兵法とは平和の法なり

MIROKU

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寛永編

魔性

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 兵法の真髄とは何かと七郎はいつも考えている。
 成し遂げた勝利の味も、すぐに忘れる。目指す境地は、はるか彼方にあるからだ。
 しかし、考えるだけでは腹が減る。
「源のうどん屋に行ってみやしょう」
「そうするか」
 政に誘われて七郎はうどん屋目指して歩き出した。道の左右には武家屋敷が並んでいる。昼時になったせいか、どこの屋敷からも人が出てくる。
「皆、腹が減ったんだな」
「そうでしょうね」
 一日二食が一般的な時代だが、肉体労働者は腹が減る。二食では体が保たない。なので昼に食事を提供する店は多い。むしろ夜に開いている店の方が少ない。便利な明かりもなく、夜は暗く、闇に包まれている。
「あいつの店の看板娘が評判いいらしいですよ」
 政はニヤニヤしている。小男で風采が上がらないが、手裏剣術に優れた政は、江戸城御庭番の切り札の一人である。彼の手裏剣の前には、いかなる手練もあっさりと敗北した。
「うむ」
 七郎は真面目くさった顔でうなずいた。源の店の看板娘は揃って亭主持ちだが、それはそれ。女日照りの七郎には、愛想良い女の笑顔だけでも神仏の慈愛に等しい。
 
 
 河原では旅芸人一座が昼食の準備をしていた。
「おい、かすみ。水をくんできてくれ」
「あいよ」
 一座の親方に頼まれた娘が手桶を両手に川へ行く。肌の浅黒い娘だが器量良しだ。
 名は、かすみという。旅芸人という宿命は、霞のようであるという事なのか。
 何にせよ、かすみは川まで水くみに向かった。そして河原に座りこんだ男の丸まった背を見た。
「何してんだい」
 かすみは男の背に声をかけた。彼女は男がぼんやりと水面を見つめている様子に、ただならぬ気配を感じ取ったのだ。
 だが男は何も答えない。仕方ないので、かすみは両手の手桶に川の水を一杯にした。しなやかな所作である。年頃は十七、八か。彼女は旅芸人一座の花形で、高所での綱渡りを芸としている。
「……なあ」
 男がかすみに呼びかけた。男は夜の中で魔性の蜘蛛女と遭遇し、更に般若面によって制された順三郎であった。
 
 
 夜の庭で七郎は目を閉じ瞑想する。
 闇と静寂の中で七郎の魂は天地宇宙と調和した。
 心に浮かびゆく数々の思い。それは己の進んできた道と、これから進むべき道への思いだ。
 七郎は目を開くと共に抜刀した。横薙ぎの一閃が闇を斬る。
 勢いを殺さず頭上に振り上げ、踏みこんで一刀を打ち下ろす。
 夜の闇に潜んでいた魔物も逃げ出さんばかりの迫力であった。
 七郎が手にする刀は三池典太という。後世では国宝に数えられる名刀で、その刃は魔物をも斬ると伝えられる。
 ――斬れるか、無明を。
 七郎は刀の峰を右手で軽く打ち、刃を鞘に納めた。
 月下に佇む七郎には、死を覚悟した者の放つ潔い気配がある。
 その七郎は自らに問うていたのだ。無明を断てるかと。
 無明とはこの江戸を覆う不穏な気配に他ならない。
 
 
 江戸城御庭番と共に日々を生きる七郎。
 彼の心は虚無だ。十数年に及ぶ隠密行の中で心は乾いてしまった。
 だが唯一、彼の魂が輝く時がある。それが兵法だ。
 父と師から受け継いだ技と魂、更には飯坂長威斎の説いた「兵法とは平和の法なり」という概念――
 それを実践するために彼は江戸を守る戦いに身を投じる……
「若、何にしやす?」
 物思いにふけっていた七郎に源が注文を取りに来た。ここは源のうどん屋だ。
「ん? あ、ああ、一切の無駄のないものを」
「じゃあ、素うどんでよろしいですかい」
「ではそれで」
 という事になったが、運ばれてきたうどんを見つめて、七郎は寂しさを覚えた。
 素うどんには刻んだネギがたっぷりと乗せられている。いい味ではあるのだが、ふと店内を見回せば、うどんの上に様々な具が乗せられているのが目に入る。
 竹輪やかまぼこ、野菜の天ぷらなどもある。源の店ではうどんとは別に各種の惣菜があるのだ。
 これによって客は自分だけの特別なうどんを楽しめる。値は張るが食べる喜びがある。だから客足が増えてきているのかもしれない。
「大事な事は一つだけではないな……」
 七郎はうどんをすすりながら苦笑した。彼は洗練された無駄のない一手を追求する。なぜなら武の真髄とは一瞬で敵を倒す事にあるからだ。
 だが、それはそれ、これはこれだ。それに気づけただけでも七郎には大事な悟りだ。
「蕎麦切りも頼む」
「へい、まいど」
 七郎は蕎麦切りを追加注文した。この時代の蕎麦切りとは、後世の蕎麦の事だ。単に蕎麦だと、丸めた蕎麦がきの事になる。
 また蕎麦に含まれる成分には疲労回復の効果があり、それがために肉体労働者に好まれ、江戸では蕎麦が広がったのかもしれない。
 
