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慶安編
幽玄の恋
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人ある限り魔性は不滅。
なぜなら魔性は人の心から生じるのだから。
七郎は馴染みの茶屋にいた。
店先の床几に腰かけ、青空を見上げている。
「あんたもよく来るねえ」
茶屋の店主のおまつが茶と団子を運んできた。七郎はもう十年以上も茶屋に通っていた。
「生きてる間は来るさ」
そう言って七郎は茶を飲んだ。
「あたしだって長くないさ」
「何言ってる、もっと長生きしてくれ」
おまつと七郎は顔を見合わせ笑った。由比正雪による慶安の変を経た江戸では浪人の救済が始まっていた。
だが真に救われる浪人は僅かだ。幕府による大名の改易は未だに続いていた。
「また来るぞ」
七郎はお代を床几に置いて立ち上がった。隻眼の七郎は十年以上も戦いから生き延びていた。
江戸の夜だ。幕府は夜の外出を控えるように江戸市中に伝えていた。
強盗殺人も珍しくない江戸の治安は悪かった。
それでも人々は夜の中に惹かれる。夜は昼とは違う世界だ。人ならざる魔性が現れるのも夜の中だからだ。
――オオオ……
夜の闇を進む一団は浪人のようである。だが彼らの両目は闇の中で真紅に輝いていた。
人ならざる魔性――
この浪人達は自身の抱く悪意を増幅させ、遂には人ならざる魔性に転じたのだ。
その魔性達の前に、現れたのは黒装束の男であった。
「死ぬには良い日だ」
黒装束の男はつぶやいた。顔には黒塗りの般若面がある。
般若面は魔性の一団を前に、怯む事なく駆け出した。
駆けながら般若面は右手で抜刀した。
光の刃が数条、闇夜を斬り裂いたと見えた瞬間には、たちまち数人の魔性が斬られている。
斬られていない魔性が七郎に組みついてきた。
般若面は瞬時に左手で魔性の右手首を握った。独楽のように身が回転したかと思えば、魔性は投げられ、背から地に叩きつけられている。
これは後世の柔道における体落を、般若面が左手一本でしかけたものだった。
そして般若面は僅かな時間で魔性の一団を制圧した。
強いというより手慣れているという印象だった。
ここまで技を洗練するのに、一体どれほどの死線をくぐり抜けたのか。
般若面が愛刀の峰を叩いて血を落とすと、新たな気配が夜の中に現れた。
それは一糸まとわぬ白い裸体に、背には明な羽を生やし、更には頭部には蠢く触覚を生やしていた。
正に魔性であった。般若面はこの美しい魔性を月光蝶と呼んでいた。
「今日こそ地獄につきあってもらおう」
般若面は恐ろしい口説き文句を口にした。
そして月光蝶は般若面を見つめて妖艶な笑みを浮かべた。
*
――女の頼みを聞くと、ろくな事がない……
七郎は人生を振り返る。人生の転機を迎えた時、彼は必ずといっていいほど、女性から無理難題を頼まれた。
春日局から頼まれて、将軍家光の辻斬りを止めた。
真田幸村の娘に頼まれて、大納言忠長の狂気を鎮めた。娘は忠長の愛妾であった。
島原の乱で出会った少女の最期の頼みは、人々の平和のために戦ってほしいだった。だから七郎は江戸を守る戦いに身を投じた。
禁裏での極秘活動の際には、月ノ輪なる女性から無刀取りの指導を求められた。月ノ輪は家光とも血縁関係があった。
茶屋の看板娘おりんもまた七郎に告げた。江戸の平和を守ってと。惹かれあっていた七郎とおりんだが、別の相手と祝言を挙げた。今では七郎には娘が、おりんには息子がいる。世の子どもの未来を守るために戦う、それが七郎の信念だ。
更には金井半兵衛からも頼まれている。由比正雪の意志を継ぎ、理想の平和のために戦ってほしいと。
金井半兵衛は女であった。今は由比正雪の御霊を鎮めるために尼僧となっていた。
こうして七郎は戦い続けているのだ。
歴史の裏に展開された凄絶な戦いに臨んで生き延びたのは、奇跡としか思われない。
あるいは女の願いを受けて戦う七郎には、勝利の女神がついているのかもしれない。
私欲ではなく義のために戦うならば七郎は天である。
だからこそ常勝無敗だったのではないか。それが七郎への、天からの報酬でもあったのだ。
「……まあいい」
七郎は瞑想から覚めた。長屋の自室を出ると、杖をつきつつ歩き出した。
茶屋に行くのもいい。湯屋に行って、そのついでに娯楽室で誰かと将棋を指すのもいい。
父の墓参りも悪くない。公の彼はすでに死んでいる。
将軍家剣術指南役、柳生十兵衛三厳。
その十兵衛は鷹狩りの際に謎の死を遂げたとされている。
今は、ただの隻眼の七郎だ。
その七郎の後継者もいた。
七郎が三池典太を――
魔を斬るとされ、後世では国宝に数えられる名刀を授けた者の名は蘭丸といった。
(まあ、あいつならば)
七郎、歩きながらニヤリとする。
彼が関心を持つ者など僅かしかいない。いや人間は元々、他人に関心など持たぬ。持つとすれば、それは己より強い者への闘争心や、説明不能にして永遠不滅の恋心というものであろう。
七郎が蘭丸に抱く感情といえば嫉妬ばかりである。男の嫉妬はみっともないと世の女性は思うだろうが、それも仕方ない。
女と見紛う美男でありながら、鋼の心と鉄の肉体。
人生に絶望し、自身は人斬りの用心棒として苦界に身を沈めながら、生き延びてきた。
やがては苦界からも追い出され、人間の世界に居場所を持てなかった蘭丸。
彼に魔を斬る剣である三池典太を譲ったのは、七郎には使命に思われた。
(命を守る、未来へつなぐ…… 奴ならば、あるいは)
七郎はそんな気がするのである。三池典太は春日局から家光の辻斬りを止めた報酬として授かったが、七郎が死んだ後では他者に譲れぬ。
生あるうちに後継者が見つかって、良かったといったところだろうか。
「てやんで、べらぼうめーい!」
その時だ、女の金切り声が七郎の耳に入ってきたのは。
江戸城にほど近い通りに人相の悪い男達が数人集まっているが、彼らに向かって啖呵を切るのは、見目麗しい美女である。
年の頃は十七、八といったところか。地味な着物だが彼女の美しさを損なう事はない。
黙っていれば相当な美女だが、肩に角材を担いで男達を見据える姿が奇妙だ。
「やっちまえー!」
男達は一斉に女に向かっていった。七郎、思わず出ようとした。
だが心配は無用だった。
「ふんぬう!」
女は角材を小枝のように振り回して男達を蹴散らした。その様子は、まるで戦国の豪傑だ。
男達は最近になって江戸にやってきた浪人だ。同情すべき点もあるが、働かずに他者に金をたかって生活しようという性根はいただけない。
美女はそれが許せなかったのだ――
「だあ!」
美女が横に薙いだ手刀が、一人の男の胸を打つ。それを受けて呻く男の背後へ、美女は素早く周りこんだ。
「天誅よー!」
美女は男の背後から腰に抱きつき、そして背を反らせながら持ち上げた。
男は美女の反り投げで後頭部から大地に叩きつけられていた。
「むう、あれは……!」
七郎は戦慄した。美女が男を投げた技は、七郎が父から学んだ無刀取りの妙技の中に、型としてはある。
だが、七郎は自分には合わぬとして、技の存在自体すっかり忘れていた。
「働け、働けー! 美味しいご飯を食べるために、額に汗して一生懸命働くのよー!」
美女は江戸の空に吠えた。
まるで女神が人々に天啓を伝えているように思ったのは、七郎の気のせいか。
周囲で見守る野次馬からは拍手喝采、やってきた奉行所の者が男達をしょっ引いていく。
七郎は美女とは顔見知りだ。だが、いつの間に彼女が江戸の町に溶けこみ、ましてや人々の信頼を得ていた事には気づかなかった。
「あらやだ、七郎さんじゃないの。ねえところで聞いてよ、蘭丸様が働かないんだけどお~」
美女が七郎の側にやってきて愚痴という猛毒を際限なく吐き出していく。
美女の名は、ねね。
ねねは蘭丸の押しかけ女房気取りの女だった。
*
夜の中に白刃の打ち合う音が響いた。
闇夜に火花が散る。それは魂の激突かもしれない。
