セドリック様が私のベッドの脇に椅子を引いて座った。
「……ナタリー。少し体を起こせ。粥を持ってきた」
「粥……? そんな、健康的なものを今の私に? 今の私に必要なのは、氷水に浸したドクダミか、泥水のスープですわ……」
「黙って食え。これは、私がわざわざ厨房のシェフを追い出して、火加減を監視して作らせたものだ」
セドリック様は、小皿に盛られた真っ白な粥をスプーンで掬い、私の口元に突きつけた。
「……えっ。セドリック様が、監視を? ……あ、あなた、まさか毒を入れて、私のこの終わりのない悲劇を物理的に終わらせようというのですか!?」
「……お前の脳内は、一度洗浄した方がいいな。……ほら、あーんしろ」
「あ……あ、あーん……?」
私は、驚きのあまり思考が停止した。
あの、鉄の仮面を被ったような冷徹なセドリック様が、私に食事を運んでくださる?
私は恐る恐る口を開いた。
温かな粥が、喉を滑り落ちる。
「……。……。……。……おいしい」
「だろうな。米の炊き方から塩の加減まで、一ミリの妥協も許さず作らせたからな」
「……セドリック様。あなた、本当は私のことが心配で、昨日の仕事も放り出して駆けつけてくださったのでしょう? 『ナタリーが死んだら、誰が私の人生にツッコミを入れてくれるんだ!』って、泣きながら……」
「……仕事は終わらせてきた。泣いてもいない。……お前が寝込んで、公爵邸の芝生がこれ以上荒らされないことを喜んでいただけだ」
セドリック様は無表情で次のスプーンを差し出した。
けれど、その手はとても丁寧で、私がこぼさないように、もう片方の手で顎のあたりをフォローしてくれている。
「……。……。……。……ふふ。悲劇のヒロインも、たまには病気になるものですわね。こんなに優しくしていただけるなんて」
「……勘違いするな。お前が治らないと、パーティーの監視役としての私の任務が終わらないからだ」
「嘘つき。……セドリック様、あなたの手、さっきから少し震えていますわよ。……もしかして、私を失うのが、そんなに怖いですの?」
私がニヤリと笑うと、セドリック様の手が一瞬ピタリと止まった。
「……。……。……熱のせいで、幻覚でも見ているんだろう。……さっさと食え。……全部食べたら、お前が欲しがっていた『失恋記念の特注黒インク』の許可を出してやってもいい」
「特注の! 黒インク! ……ああっ、元気が出てきましたわ! 今の私の細胞が、創作意欲という名のガソリンで再起動しましたのよ!」
私はガバッと起き上がると、セドリック様の手からスプーンをひったくった。
「……。……。……。……おい、病人」
「今の私は、病人ではありません! 『執念の作家』ですわ! セドリック様、見ていてください。パーティー当日、列席者全員を失神させるほどの、地獄のようなポエムを書き上げて差し上げますわ!」
私は勢いよく粥をかき込んだ。
セドリック様は、呆れたように、しかしどこか安心したように眼鏡を指で直した。
「……全く。現金な奴だ。……ナタリー。あまり無理はするなよ。……お前が本当に死んだら……。……その……。……笑えない冗談が、この国から消えてしまうからな」
セドリック様の最後の一言は、とても小さくて、咀嚼音にかき消されそうだった。
私は粥を飲み込み、彼を見つめた。
暗闇に慣れた瞳に、彼のわずかに赤くなった耳が見えた気がした。
「……セドリック様。……今の言葉、録音しておきたかったですわ。私の『墓石に刻む名言集』のトップにランクインしましたのに」
「……寝ろ。明日の朝、熱が下がっていなかったら、そのインクの話は白紙だ」
セドリック様は乱暴に私の頭に布団を被せると、足早に部屋を出ていった。
私は暗い布団の中で、粥の温もりを噛み締めた。
立ち直れない。
私はまだ、婚約破棄された絶望の底にいる。
けれど。
「……おのれ、セドリック様。看病までドラマチックにするなんて。……私の『悲劇』の台本に、勝手な修正を加えないでくださいまし……」
私は、少しだけ軽くなった体で、心地よい眠りへと落ちていった。
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