 
 かすみの旅芸人一座は驚いた。河原で出会った武士の順三郎が五両以上の大金を持参して、頼み事に来たからだ。
「ど、どうしたの、この金?」
「刀を売った」
 順三郎は落ち着いていた。武士の魂といえる刀を質に売り、彼はどうする気なのか。
「俺をここへ置いてくれないか、何でもする」
 順三郎はかすみ以下、旅芸人一座の者に深々と頭を下げた。これは彼の新たな一歩だった。
「俺をここに置いてくれ!」
 順三郎は必死だった。彼は武士の誇りを捨てて、何かになろうとしているのだ。
「まあ、いいんじゃないか? 力仕事に男手は必要だしな」
 旅芸人一座の親方は言った。彼は順三郎の気に入らないところが気に入ったのだ。
「ふうん」
 かすみは順三郎をジロジロ見つめた。
「な、何だ」
「いや別に…… あの時の奴がねえ」
 かすみの言葉の意味が、順三郎にはわからなかった。
 
 
 政はとある武家屋敷の庭で植木の手入れをしていた。
 小男ながら彼は江戸城御庭番の忍びだ。ましてや軽業と手裏剣術に関しては右に出る者のない政だ。はしごに登って高所の枝にハサミを入れるのは、得意なものだ。
「次はあちらも」
 武家屋敷の女が居丈高に政に言った。恐らくは大名の家老の奥方であろう。庭で作業する者達に上から目線で物を言う。
「まあ仕方ねえわな」
 政は黙々と働く。五十代と見える奥方も、故郷から江戸に来て鬱憤が溜まっているのだ。
 江戸に来て物見遊山というわけにもいかぬ。参勤交代で江戸にやってきた大名や武士の外出は幕府に制限されていた。
 武士がたまの休日に江戸の町中に出ていくのに対し、大名の奥方ともなれば簡単に外出するわけにもいかぬ。それは故郷でも同じだったろう。
 武家屋敷の庭の手入れは、彼女らには暇つぶし、あるいは鬱憤晴らしの一つだった。
「庭に池も作りたい。鯉を放し、小さな橋もかけて」
「へいへい」
 全く女ってのは欲にきりがねえ――
 心中に毒づきながら政は調子よく返事をする。彼女らの欲求のおかげで仕事が増えるのだ。
 仕事が増えれば、それで食っていける者も現れる。風が吹けば桶屋が儲かるという。金は天下の回り物だとも。
 全ては繋がっているのだと、政は労働を通じて学んだ。
 