慶安の変を経ても江戸の治安は改善されなかった。江戸には人が集まるが、同時に盗賊の類も多く集まった。
武装した強盗団を制圧するのは江戸城御庭番だ。伊賀甲賀の忍びの末裔である彼らの血脈は幕末まで存続し、かのペリーの黒船に侵入して時計などを盗み出したという。
何にせよ、著名な火盗改が誕生するまで未だ数十年を要さねばならない。だが江戸の平和を守るために戦う者は確かに存在したのだ。
「ぐわ」
呻きを発して盗賊の一人が倒れた。その盗賊を蹴り倒したのは、黒装束の般若面の男だった。
般若面は無手にて盗賊へ踏みこむ。
流れる水であるかのように刃を避けて般若面が組みつけば、次の瞬間には盗賊が大地に叩きつけられている。
まるで妖術を見るかのようだった。十数人いた盗賊団も半分は般若面に制圧されていた。
他の黒装束達の奮戦もあり、盗賊団はただ一人を残して地に倒れ伏していた。
「ぬう、般若面!」
覆面の盗賊が叫んで刀を正眼に構えた。切っ先は般若面に突きつけられている。
盗賊の覆面からのぞく目は強い光を放っていた。最期を覚悟した盗賊は、般若面との対決を望んでいた。
ここ十数年、江戸の巷にあふれた噂。夜の闇に現れる般若面の妙技は、無手にて刀を持った対手を制すると。
その般若面の最も新しい噂は、槍の達人丸橋忠弥を無手にて制したというものだった。
「その意気や良し」
般若面は面の奥で笑ったようだった。彼もまた死を覚悟して盗賊と向き合う。
般若面も盗賊も無言で対峙した。死を覚悟した二人は善も悪も超越した境地にいた。
善か悪かよりも、死を覚悟して事に臨む事こそ肝要なり――
それが般若面の体感した真実である。命を懸けるからこそ、武徳の祖神たる経津主大神が導くのだ。
般若面は刀の死角である盗賊の右手側へ回りこもうとする。
それに合わせて盗賊も刀の切っ先を般若面に突きつけたまま動く。
両者は対峙したまま、互いに孤を描き、半円を描き、円を描き、遂に止まった。
「――キィエーイ!」
盗賊が踏みこんだ。僅かに速く般若面が踏みこんでいた。
盗賊が刀を打ちこむより速く、般若面はその両腕に抱きついた。
そして体を回す。盗賊の体が浮き上がる。
次の瞬間には盗賊は背中と後頭部を大地に叩きつけられていた。
後世の柔道における一本背負投だった。柔道の祖は柔術であり、柔術とは戦国の世に生まれた組討術の事である。
「会心の一手、忘れぬぞ」
般若面は盗賊を見下ろした。盗賊は泡を吹いて気絶していた。
般若面は今夜の戦いも生き延びた。江戸城御庭番の者達も一息ついている。
「まだまだだな……」
般若面は面を外して夜空を見上げた。現れたのは隻眼の七郎、柳生十兵衛三厳だ。
彼は公には死んでいるが、死して尚、江戸の治安を守っていたのだ。
*
「七郎さん、いや十兵衛さんも立派になったなあ」
小野次郎右衛門忠明は酒を飲みつつ言った。忠明の前に座した十兵衛は苦笑しつつ酒を飲む。
十兵衛の隣には父である柳生又右衛門宗矩もいる。三人で輪になり酒を飲みつつ語り合っていたのだ。
「わしも本気で相手したいもんだ…… なあ、剣術指南殿?」
忠明は殺気を秘めた眼差しで宗矩を向く。やや青ざめた十兵衛の前で、忠明と宗矩の殺気が火花を散らすかのようだ。
かつて宗矩と忠明は、江戸を荒らしていた風魔忍者から人々を守るために戦っていた。
それが縁で二人は得難き戦友になったという。もっとも忠明は宗矩を剣術指南殿といささか皮肉をこめて呼んでいる。一言で説明できぬ間柄ながら、互いに認め合っているのは間違いない。
「いやいや、むしろ手前が」
宗矩もまた静かに十兵衛を見つめた。何の感情も浮かばぬ父宗矩の顔が怖い。
薄ら笑いを浮かべた忠明も勿論怖い。渡る世間は鬼ばかりだ。
「では参る」
忠明は言って立ち上がった。場は道場へ切り替わった。
忠明が打ちこんだ一刀へ、十兵衛は踏みこむ。肩で忠明の腕を受け止めた十兵衛は、右足で忠明の右踵を鋭く払った。
刹那の間に閃いた十兵衛の小内刈。後世の柔道の技だ。それを受けてよろめく忠明へ十兵衛は組みつき、尚も技をしかける。
十兵衛の右足は忠明の左足を払った。大内刈だ。素早い連続技に忠明は後方へ倒れた。
「ふふふ、十兵衛さんも強くなったな」
忠明は余裕で立ち上がった。まるで本気を出していない。まるで十兵衛に華を持たせているような感すらある。
「参るぞ」
宗矩は無手である。先師である上泉信綱から、石舟斎宗厳を通じて無刀取りの妙技を受け継いだ宗矩。
十兵衛が目指し、越えねばならぬ壁であった。
「応!」
十兵衛は宗矩へ踏みこんだ。己自身を弾と化して力の限りぶち当たる。
「全て捨てよ!」
「一刀に始まり、一刀に終わる……」
宗矩と忠明の、父と師の声が十兵衛を導く。
夢だ、夢だ、夢だ。全て夢だ。宗矩も忠明も他界している。
消えゆく意識の中で十兵衛は悟る。
今までは導かれていたが、これからは自分が導くのだ。
後継者として、三池典太を授けた蘭丸を。
*
七郎はねねの愚痴を聞かされていた。
「だってねえ、蘭丸様ってば毎日毎日、食っちゃ寝、食っちゃ寝で……」
ねねはうどんをすすりながら愚痴という名の毒を吐く。まるで毒蛇だ。
場所は武家屋敷通りのうどん屋だ。店主の源は江戸城御庭番であり七郎とは戦友だ。
源は身分を偽り、武家屋敷に住む大名達を監視し、江戸の治安維持に務めてきた。今では妻を迎えて娘もいた。
「おお、姐さん! どうぞ、ゆっくりしていってください!」
店主の源が、わざわざ店の奥から出てきた。七郎には挨拶もなく、ねねにしか注意を払っていない。七郎などは空気扱いだ。戦友だというのに。
「ええ、ゆっくり食べさせてもらうわ…… もちろん、ツケで!」
ねねはうどんのおかわりを源に注文し、更に具材も注文した。
野菜のかき揚げ、イカの天ぷら、揚げ玉、油揚げ……
油でむせそうだが、ねねは気にする事もない。七郎が見た事もないような美女だが、その仕草は残念だ。
――ずずずずう
ねねは豪快にうどんをすする。百年の恋も冷める食いっぷりだ。
「そ、そうか」
七郎は蕎麦切りをすすっていた。源の店には、需要は少ないながら蕎麦もある。
蕎麦には疲労回復の効果があり、それがゆえに肉体労働者に好まれ、江戸で蕎麦が流行ったのかもしれない。
また、この時代で蕎麦というと蕎麦粉を丸めた蕎麦がきの事だ。後世の蕎麦のように切ったものは、蕎麦切りと呼ばれていた。
「蘭丸は何をしている?」
七郎はねねに問う。年齢差を考えると、娘のようなねね。
だが、ねねは七郎が目上だろうと関係ない。天上天下唯我独尊だ。そんなねねだが、なぜか江戸の庶民に慕われている。
「ちょっと聞いてくださる? 蘭丸様ってば女に情けをかけてさあ」
「ふむ?」
「幽霊女を成仏させてやらずに…… 夜な夜な会ってるんですわよ」
そう言って、ねねは二杯目のうどんを平らげた。ねねの大食いは嫉妬の念も一因のようだ。
七郎は兵法の事ばかり考えている。
宮本武蔵いわく、常に兵法の道を離れず。
その言葉通りの生き方をし、己の死に方を模索する七郎は、ある種の狂人かもしれない。
が、だからこそ生き延びてきた。
江戸の人々を守り、治安維持に貢献した。
悪を為す修羅も、時に仏敵を降伏するがゆえに仏法天道の守護者なのだ。
七郎も修羅に似る。彼は決して善人ではないが、江戸を守る戦いに命を懸けるからこそ、勝利の女神が微笑むのだ。
(さて、どうするか)
七郎は長屋の自室で腕組みして考える。ねねは蘭丸に女幽霊がついていると言った。
蘭丸には七郎が授けた三池典太がある。後世では国宝に数えられる名刀の刃は、魔物をも斬ると伝えられている。
その三池典太を持つ蘭丸ならば女幽霊を斬れるだろう。いや斬れるはずなのだ。
それをしないのは蘭丸の優しさゆえと、ねねはうどんを三杯平らげた後に言ったものだ。
――そんなに食うと太るぞ。
と助言した七郎には、ねねの鉄拳が飛んできた。
女心は海より深い、いやいや、この場合は七郎が悪い。
そして、ねねは七郎に魔除けの札を授けた。何の因果か、七郎はねねが魔除けの札を作成する場面を目撃した。
――は!
