無明を断つ 〜寛永の遊魔〜

MIROKU

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寛永の遊魔

姿は即ち是、空なり 5

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 更に、蜘蛛の巣の表面には不気味な生き物が蠢いていた。
 丸みを帯びた滑らかな肢体、背から生えた八本の長い脚。
 闇の中で蠢くのは、人間と蜘蛛が融合したかのような魔性であった。
(来るか)
 七郎は夜闇に広がる巨大な蜘蛛の巣を見上げて、左手で小太刀を抜いた。
 両手に大小二刀を提げて、夜空を見上げる。
「死ぬには良い夜だ…………」
 七郎は微笑した。全身全霊を振り絞る、それが彼の全てだった。
 夜の中に殺気が満ちる。七郎は動かない。夜空の蜘蛛の巣に蠢く魔性も動かない。
 やがて巨大な蜘蛛の巣は唐突に消失した。後には夜の静寂が残された。
(何がどうした……?)
 七郎は呆然とした。そして両手が震えていることに気づく。
 彼は恐怖していたのだ。死そのものよりも、おりんやおまつに会えなくなること、それが恐かった。
 大小二刀を鞘に納め、般若面も拾い上げる。七郎が目指す境地はまだまだ遠いように思われた。
 何ものにもとらわれぬ自然の理。
 菩提の境地。
 文武一道。
 自身が目指すもの、それを言い表す言葉はなかった。
 ただ七郎には目指すべき明日があった。今は命あることを感謝した。
(これを捨てる日は来るだろうか)
 七郎は手にした般若面を見つめた。自身が彫り上げた木彫りの面だ。
 鬼の面を彫ったつもりが、誰も彼もが般若だという。なので七郎本人も般若の面として認識した。
 そして七郎は般若面で顔を隠し、駿河や島原で暗躍した。
 感情と理性、更には個すらも隠す――
 七郎にとって、この般若面はそのための道具だ。
 そして般若面を捨てる日とは、平和な世が来た日ということになる。
 今の江戸に平和は遠い。生あるうちに平和な世の中は訪れるだろうか。
 七郎の心は黒く染まるが、沈みこみはしなかった。
 
 
 翌日も七郎の姿は馴染みの茶屋にあった。
「一緒に旅芸人一座でも観に行かないか」
「な、何を言ってんのよ……」
 茶屋の店先の床几で、七郎とおりんは語らう。七郎も珍しく積極的だ。
(命あればこそだな)
 七郎は苦笑する。昨夜の怪異で悟ったのは、大事なものの存在だ。
 七郎は自身の死よりも、おりんとおまつを失うことが恐ろしい。
「ねえねえ、それもいいけどさあ」
「な、なんだ」
「あの二人って知り合いだったんだね」
 おりんと七郎、二人は茶屋の奥に振り返った。そこの座敷では國松と正雪が、おまつの運んだ茶を飲んでいる。
 七郎としては身が引き締まるというか――
「湯屋で将棋を指したのがきっかけらしいんだが、俺もよくは知らん」
「へえ、男って会話しなくても、そんなことで仲良くなるんだ」
「あの二人だと、英雄は英雄を知るというところかな」
 國松は町の顔役で、七郎には上役。
 正雪は江戸の名士で、七郎には兄のようなもの。
 その二人が茶屋で席を同じくしているとは。それとも隠された意図があるのだろうか。
「……ねえ、ちょっと」
「ん?」
「人の話、聞いてる?」
「あ、ああ」
「そ、それで何処に行くの?」
「あら二人とも出かけるの? いつよ?」
 七郎とおりん、更におまつも話の輪に加わった。三人の話が盛り上がっている一方で、茶屋の奥では國松と正雪が話しこんでいた。
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