 
 七郎は江戸の町中を回りながら、旅芸人一座が来ている事を知った。その講演も間もなくだという事も。
 更に一座の目玉は美女による高所渡りだという事も。
「うむ」
 七郎はかしこまって鼻息を荒くした。
「ふむふむ美女による高所渡りか」
 七郎が聞いた話によれば、高所に張った綱の上を美女が長い竿を持って渡るという。
 美女は着流し一枚の艶めかしい姿で、観客は下からその様子を眺めるらしい。
「ふむ…………」
 七郎は腕組みして目を閉じた。軽い瞑想だ。七郎の意識は現世から離れた。
 戦国の世ではいたるところに人の死体が転がっていたという。食べ物もなく、世にあふれていたのは暴力と死だと父の又右衛門は言っていた。師事した次郎右衛門もだ。
 それが今は食べ物もあり、旅芸人一座の美女に胸を高鳴らせる事ができる…… 正に天下泰平の世だ。世は平和なのだ。
 同時に七郎は島原の乱を思い出した。彼は幕府の隠密として島原にいた。島原の人々が信仰していたのは、聖母マリアと観音菩薩が融合した慈母観音であった。
 慈母観音は命を守り、未来へつなぐ事を尊い教えとしていた。
「……そうだよな、そうでなければな」
 七郎は瞑想から覚めた。彼が命がけで江戸を守るのは、島原で出会った少女のためでもある。
 命を守る、未来へつなぐ。
 それを命がけで実践する事で少女の魂は、いや島原の乱で死んだ人々は、少しずつ成仏していけるだろうと七郎は信じている……
「……何を考えてるの?」
 おりんが茶と団子を運んできた。ここは七郎馴染みの茶屋の店先だ。
「難しい顔してさ」
「あ、いや、いろいろあってな」
「あんたって口を開かなければ二枚目なのにね」
「え、何だって」
「何でもなーい」
 おりんは床几の上に、七郎の隣に茶と団子を乗せた盆を置いて戻っていった。
「うまいな……」
 七郎は団子を食い、茶を飲み、左の隻眼で空を見上げた。青い空に白い雲。今日もお江戸は日本晴れだ。
「また来るんだよ」
 茶屋の店主、老婆のおまつが七郎に声をかけた。
「ああ、生きて帰るさ」
 七郎はおまつにそう言って床几から立ち上がった。茶代も床几に残している。
「あ、そうだ。旅芸人一座の講演を観に行かないかと、おりんに伝えてくれないか」
「そういう大事な事は自分で言うんだよ」
「むむむ」
 これは一本取られた、と七郎は苦笑した。
「何の話?」
 と、そこにおりんが戻ってきた。他の客に茶を運びつつ、七郎とおまつの話を盗み聞きしていたらしい。
「あ、いや、旅芸人一座のだな」
「……また変な蝋人形の見世物じゃないでしょうね」
 おりんは頭一つ高い七郎の顔を、下からねめつけるように見上げた。彼女は以前、七郎と旅芸人一座の芸を観に出かけたが、講演は予定を早めて終了していた。
 そして代わりに蝋人形展が開催されていたが、それが実に悪趣味であった。
 江戸の郊外に現れる遊魔(ゆうま)、血河童豚(ちかっぱぶた)。
 それは家畜を襲って血を吸うという、河童のように緑色の体色を持ち、外見は豚に似るという。
 家畜の血を吸う河童のような、豚のような生物。という事で血河童豚と呼ばれているが、その蝋人形が忘れられぬくらい不気味であった。
「あたし今でも夢に見るからね!」
「す、すまん!」
「今度は本当に旅芸人なんでしょうね?」
 おりんが腰に両手を当てて、じっと七郎を見据えた。その迫力に七郎は心胆が冷える心地がした。
 端から見ているおまつが、袖元で口を隠してクスクス笑う。隻眼の厳つい七郎が、おりんのような小娘に、たじたじとなるとは。
 男と女は永遠の形かもしれぬ。男と女の間に命と未来が、つまり人間が産まれるのだから。
 七郎の使命はそれを守る事だ。そのために死すのだ。
 