ねねは農家で購入した鶏の首を裂き、その血を器に注いだ。器にあらかじめ注がれていた墨汁と鶏の血が混じったところへ、ねねが指差せば、そこから炎が吹き上がった。
炎は一瞬で消失した。七郎は驚きのあまり、目を見開いてねねの挙動に注目した。
そしてねねは筆を墨汁に浸し、白い無地の札にサラサラと文字を書き出した。七郎には読めない。梵字のように思われたが、鶏の血を用いる仏法の呪いというのは見た事も聞いた事もない。
かといって陰陽道の技でもなさそうだ。七郎は京の禁裏(天皇の御所)で秘密裏に活動した時、遠縁の陰陽師に会っている。
柳生友景という見目麗しい青年であった。彼は陰陽師であり、剣士でもあった。
七郎は友景と力を合わせ、禁裏を襲った怪異から月ノ輪なる女性を守り抜いた。
余談ながら、後で七郎が知った話によれば、友景は祖父の石舟斎宗厳の甥(妹の子)だという。
とすると、七郎の父である又右衛門宗矩のいとこであり、年長か同世代のはずだ。
だが、七郎が会った友景はせいぜい二十代半ばの青年であった。あれはどういうことなのか。
「そんな事はどうでもいいわ、この札を女幽霊に貼りつければ、たちまち言語道断、野州無宿、テクマクマヤコンで消滅するわ。七郎さん、お願いね」
「……お前がやればいいじゃないか」
「ええー、だってわたくし、か弱い乙女だし~ 蘭丸様の前では箸より重いもの持った事ないし~」
「あー、そうですかよ」
七郎は仏頂面で了解した。これも神仏の導きなのであろうか。
夜となり、江戸の町は静まり返った。
長屋の自室で長らく瞑想していた七郎は、小太刀一本を腰の帯に差して外に出た。
満点の星空に、淡い月光。
微かな月明かりのみの、夜の世界。
ここは人の世界ではなかった。この世界で七郎が動けるのは、幾多の修羅場を経てきたからかもしれない。
(全く、女の頼みを聞くと、ろくな事がない)
過去に頼み事をした女性陣を恨んだり憎んだりしているわけではない。
ただ七郎は、女性の頼み事が困難だという事を知っている。
知っていて尚も頼まれて断らぬのは、彼がお人好しだからだろう。
思い出しても苦痛なだけだ。七郎は苦笑して夜の中を駆けた。蘭丸と女の幽霊は、近くの川で会っているらしい。
蘭丸の持つ三池典太ならば女の幽霊を斬れるかもしれぬ。いや、斬れるはずだ。それは七郎が実証済みだ。
人ならぬ魔性の者と対峙し、それを斬ってきたからこそ七郎は生きているのだ。
蘭丸は元は人を斬った事もある用心棒、斬るのにためらいはないはずだ。
それが斬らぬというのなら、理由があるはずだ。
「……なるほどな」
現場に到着した七郎は納得した。
橋のたもとの腰かけに、蘭丸と一人の娘が並んで腰を下ろしていた。
長い黒髪を無造作に後ろで束ねた眉目秀麗の蘭丸。
その隣には小柄な娘が座して、蘭丸に積極的に話しかけている。
娘は十二、三といったところか。月光に照らされた顔はひどく幼く、儚げだ。
七郎はねねを思い出して意地悪く笑った。ねねが嫉妬するには対象が幼い。また幼い娘の幽霊が相手では、蘭丸も斬るのをためらっているのだろう。着流し姿の蘭丸は、腰に何も差していない。
(いや、しかし、どうする?)
七郎は蘭丸と幽霊の娘を、木の影から見守っていたが、逆にどうすれば良いか判断に困った。
ねねから授けられた札を使えば、娘は消滅するのだろうか。いや、冥府へ帰るのだろうか。
なにぶん、ねねの事だ。幽霊の娘が美の好敵手にはなり得ずとも、恋敵としては認識しているだろう。
そして娘の魂を冥府魔道へ叩き落とすくらいはやるかもしれない。七郎が見た事もない美女ねね。だがその心意気は未だに測れない。
「――あんなところにいやがったぞう」
不意に、側で声がして七郎の心胆は震え上がった。蘭丸と幽霊娘の逢瀬を見ていたとはいえ、周囲への警戒を怠っていたわけではない。
「小娘め、いつまで現世にいるつもりだ」
また別の声がした。七郎は声がした方へ、左手側へ視線を移す。
するとそこには信じがたいものがいた。
牛頭の男と馬頭の男。二人は半裸である。身の丈は六尺五寸あまりの鍛え上げた肉体には、七郎ですらが息を呑む迫力だ。
地獄の獄卒は牛頭馬頭の鬼だという。ならば、彼らは――
「あの美男はどうする、あいつのせいだ」
「かまわん、あいつも一緒に連れていこう」
などと、牛頭鬼と馬頭鬼は物騒な事を話している。
七郎は生きた心地もせぬ。橋のたもとには仲睦まじい蘭丸と幽霊の娘、少し離れたところには牛頭鬼と馬頭鬼。
月明かりに照らされた彼らは果たして現実の光景なのか、はたまた七郎が見ている夢なのか。
月下の夢幻の光景に、正しく魂消た七郎だが、牛頭鬼と馬頭鬼が蘭丸らへと歩を進めようとした瞬間、彼は声を出した。
「待ってくれ」
七郎は牛頭鬼と馬頭鬼に呼びかけた。二体の鬼は少々驚いたようだ。
「あの二人を力ずくで引きはがすのは、止してくれ」
七郎は二体の鬼を見つめて、静かに告げた。隻眼の異相には何の感情も浮かんでいない。
が、闘うという意志だけは全身に満ち満ちていた。
「こいつ我らが見えるのか」
「妙だぞ、こいつ」
牛頭鬼と馬頭鬼の多少の動揺――
七郎も内心で動揺している。心臓が早鳴りを繰り返している。これほどの激しい緊張はいつ以来か。
脳内には父の又右衛門宗矩や師事した小野次郎右衛門忠明、更には由比正雪や丸橋忠弥が思い出された。
――七郎、貴様は地獄の獄卒が相手だからといって怯えておるのか? はっはっはっ、こいつはお笑いだ!
七郎の脳内には丸橋忠弥の声が思い出された。彼とは仲が悪かった。だからこそ好敵手だったのかもしれぬ。
丸橋忠弥の挑発(これは七郎の妄想だ)が、七郎に怒りを生み、そして今、勇気を与えていた。
「お前も連れていってもいいのだぞ」
牛頭鬼が七郎を脅すように歩み寄ってきた。息を呑む巨体だ。五尺七寸前後の七郎より頭二つ背が高い。
「それは断る」
七郎、静かにつぶやいた。
次の瞬間には矢のように飛び出していた。
七郎は牛頭鬼の眼前に踏みこむや、右足の爪先で牛頭鬼の右踵を払った。
体勢を崩された牛頭鬼が背中から大地へ倒れた。倒れた際に後頭部を強打したか、うめいて起き上がれない。
体格の差を活かした七郎の奇襲であった。
しかけた技は後世の柔道における小内刈だ。父の言によれば、戦場で鍔迫り合いに及んだ時には両手が使えなくなる。
その体勢から敵を倒すために編み出されたのが「無刀取り」における各種の足技だという。
まともに真っ正面からぶつかっては、七郎の勝機は薄かったろう。
「待ってやってくれ」
七郎は尚も言うが、今この場合においては、彼の方が力ずくで事を成そうとする暴虐者かもしれない。
「貴様、何者だ!」
叫んで馬頭鬼は七郎へ襲いかかった。
馬頭鬼の突進の迫力に、七郎の反応が僅かに遅れた。
馬頭鬼の体当たりが、身をかわしそこねた七郎の肩をかすめる。
直撃を避けた七郎だが、その体は回転しながら宙を舞って落ちた。
(な、なんという……)
身を起こしながら七郎は戦慄した。直撃していたら血を吐いて死んだかもしれない。
馬頭鬼が振り返ったところへ、立ち上がった七郎は攻めこんだ。
「ふ!」
気合と共に七郎は中段回し蹴りを放つ。馬頭鬼の左腿に当たった。
人間が無意識に放てる最も重い攻撃の一つが、利き足での回し蹴りだ。
だが、それを受けても馬頭鬼の動きは僅かに止まっただけだ。
「ぬおおお!」
七郎は馬頭鬼の懐に飛びこみ、左右の肘打ちを繰り出した。馬頭鬼は七郎の肘打ちを胸や腹に浴びているが、大して効いた様子もない。
戦場で組討に及んだ際、肘打ちで鎧武者を攻めろと七郎は教えられたが、馬頭鬼の胴体は鎧以上だ。
駄々っ子に手を焼く大人のような馬頭鬼は、左手を伸ばして七郎の奥襟をつかんだ。この体格差では、組まれれば七郎に勝機はない。
「うわあー!」
死力を尽くす七郎の雄叫び――
七郎は馬頭鬼の右手首を両手でつかんで引き寄せると同時に、馬頭鬼のみぞおちへ頭突きを叩きこんだ。
体格差がなければ成立しない荒い攻めだが、それで馬頭鬼はうめいた。
その一瞬の機を七郎は逃さぬ。
左手で馬頭鬼の右手首を握ったまま、七郎の体は回転した。
体勢を崩した馬頭鬼の右足へ自身の右足を引っかけて、七郎は投げ落とした。
馬頭鬼の巨体は背中から勢いよく大地に叩きつけられた。柔道における体落だ。父の又右衛門宗矩は左手一本で体落をしかけるのを得意としていた。
「頼む!」
七郎は倒れた馬頭鬼の左腕を取り、素早く脇固めをしかけた。
「待ってやってくれ!」
七郎は自分でも訳のわからぬ感情に突き動かされて叫んだ。
あるいは彼を動かしたのは、かつての春日局など死した女性達であったかもしれない。
男と女の逢瀬を邪魔する者は馬に蹴られて死すべし、と春日局なら言いかねない。
まあ、この場合は相手が馬頭鬼であるが。
「やめてください!」
突如、夜空に響いた娘の声に、七郎は技を解いて立ち上がった。
振り返れば幽霊の娘が傍らに蘭丸を引き連れ、七郎と牛頭鬼馬頭鬼を見つめていた。
**
七郎は湯屋にいた。二階の娯楽室で蘭丸と将棋を指している。
「お前が娘の手でも握ってやれば、それだけで良かったんだ」
「は……」
七郎の言に蘭丸は畏まって言葉も出ない。が、将棋は蘭丸が優勢である。蘭丸は手加減というものを心得ていない。
「王手」
「うむむむ……」
「……待ちますか」
「いや、いい。俺の負けだ。それよりも今後は気をつけろよ」
七郎は数日前の夜を思い出す。忘れられない鮮烈な夜だ。
地獄の獄卒である牛頭鬼と馬頭鬼との対決。
幽霊の娘の儚くも夢幻の美しさ。
――蘭丸様に会えて良かった……
幽霊の娘の美しさは恋する女性の美しさだった。七郎は心を打たれた。
そして幽霊の娘は蘭丸に手を握ってもらえた事で満足し、自ら冥府へと戻る事にしたのだった。死者を探しにやってきた牛頭鬼馬頭鬼は、とんだ骨折り損だった。
――死んだら今日の借りを返してやるぞ。首を洗って待っていろ。
牛頭鬼の言葉に七郎は戦慄した。死んだ後も七郎はやるべき事があるのだ。現世での対決以上の激しい闘争が、冥府でも待つだろう。
――ところで、その札は何だ。なんで人間がそんなものを持っている。
馬頭鬼の言葉に、七郎はねねから与えられた札を懐中に持つ事に思い出した。
――や、やだ、近づかないで!
幽霊の娘が発狂したような金切り声を上げたので、七郎は傷ついた。
どうやら、ねねが七郎に授けた札は、冥府の住人には恐ろしく、忌々しいものであるらしい。
その後、七郎と蘭丸は幽霊の娘が牛頭鬼と馬頭鬼に連れられて冥府へ戻っていくのを見送った。
三人は見えない階段を昇るようにして、夜空に消えていった……
「お前といると退屈しないようだ」
七郎は蘭丸を見つめてニヤリとした。
まるで美女のような蘭丸が、魔を斬る三池典太を手にして、どうやって江戸の夜を生き抜いていくのか?
七郎はそれが楽しみだ。
「ふう、おまたせしたわねー」
娯楽室にねねが姿を見せたので、七郎と蘭丸のみならず、他の客もざわついた。
湯上がりのねねは正真正銘の美女だった。
まるで仏教画に描かれた天女のようだと七郎は感じた。
娯楽室にいる男達は、談笑も碁を指すのも忘れて、ねねに見入っている。
「あら、どうしたの? 娯楽室に女が来ちゃいけないのかしら」
「あ、あまり女は来ないぞ、来るのは商売女ばかりだからな」
七郎は咳払いした。当時の湯屋には遊女の類も常駐していた。男達の中には、女を買う目的で湯屋に来ている者もいたのだ。
江戸は各地から労働者が集まり、男が七割、女が三割と言われていた。寂しい男は七郎も含めて大勢いたのだ。
七郎の寂しさは、公の彼はすでに死んでいるために妻子に会えぬからだ。
「まあ、あとは二人でやれ」
七郎、慌てて立ち上がって湯屋を去った。ねねは苦手だが、彼女は七郎がときめくほどに美しかった。
だから、それが問題だ。
七郎は夕闇の中を散策する。江戸の町も黄昏時を迎えていた。
見知った通りが別世界のように見える。黄昏時は逢魔が時であり、この中で出会う者全てが人間とは限らない。
七郎は武家屋敷の並ぶ通りを歩いた。出歩く者は誰もいなかった。
ふと、七郎はねねから与えられた札を思い出した。あの夜以降、札は消えてしまった。
何処かに落としたと思っていたが、実際には、札は七郎の心身に溶けこんでいたのだ。
幽霊や地獄の獄卒すら怯ませる札を、心身に吸収してしまった七郎は、人ならざる者を知覚する力が増した――
「む……」
七郎が屋敷と屋敷の間にある小道へ目を向ければ、そこは薄暗く、背を向けて屈みこんだ人影が見えた。同時に七郎は血の臭いを嗅いだ。
人影は女のようであり、地に倒れたものを食らっていた。
地に倒れているのは月代を剃り上げた武士のようであった。女は武士の体を引き裂いて、その血肉をすすっていたのだ。
「……なるほど」
七郎は不敵に笑った。彼は由比正雪の刺客に襲われた際、全身十数箇所を斬られて尚、生き延びた。
どうして自分が生きているのか、それは武徳の祖神の加護だと信じていた。
そして確信した。七郎には、まだまだ倒すべき敵がいるのだ。
「男は卑小、女は魔性……」
七郎は腰の小太刀の柄へ、逆手に右手を伸ばした。
振り返った女の眼は大きく見開かれていた。人間的な感情など微塵も感じられない。
これは女の姿をした餓えた化物だ。
「御免」
七郎は踏みこみながら小太刀を逆手に抜いた。