 
 夕刻、七郎と政は源のうどん屋にいた。一日の労働を終えた後は、たった一杯の酒が格別に美味いのだ。
「看板娘さんは?」
 政は店内を見回した。すでに夕刻、薄暗い店内は行灯の明かりに照らされていた。
「もう帰ったよ。店じまいなんだぜ、当たり前だ」
「なんだ、ちくしょう。目の保養を求めに来たってのに」
 源と政のやり取りを横目で眺めて七郎は苦笑する。確かに夕刻ともなれば店じまいだろう。便利な明かりもない時代だ、人々は暗くなればすぐに寝る。それが当たり前の生活であり時代であった。
 だが夜の闇に蠢くものも確かにいる。
「最近は強盗も減ったな」
 七郎は源が出した酒を飲みながら惣菜の皿に箸を伸ばした。売れ残った竹輪や野菜の天ぷらなどだが、それが極上に美味い。あくまで七郎の個人的意見だ。
「浪人自体が減りましたからね」
 政も七郎の隣で飲み食いしていた。
「おかげで俺も武家屋敷で庭師ですよ。まあ庭師の仕事も嫌いじゃありやせんがね」
「最近の浪人は腹が空いてるのか気力がありやせんな」
「町民にも自衛を認めてるんだ、手強いと知れば簡単に押し入りもできん」
 七郎は言った。幕府は町民に刃渡り二尺未満の小太刀の所持を認めていた。
 小太刀も使い方次第では人間の手足を両断できる。そんなものを誰も彼もが所持していれば、押し入る側も簡単に事は運ばない。
 以前は生活に困窮した浪人による押し入り強盗が目立った。失敗も多々あった。
 だが今の押し入り強盗は知恵もあるし、力もある。
 結束し、計画し、下見をし、覚悟を決めて押し入り強盗に働く彼らは手強い。ましてや女子どもまで斬殺するような者達もいる。
 鬼畜に等しい者を相手に命を懸けるのが七郎や江戸城御庭番達だ。
 更に國松もいる。染め物屋である風磨は風魔忍者の末裔達である。國松は大事あらば彼らを率いて動くのだ。
 風磨は実戦部隊である。御庭番も命を懸けるが、彼らは最初から死ぬつもりで行動する。
 幕府のために死ねという命令もある。國松ならばその命を下せる。國松は江戸の捨て石にならんとしている男だからだ。
「……野菜の天ぷらは店で揚げたのか」
 七郎は天ぷらをかじりつつ源に尋ねた。
「いや、これは農家の婆ちゃんが売りにきたやつですよ」
「へえ、そうなのか。地味だが天ぷらが一番うめえかも」
 源も政も酔ってきている。七郎も酔ってきている。野菜は大地の恵みだ。育てた農婦はきっと慈母観音に等しい魂だろう。
 七郎は酒を飲みつつ考える。自分の立ち位置は何処なのかと。立ち位置とは生きる場所に他ならない。
 源も政も、そして國松も幕府の側に立っている。七郎の父又右衛門、そして弟の又十郎と左門も幕府側だ。
 おまつとおりんは江戸の町民の側に立っている。では七郎は何処に立っているのか?
 幕府側か、町民側か。
 また、江戸に集まった全国の大名、明日をも知れぬ浪人、江戸に元々住んでいる武士、寺院の者……と立場は山ほどある。
 七郎は何処に立っているのか。彼は果たして何者か。七郎とは幼名であり仮の名だ。
 真実の七郎は自身の立ち位置を何処と心得、何をするべきなのか。
 七郎が酒を飲みつつ物思いに沈む間、源と政は店の残り物で大いに飲み食いした。
 いつしか夜は更けた。
 
 
 深夜、七郎は目を覚ました。源の店のお座敷に寝転がっていびきをかいていたらしい。
 いつもの事だ、と七郎は苦笑する。源も政も多大な精神的苦痛の中で生きている。たまに酒を飲んで泥酔するのも仕方ない事だ。
 七郎は店の外に出た。武家屋敷は、いや江戸全体が静まり返っているようだった。夜空を見上げれば美しい月……
 ふと七郎は既視感を覚えた。以前もこのような事がなかったか。
 夜の闇で出会うのは人ならざる魔性ではなかったか。
 果たして七郎は新たな出会いを経た。夜闇の中、空中に浮かんでいるのは巨大な繭だった。
 それは夢か現か。
 七郎は夜空に浮かぶ繭を見上げて、後ろ腰に差していた小太刀の刀柄へ手を伸ばす。
 非現実的な、あるいは幻想的な光景を前にして、七郎は悟った事がある。新たな魔性が江戸に誕生したのだと。
 繭が割れた。瓢箪に似た白い繭に穴が開き、中から現れたのは、背に羽を持つ女であった。
 白い肌に白い髪、夜目にも鮮やかな七色の蝶のような羽根、頭部に蠢く触角……
 これは人と蝶の融合した魔性であるか。魔性は背の羽根をはためかせて、七郎の前方に音もなく舞い降りた。
「……御免」
 七郎は半眼になるや否や駆け出した。
 疾風のような踏みこみだ。死を覚悟した七郎は無の境地に到っている。
 左手で逆手に握った小太刀を横に薙ぐ。
 振るわれた刃は魔性の首をはねたように見受けられたが、
「――ぬ?」
 七郎は刃が空振りした事に僅かに動揺した。踏みこんだ勢いを殺さずに、半円を描いて後方に振り返る。
 今、大地にあった魔性の姿は、いつの間にか宙に浮かび上がっている。
 それにしても、
(美しい……)
 それだけは七郎には確かであった。魔性の美しさは儚くも幻想的であった。背に羽根もなく、頭部に触角もなければ、七郎とて色欲に敗北していたろう。
 七郎を悪の誘惑から救ったのは、彼の信念であった。
 即ち、兵法とは平和の法なり――
「マカロシャダ!」
 七郎は叫んで小太刀を魔性へ投げつけた。口にしたのは、魔を降伏する不動明王の真言の一部だ。
 小太刀は武家屋敷の塀に当たって、キリキリと宙へ舞い上がってから、落ちて大地に突き刺さった。
 辺りには無限の闇と静寂が満ちている。その闇に佇む七郎に怯えの色はない。
 あとは死ぬだけなのだ。全身全霊を振るうだけだ。それが七郎には満足となる。
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