人ならざる魔性は日常の中に潜んでいるのだ。
なぜなら魔性は人の心から生じるのだから。
七郎は馴染みの茶屋にいた。
店先の床几に腰かけ、青空を見上げている。
「あんたもよく来るねえ」
茶屋の店主のおまつが茶と団子を運んできた。七郎はもう十年以上も茶屋に通っていた。
「生きてる間は来るさ」
そう言って七郎は茶を飲んだ。
「あたしだって長くないさ」
「何言ってる、もっと長生きしてくれ」
おまつと七郎は顔を見合わせ笑った。由比正雪による慶安の変を経た江戸では浪人の救済が始まっていた。
だが真に救われる浪人は僅かだ。幕府による大名の改易は未だに続いていた。
「また来るぞ」
七郎はお代を床几に置いて立ち上がった。隻眼の七郎は十年以上も戦いから生き延びていた。
江戸の夜だ。幕府は夜の外出を控えるように江戸市中に伝えていた。
強盗殺人も珍しくない江戸の治安は悪かった。
それでも人々は夜の中に惹かれる。夜は昼とは違う世界だ。人ならざる魔性が現れるのも夜の中だからだ。
――オオオ……
夜の闇を進む一団は浪人のようである。だが彼らの両目は闇の中で真紅に輝いていた。
人ならざる魔性――
この浪人達は自身の抱く悪意を増幅させ、遂には人ならざる魔性に転じたのだ。
その魔性達の前に、現れたのは黒装束の男であった。
「死ぬには良い日だ」
黒装束の男はつぶやいた。顔には黒塗りの般若面がある。
般若面は魔性の一団を前に、怯む事なく駆け出した。
駆けながら般若面は右手で抜刀した。
光の刃が数条、闇夜を斬り裂いたと見えた瞬間には、たちまち数人の魔性が斬られている。
斬られていない魔性が七郎に組みついてきた。
般若面は瞬時に左手で魔性の右手首を握った。独楽のように身が回転したかと思えば、魔性は投げられ、背から地に叩きつけられている。
これは後世の柔道における体落を、般若面が左手一本でしかけたものだった。
そして般若面は僅かな時間で魔性の一団を制圧した。
強いというより手慣れているという印象だった。
ここまで技を洗練するのに、一体どれほどの死線をくぐり抜けたのか。
般若面が愛刀の峰を叩いて血を落とすと、新たな気配が夜の中に現れた。
それは一糸まとわぬ白い裸体に、背には明な羽を生やし、更には頭部には蠢く触覚を生やしていた。
正に魔性であった。般若面はこの美しい魔性を月光蝶と呼んでいた。
「今日こそ地獄につきあってもらおう」
般若面は恐ろしい口説き文句を口にした。
そして月光蝶は般若面を見つめて妖艶な笑みを浮かべた。
*
――女の頼みを聞くと、ろくな事がない……
七郎は人生を振り返る。人生の転機を迎えた時、彼は必ずといっていいほど、女性から無理難題を頼まれた。
春日局から頼まれて、将軍家光の辻斬りを止めた。
真田幸村の娘に頼まれて、大納言忠長の狂気を鎮めた。娘は忠長の愛妾であった。
島原の乱で出会った少女の最期の頼みは、人々の平和のために戦ってほしいだった。だから七郎は江戸を守る戦いに身を投じた。
禁裏での極秘活動の際には、月ノ輪なる女性から無刀取りの指導を求められた。月ノ輪は家光とも血縁関係があった。
茶屋の看板娘おりんもまた七郎に告げた。江戸の平和を守ってと。惹かれあっていた七郎とおりんだが、別の相手と祝言を挙げた。今では七郎には娘が、おりんには息子がいる。世の子どもの未来を守るために戦う、それが七郎の信念だ。
更には金井半兵衛からも頼まれている。由比正雪の意志を継ぎ、理想の平和のために戦ってほしいと。
金井半兵衛は女であった。今は由比正雪の御霊を鎮めるために尼僧となっていた。
こうして七郎は戦い続けているのだ。
歴史の裏に展開された凄絶な戦いに臨んで生き延びたのは、奇跡としか思われない。
あるいは女の願いを受けて戦う七郎には、勝利の女神がついているのかもしれない。
私欲ではなく義のために戦うならば七郎は天である。
だからこそ常勝無敗だったのではないか。それが七郎への、天からの報酬でもあったのだ。
「……まあいい」
七郎は瞑想から覚めた。長屋の自室を出ると、杖をつきつつ歩き出した。
茶屋に行くのもいい。湯屋に行って、そのついでに娯楽室で誰かと将棋を指すのもいい。
父の墓参りも悪くない。公の彼はすでに死んでいる。
将軍家剣術指南役、柳生十兵衛三厳。
その十兵衛は鷹狩りの際に謎の死を遂げたとされている。
今は、ただの隻眼の七郎だ。
その七郎の後継者もいた。
七郎が三池典太を――
魔を斬るとされ、後世では国宝に数えられる名刀を授けた者の名は蘭丸といった。
(まあ、あいつならば)
七郎、歩きながらニヤリとする。
彼が関心を持つ者など僅かしかいない。いや人間は元々、他人に関心など持たぬ。持つとすれば、それは己より強い者への闘争心や、説明不能にして永遠不滅の恋心というものであろう。
七郎が蘭丸に抱く感情といえば嫉妬ばかりである。男の嫉妬はみっともないと世の女性は思うだろうが、それも仕方ない。
女と見紛う美男でありながら、鋼の心と鉄の肉体。
人生に絶望し、自身は人斬りの用心棒として苦界に身を沈めながら、生き延びてきた。
やがては苦界からも追い出され、人間の世界に居場所を持てなかった蘭丸。
彼に魔を斬る剣である三池典太を譲ったのは、七郎には使命に思われた。
(命を守る、未来へつなぐ…… 奴ならば、あるいは)
七郎はそんな気がするのである。三池典太は春日局から家光の辻斬りを止めた報酬として授かったが、七郎が死んだ後では他者に譲れぬ。
生あるうちに後継者が見つかって、良かったといったところだろうか。
「てやんで、べらぼうめーい!」
その時だ、女の金切り声が七郎の耳に入ってきたのは。
江戸城にほど近い通りに人相の悪い男達が数人集まっているが、彼らに向かって啖呵を切るのは、見目麗しい美女である。
年の頃は十七、八といったところか。地味な着物だが彼女の美しさを損なう事はない。
黙っていれば相当な美女だが、肩に角材を担いで男達を見据える姿が奇妙だ。
「やっちまえー!」
男達は一斉に女に向かっていった。七郎、思わず出ようとした。
だが心配は無用だった。
「ふんぬう!」
女は角材を小枝のように振り回して男達を蹴散らした。その様子は、まるで戦国の豪傑だ。
男達は最近になって江戸にやってきた浪人だ。同情すべき点もあるが、働かずに他者に金をたかって生活しようという性根はいただけない。
美女はそれが許せなかったのだ――
「だあ!」
美女が横に薙いだ手刀が、一人の男の胸を打つ。それを受けて呻く男の背後へ、美女は素早く周りこんだ。
「天誅よー!」
美女は男の背後から腰に抱きつき、そして背を反らせながら持ち上げた。
男は美女の反り投げで後頭部から大地に叩きつけられていた。
「むう、あれは……!」
七郎は戦慄した。美女が男を投げた技は、七郎が父から学んだ無刀取りの妙技の中に、型としてはある。
だが、七郎は自分には合わぬとして、技の存在自体すっかり忘れていた。
「働け、働けー! 美味しいご飯を食べるために、額に汗して一生懸命働くのよー!」
美女は江戸の空に吠えた。
まるで女神が人々に天啓を伝えているように思ったのは、七郎の気のせいか。
周囲で見守る野次馬からは拍手喝采、やってきた奉行所の者が男達をしょっ引いていく。
七郎は美女とは顔見知りだ。だが、いつの間に彼女が江戸の町に溶けこみ、ましてや人々の信頼を得ていた事には気づかなかった。
「あらやだ、七郎さんじゃないの。ねえところで聞いてよ、蘭丸様が働かないんだけどお~」
美女が七郎の側にやってきて愚痴という猛毒を際限なく吐き出していく。
美女の名は、ねね。
ねねは蘭丸の押しかけ女房気取りの女だった。
*
夜の中に白刃の打ち合う音が響いた。
闇夜に火花が散る。それは魂の激突かもしれない。
慶安の変を経ても江戸の治安は改善されなかった。江戸には人が集まるが、同時に盗賊の類も多く集まった。
武装した強盗団を制圧するのは江戸城御庭番だ。伊賀甲賀の忍びの末裔である彼らの血脈は幕末まで存続し、かのペリーの黒船に侵入して時計などを盗み出したという。
何にせよ、著名な火盗改が誕生するまで未だ数十年を要さねばならない。だが江戸の平和を守るために戦う者は確かに存在したのだ。
「ぐわ」
呻きを発して盗賊の一人が倒れた。その盗賊を蹴り倒したのは、黒装束の般若面の男だった。
般若面は無手にて盗賊へ踏みこむ。
流れる水であるかのように刃を避けて般若面が組みつけば、次の瞬間には盗賊が大地に叩きつけられている。
まるで妖術を見るかのようだった。十数人いた盗賊団も半分は般若面に制圧されていた。
他の黒装束達の奮戦もあり、盗賊団はただ一人を残して地に倒れ伏していた。
「ぬう、般若面!」
覆面の盗賊が叫んで刀を正眼に構えた。切っ先は般若面に突きつけられている。
盗賊の覆面からのぞく目は強い光を放っていた。最期を覚悟した盗賊は、般若面との対決を望んでいた。
ここ十数年、江戸の巷にあふれた噂。夜の闇に現れる般若面の妙技は、無手にて刀を持った対手を制すると。
その般若面の最も新しい噂は、槍の達人丸橋忠弥を無手にて制したというものだった。
「その意気や良し」
般若面は面の奥で笑ったようだった。彼もまた死を覚悟して盗賊と向き合う。
般若面も盗賊も無言で対峙した。死を覚悟した二人は善も悪も超越した境地にいた。
善か悪かよりも、死を覚悟して事に臨む事こそ肝要なり――
それが般若面の体感した真実である。命を懸けるからこそ、武徳の祖神たる経津主大神が導くのだ。
般若面は刀の死角である盗賊の右手側へ回りこもうとする。
それに合わせて盗賊も刀の切っ先を般若面に突きつけたまま動く。
両者は対峙したまま、互いに孤を描き、半円を描き、円を描き、遂に止まった。
「――キィエーイ!」
盗賊が踏みこんだ。僅かに速く般若面が踏みこんでいた。
盗賊が刀を打ちこむより速く、般若面はその両腕に抱きついた。
そして体を回す。盗賊の体が浮き上がる。
次の瞬間には盗賊は背中と後頭部を大地に叩きつけられていた。
後世の柔道における一本背負投だった。柔道の祖は柔術であり、柔術とは戦国の世に生まれた組討術の事である。
「会心の一手、忘れぬぞ」
般若面は盗賊を見下ろした。盗賊は泡を吹いて気絶していた。
般若面は今夜の戦いも生き延びた。江戸城御庭番の者達も一息ついている。
「まだまだだな……」
般若面は面を外して夜空を見上げた。現れたのは隻眼の七郎、柳生十兵衛三厳だ。
彼は公には死んでいるが、死して尚、江戸の治安を守っていたのだ。
*
「七郎さん、いや十兵衛さんも立派になったなあ」
小野次郎右衛門忠明は酒を飲みつつ言った。忠明の前に座した十兵衛は苦笑しつつ酒を飲む。
十兵衛の隣には父である柳生又右衛門宗矩もいる。三人で輪になり酒を飲みつつ語り合っていたのだ。
「わしも本気で相手したいもんだ…… なあ、剣術指南殿?」
忠明は殺気を秘めた眼差しで宗矩を向く。やや青ざめた十兵衛の前で、忠明と宗矩の殺気が火花を散らすかのようだ。
かつて宗矩と忠明は、江戸を荒らしていた風魔忍者から人々を守るために戦っていた。
それが縁で二人は得難き戦友になったという。もっとも忠明は宗矩を剣術指南殿といささか皮肉をこめて呼んでいる。一言で説明できぬ間柄ながら、互いに認め合っているのは間違いない。
「いやいや、むしろ手前が」
宗矩もまた静かに十兵衛を見つめた。何の感情も浮かばぬ父宗矩の顔が怖い。
薄ら笑いを浮かべた忠明も勿論怖い。渡る世間は鬼ばかりだ。
「では参る」
忠明は言って立ち上がった。場は道場へ切り替わった。
忠明が打ちこんだ一刀へ、十兵衛は踏みこむ。肩で忠明の腕を受け止めた十兵衛は、右足で忠明の右踵を鋭く払った。
刹那の間に閃いた十兵衛の小内刈。後世の柔道の技だ。それを受けてよろめく忠明へ十兵衛は組みつき、尚も技をしかける。
十兵衛の右足は忠明の左足を払った。大内刈だ。素早い連続技に忠明は後方へ倒れた。
「ふふふ、十兵衛さんも強くなったな」
忠明は余裕で立ち上がった。まるで本気を出していない。まるで十兵衛に華を持たせているような感すらある。
「参るぞ」
宗矩は無手である。先師である上泉信綱から、石舟斎宗厳を通じて無刀取りの妙技を受け継いだ宗矩。
十兵衛が目指し、越えねばならぬ壁であった。
「応!」
十兵衛は宗矩へ踏みこんだ。己自身を弾と化して力の限りぶち当たる。
「全て捨てよ!」
「一刀に始まり、一刀に終わる……」
宗矩と忠明の、父と師の声が十兵衛を導く。
夢だ、夢だ、夢だ。全て夢だ。宗矩も忠明も他界している。
消えゆく意識の中で十兵衛は悟る。
今までは導かれていたが、これからは自分が導くのだ。
後継者として、三池典太を授けた蘭丸を。
*
七郎はねねの愚痴を聞かされていた。
「だってねえ、蘭丸様ってば毎日毎日、食っちゃ寝、食っちゃ寝で……」
ねねはうどんをすすりながら愚痴という名の毒を吐く。まるで毒蛇だ。
場所は武家屋敷通りのうどん屋だ。店主の源は江戸城御庭番であり七郎とは戦友だ。
源は身分を偽り、武家屋敷に住む大名達を監視し、江戸の治安維持に務めてきた。今では妻を迎えて娘もいた。
「おお、姐さん! どうぞ、ゆっくりしていってください!」
店主の源が、わざわざ店の奥から出てきた。七郎には挨拶もなく、ねねにしか注意を払っていない。七郎などは空気扱いだ。戦友だというのに。
「ええ、ゆっくり食べさせてもらうわ…… もちろん、ツケで!」
ねねはうどんのおかわりを源に注文し、更に具材も注文した。
野菜のかき揚げ、イカの天ぷら、揚げ玉、油揚げ……
油でむせそうだが、ねねは気にする事もない。七郎が見た事もないような美女だが、その仕草は残念だ。
――ずずずずう
ねねは豪快にうどんをすする。百年の恋も冷める食いっぷりだ。
「そ、そうか」
七郎は蕎麦切りをすすっていた。源の店には、需要は少ないながら蕎麦もある。
蕎麦には疲労回復の効果があり、それがゆえに肉体労働者に好まれ、江戸で蕎麦が流行ったのかもしれない。
また、この時代で蕎麦というと蕎麦粉を丸めた蕎麦がきの事だ。後世の蕎麦のように切ったものは、蕎麦切りと呼ばれていた。
「蘭丸は何をしている?」
七郎はねねに問う。年齢差を考えると、娘のようなねね。
だが、ねねは七郎が目上だろうと関係ない。天上天下唯我独尊だ。そんなねねだが、なぜか江戸の庶民に慕われている。
「ちょっと聞いてくださる? 蘭丸様ってば女に情けをかけてさあ」
「ふむ?」
「幽霊女を成仏させてやらずに…… 夜な夜な会ってるんですわよ」
そう言って、ねねは二杯目のうどんを平らげた。ねねの大食いは嫉妬の念も一因のようだ。
七郎は兵法の事ばかり考えている。
宮本武蔵いわく、常に兵法の道を離れず。
その言葉通りの生き方をし、己の死に方を模索する七郎は、ある種の狂人かもしれない。
が、だからこそ生き延びてきた。
江戸の人々を守り、治安維持に貢献した。
悪を為す修羅も、時に仏敵を降伏するがゆえに仏法天道の守護者なのだ。
七郎も修羅に似る。彼は決して善人ではないが、江戸を守る戦いに命を懸けるからこそ、勝利の女神が微笑むのだ。
(さて、どうするか)
七郎は長屋の自室で腕組みして考える。ねねは蘭丸に女幽霊がついていると言った。
蘭丸には七郎が授けた三池典太がある。後世では国宝に数えられる名刀の刃は、魔物をも斬ると伝えられている。
その三池典太を持つ蘭丸ならば女幽霊を斬れるだろう。いや斬れるはずなのだ。
それをしないのは蘭丸の優しさゆえと、ねねはうどんを三杯平らげた後に言ったものだ。
――そんなに食うと太るぞ。
と助言した七郎には、ねねの鉄拳が飛んできた。
女心は海より深い、いやいや、この場合は七郎が悪い。
そして、ねねは七郎に魔除けの札を授けた。何の因果か、七郎はねねが魔除けの札を作成する場面を目撃した。
――は!
ねねは農家で購入した鶏の首を裂き、その血を器に注いだ。器にあらかじめ注がれていた墨汁と鶏の血が混じったところへ、ねねが指差せば、そこから炎が吹き上がった。
炎は一瞬で消失した。七郎は驚きのあまり、目を見開いてねねの挙動に注目した。
そしてねねは筆を墨汁に浸し、白い無地の札にサラサラと文字を書き出した。七郎には読めない。梵字のように思われたが、鶏の血を用いる仏法の呪いというのは見た事も聞いた事もない。
かといって陰陽道の技でもなさそうだ。七郎は京の禁裏(天皇の御所)で秘密裏に活動した時、遠縁の陰陽師に会っている。
柳生友景という見目麗しい青年であった。彼は陰陽師であり、剣士でもあった。
七郎は友景と力を合わせ、禁裏を襲った怪異から月ノ輪なる女性を守り抜いた。
余談ながら、後で七郎が知った話によれば、友景は祖父の石舟斎宗厳の甥(妹の子)だという。
とすると、七郎の父である又右衛門宗矩のいとこであり、年長か同世代のはずだ。
だが、七郎が会った友景はせいぜい二十代半ばの青年であった。あれはどういうことなのか。
「そんな事はどうでもいいわ、この札を女幽霊に貼りつければ、たちまち言語道断、野州無宿、テクマクマヤコンで消滅するわ。七郎さん、お願いね」
「……お前がやればいいじゃないか」
「ええー、だってわたくし、か弱い乙女だし~ 蘭丸様の前では箸より重いもの持った事ないし~」
「あー、そうですかよ」
七郎は仏頂面で了解した。これも神仏の導きなのであろうか。
夜となり、江戸の町は静まり返った。
長屋の自室で長らく瞑想していた七郎は、小太刀一本を腰の帯に差して外に出た。
満点の星空に、淡い月光。
微かな月明かりのみの、夜の世界。
ここは人の世界ではなかった。この世界で七郎が動けるのは、幾多の修羅場を経てきたからかもしれない。
(全く、女の頼みを聞くと、ろくな事がない)
過去に頼み事をした女性陣を恨んだり憎んだりしているわけではない。
ただ七郎は、女性の頼み事が困難だという事を知っている。
知っていて尚も頼まれて断らぬのは、彼がお人好しだからだろう。
思い出しても苦痛なだけだ。七郎は苦笑して夜の中を駆けた。蘭丸と女の幽霊は、近くの川で会っているらしい。
蘭丸の持つ三池典太ならば女の幽霊を斬れるかもしれぬ。いや、斬れるはずだ。それは七郎が実証済みだ。
人ならぬ魔性の者と対峙し、それを斬ってきたからこそ七郎は生きているのだ。
蘭丸は元は人を斬った事もある用心棒、斬るのにためらいはないはずだ。
それが斬らぬというのなら、理由があるはずだ。
「……なるほどな」
現場に到着した七郎は納得した。
橋のたもとの腰かけに、蘭丸と一人の娘が並んで腰を下ろしていた。
長い黒髪を無造作に後ろで束ねた眉目秀麗の蘭丸。
その隣には小柄な娘が座して、蘭丸に積極的に話しかけている。
娘は十二、三といったところか。月光に照らされた顔はひどく幼く、儚げだ。
七郎はねねを思い出して意地悪く笑った。ねねが嫉妬するには対象が幼い。また幼い娘の幽霊が相手では、蘭丸も斬るのをためらっているのだろう。着流し姿の蘭丸は、腰に何も差していない。
(いや、しかし、どうする?)
七郎は蘭丸と幽霊の娘を、木の影から見守っていたが、逆にどうすれば良いか判断に困った。
ねねから授けられた札を使えば、娘は消滅するのだろうか。いや、冥府へ帰るのだろうか。
なにぶん、ねねの事だ。幽霊の娘が美の好敵手にはなり得ずとも、恋敵としては認識しているだろう。
そして娘の魂を冥府魔道へ叩き落とすくらいはやるかもしれない。七郎が見た事もない美女ねね。だがその心意気は未だに測れない。
「――あんなところにいやがったぞう」
不意に、側で声がして七郎の心胆は震え上がった。蘭丸と幽霊娘の逢瀬を見ていたとはいえ、周囲への警戒を怠っていたわけではない。
「小娘め、いつまで現世にいるつもりだ」
また別の声がした。七郎は声がした方へ、左手側へ視線を移す。
するとそこには信じがたいものがいた。
牛頭の男と馬頭の男。二人は半裸である。身の丈は六尺五寸あまりの鍛え上げた肉体には、七郎ですらが息を呑む迫力だ。
地獄の獄卒は牛頭馬頭の鬼だという。ならば、彼らは――
「あの美男はどうする、あいつのせいだ」
「かまわん、あいつも一緒に連れていこう」
などと、牛頭鬼と馬頭鬼は物騒な事を話している。
七郎は生きた心地もせぬ。橋のたもとには仲睦まじい蘭丸と幽霊の娘、少し離れたところには牛頭鬼と馬頭鬼。
月明かりに照らされた彼らは果たして現実の光景なのか、はたまた七郎が見ている夢なのか。
月下の夢幻の光景に、正しく魂消た七郎だが、牛頭鬼と馬頭鬼が蘭丸らへと歩を進めようとした瞬間、彼は声を出した。
「待ってくれ」
七郎は牛頭鬼と馬頭鬼に呼びかけた。二体の鬼は少々驚いたようだ。
「あの二人を力ずくで引きはがすのは、止してくれ」
七郎は二体の鬼を見つめて、静かに告げた。隻眼の異相には何の感情も浮かんでいない。
が、闘うという意志だけは全身に満ち満ちていた。
「こいつ我らが見えるのか」
「妙だぞ、こいつ」
牛頭鬼と馬頭鬼の多少の動揺――
七郎も内心で動揺している。心臓が早鳴りを繰り返している。これほどの激しい緊張はいつ以来か。
脳内には父の又右衛門宗矩や師事した小野次郎右衛門忠明、更には由比正雪や丸橋忠弥が思い出された。
――七郎、貴様は地獄の獄卒が相手だからといって怯えておるのか? はっはっはっ、こいつはお笑いだ!
七郎の脳内には丸橋忠弥の声が思い出された。彼とは仲が悪かった。だからこそ好敵手だったのかもしれぬ。
丸橋忠弥の挑発(これは七郎の妄想だ)が、七郎に怒りを生み、そして今、勇気を与えていた。
「お前も連れていってもいいのだぞ」
牛頭鬼が七郎を脅すように歩み寄ってきた。息を呑む巨体だ。五尺七寸前後の七郎より頭二つ背が高い。
「それは断る」
七郎、静かにつぶやいた。
次の瞬間には矢のように飛び出していた。
七郎は牛頭鬼の眼前に踏みこむや、右足の爪先で牛頭鬼の右踵を払った。
体勢を崩された牛頭鬼が背中から大地へ倒れた。倒れた際に後頭部を強打したか、うめいて起き上がれない。
体格の差を活かした七郎の奇襲であった。
しかけた技は後世の柔道における小内刈だ。父の言によれば、戦場で鍔迫り合いに及んだ時には両手が使えなくなる。
その体勢から敵を倒すために編み出されたのが「無刀取り」における各種の足技だという。
まともに真っ正面からぶつかっては、七郎の勝機は薄かったろう。
「待ってやってくれ」
七郎は尚も言うが、今この場合においては、彼の方が力ずくで事を成そうとする暴虐者かもしれない。
「貴様、何者だ!」
叫んで馬頭鬼は七郎へ襲いかかった。
馬頭鬼の突進の迫力に、七郎の反応が僅かに遅れた。
馬頭鬼の体当たりが、身をかわしそこねた七郎の肩をかすめる。
直撃を避けた七郎だが、その体は回転しながら宙を舞って落ちた。
(な、なんという……)
身を起こしながら七郎は戦慄した。直撃していたら血を吐いて死んだかもしれない。
馬頭鬼が振り返ったところへ、立ち上がった七郎は攻めこんだ。
「ふ!」
気合と共に七郎は中段回し蹴りを放つ。馬頭鬼の左腿に当たった。
人間が無意識に放てる最も重い攻撃の一つが、利き足での回し蹴りだ。
だが、それを受けても馬頭鬼の動きは僅かに止まっただけだ。
「ぬおおお!」
七郎は馬頭鬼の懐に飛びこみ、左右の肘打ちを繰り出した。馬頭鬼は七郎の肘打ちを胸や腹に浴びているが、大して効いた様子もない。
戦場で組討に及んだ際、肘打ちで鎧武者を攻めろと七郎は教えられたが、馬頭鬼の胴体は鎧以上だ。
駄々っ子に手を焼く大人のような馬頭鬼は、左手を伸ばして七郎の奥襟をつかんだ。この体格差では、組まれれば七郎に勝機はない。
「うわあー!」
死力を尽くす七郎の雄叫び――
七郎は馬頭鬼の右手首を両手でつかんで引き寄せると同時に、馬頭鬼のみぞおちへ頭突きを叩きこんだ。
体格差がなければ成立しない荒い攻めだが、それで馬頭鬼はうめいた。
その一瞬の機を七郎は逃さぬ。
左手で馬頭鬼の右手首を握ったまま、七郎の体は回転した。
体勢を崩した馬頭鬼の右足へ自身の右足を引っかけて、七郎は投げ落とした。
馬頭鬼の巨体は背中から勢いよく大地に叩きつけられた。柔道における体落だ。父の又右衛門宗矩は左手一本で体落をしかけるのを得意としていた。
「頼む!」
七郎は倒れた馬頭鬼の左腕を取り、素早く脇固めをしかけた。
「待ってやってくれ!」
七郎は自分でも訳のわからぬ感情に突き動かされて叫んだ。
あるいは彼を動かしたのは、かつての春日局など死した女性達であったかもしれない。
男と女の逢瀬を邪魔する者は馬に蹴られて死すべし、と春日局なら言いかねない。
まあ、この場合は相手が馬頭鬼であるが。
「やめてください!」
突如、夜空に響いた娘の声に、七郎は技を解いて立ち上がった。
振り返れば幽霊の娘が傍らに蘭丸を引き連れ、七郎と牛頭鬼馬頭鬼を見つめていた。
**
七郎は湯屋にいた。二階の娯楽室で蘭丸と将棋を指している。
「お前が娘の手でも握ってやれば、それだけで良かったんだ」
「は……」
七郎の言に蘭丸は畏まって言葉も出ない。が、将棋は蘭丸が優勢である。蘭丸は手加減というものを心得ていない。
「王手」
「うむむむ……」
「……待ちますか」
「いや、いい。俺の負けだ。それよりも今後は気をつけろよ」
七郎は数日前の夜を思い出す。忘れられない鮮烈な夜だ。
地獄の獄卒である牛頭鬼と馬頭鬼との対決。
幽霊の娘の儚くも夢幻の美しさ。
――蘭丸様に会えて良かった……
幽霊の娘の美しさは恋する女性の美しさだった。七郎は心を打たれた。
そして幽霊の娘は蘭丸に手を握ってもらえた事で満足し、自ら冥府へと戻る事にしたのだった。死者を探しにやってきた牛頭鬼馬頭鬼は、とんだ骨折り損だった。
――死んだら今日の借りを返してやるぞ。首を洗って待っていろ。
牛頭鬼の言葉に七郎は戦慄した。死んだ後も七郎はやるべき事があるのだ。現世での対決以上の激しい闘争が、冥府でも待つだろう。
――ところで、その札は何だ。なんで人間がそんなものを持っている。
馬頭鬼の言葉に、七郎はねねから与えられた札を懐中に持つ事に思い出した。
――や、やだ、近づかないで!
幽霊の娘が発狂したような金切り声を上げたので、七郎は傷ついた。
どうやら、ねねが七郎に授けた札は、冥府の住人には恐ろしく、忌々しいものであるらしい。
その後、七郎と蘭丸は幽霊の娘が牛頭鬼と馬頭鬼に連れられて冥府へ戻っていくのを見送った。
三人は見えない階段を昇るようにして、夜空に消えていった……
「お前といると退屈しないようだ」
七郎は蘭丸を見つめてニヤリとした。
まるで美女のような蘭丸が、魔を斬る三池典太を手にして、どうやって江戸の夜を生き抜いていくのか?
七郎はそれが楽しみだ。
「ふう、おまたせしたわねー」
娯楽室にねねが姿を見せたので、七郎と蘭丸のみならず、他の客もざわついた。
湯上がりのねねは正真正銘の美女だった。
まるで仏教画に描かれた天女のようだと七郎は感じた。
娯楽室にいる男達は、談笑も碁を指すのも忘れて、ねねに見入っている。
「あら、どうしたの? 娯楽室に女が来ちゃいけないのかしら」
「あ、あまり女は来ないぞ、来るのは商売女ばかりだからな」
七郎は咳払いした。当時の湯屋には遊女の類も常駐していた。男達の中には、女を買う目的で湯屋に来ている者もいたのだ。
江戸は各地から労働者が集まり、男が七割、女が三割と言われていた。寂しい男は七郎も含めて大勢いたのだ。
七郎の寂しさは、公の彼はすでに死んでいるために妻子に会えぬからだ。
「まあ、あとは二人でやれ」
七郎、慌てて立ち上がって湯屋を去った。ねねは苦手だが、彼女は七郎がときめくほどに美しかった。
だから、それが問題だ。
七郎は夕闇の中を散策する。江戸の町も黄昏時を迎えていた。
見知った通りが別世界のように見える。黄昏時は逢魔が時であり、この中で出会う者全てが人間とは限らない。
七郎は武家屋敷の並ぶ通りを歩いた。出歩く者は誰もいなかった。
ふと、七郎はねねから与えられた札を思い出した。あの夜以降、札は消えてしまった。
何処かに落としたと思っていたが、実際には、札は七郎の心身に溶けこんでいたのだ。
幽霊や地獄の獄卒すら怯ませる札を、心身に吸収してしまった七郎は、人ならざる者を知覚する力が増した――
「む……」
七郎が屋敷と屋敷の間にある小道へ目を向ければ、そこは薄暗く、背を向けて屈みこんだ人影が見えた。同時に七郎は血の臭いを嗅いだ。
人影は女のようであり、地に倒れたものを食らっていた。
地に倒れているのは月代を剃り上げた武士のようであった。女は武士の体を引き裂いて、その血肉をすすっていたのだ。
「……なるほど」
七郎は不敵に笑った。彼は由比正雪の刺客に襲われた際、全身十数箇所を斬られて尚、生き延びた。
どうして自分が生きているのか、それは武徳の祖神の加護だと信じていた。
そして確信した。七郎には、まだまだ倒すべき敵がいるのだ。
「男は卑小、女は魔性……」
七郎は腰の小太刀の柄へ、逆手に右手を伸ばした。
振り返った女の眼は大きく見開かれていた。人間的な感情など微塵も感じられない。
これは女の姿をした餓えた化物だ。
「御免」
七郎は踏みこみながら小太刀を逆手に抜いた。
人ならざる魔性は日常の中に潜んでいるのだ。
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