or

真亭 甘

文字の大きさ
15 / 36
SECOND STAGE 華凰

洛陽城6

しおりを挟む
男が地面に転がったまま呻いていると、周囲のざわめきが次第に大きくなった。歓楽街の喧騒に紛れていたが、今や人々は明らかに興味と警戒の眼差しを向けていた。誰かが声を上げる。

 「騒ぎだ! 誰か、警備隊を呼べ!」

 その言葉を皮切りに、奥の路地から複数の足音が近づいてくる。重い鉄の鎧がこすれる音、規律正しい動き——それは歓楽街には不釣り合いな、明らかに訓練された者たちのものだった。

 「おい、お前たち! 何をしている!」
 駆けつけたのは、雅商地区を管轄する警備隊だった。二層の住人たちの安全を守る彼らは、厳格な規律を重んじ、貴族や商人の味方として振る舞うのが常だった。
 彼らの視線が、地面に転がった酔っ払いの男に向けられる。そして、次にランの姿を見た途端、表情が険しくなった。

 「……なんだ、こいつは?」
 ボロ布をまとったような服装、靴も履かず、髪はぼさぼさで、まるで野良犬のような出で立ち。どこから見ても、この歓楽街の住人には見えない。

 「どう見ても浮浪者だな。こいつが騒ぎを起こしたのか?」

 「そ、そうなんです! こいつがいきなり手を出してきて……!」
 地面の男が、大げさに身を起こしながら訴える。

 「俺はただ、この子を送っていただけなのに……急に殴りかかってきたんだ!」
 女中は息を飲み、何かを言いかけるが、酔っ払いの勢いに押されて口をつぐむ。ランはというと、依然として無表情のまま、警備隊を見つめていた。

 「なるほどな……身なりの悪い浮浪児が騒ぎを起こしたか」
 警備隊の隊長らしき男が、静かに言った。その目には、すでに結論が下されている。

 「身分証は持っているか?」
 当然、ランがそんなものを持っているはずがない。彼はただ警備隊の言葉を聞き流し、相手の動きをじっと観察していた。

 「持っていない、か。ならば、問答無用で捕縛だ!」
 隊員たちが一斉に動いた。手には拘束用の縄が握られており、数人がかりで取り押さえようとする。
 しかし、その瞬間——

 ランの足元がわずかに沈んだかと思うと、次の瞬間には彼の姿が消えていた。
 「なっ……!?」
 警備隊の一人が驚愕の声を上げる。誰もが見失うほどの速度で、ランは瞬時に移動し、警備隊の背後に立っていた。

 「な……今、どこへ……!?」
 動きを目で追えなかった隊員たちが混乱する中、ランはただ静かに警備隊を見下ろしていた。その眼光は、まるで獲物を定めた肉食獣のようなものだった。
 警備隊の間に、一瞬の緊張が走った。目の前で起きた異常な現象に動揺していた。
 
「い、今、何が……?」

 「気にするな! こんな浮浪児一人、数人がかりで押さえれば問題ない!」
 焦燥を振り払うように、隊長が叫ぶ。合図とともに、隊員たちが一斉にランへ襲いかかる。手には警棒、縄、捕縛用の鎖。歓楽街の騒ぎを治めるための装備を総動員し、一気に取り押さえようとする。


 しかし——


 「待ちなさい」

 その声は、まるで空気そのものを震わせるかのようだった。
 瞬間、すべての動きが止まる。警備隊の隊員も、酔っ払いも、通行人さえも、声の主に目を向けた。

 そこに立っていたのは、一人の女性。

 闇夜に浮かび上がるような、鮮やかな紅と金の着物。繊細な刺繍が施された絢爛豪華な衣装は、まるで高貴な花魁太夫そのものだった。しかし、その立ち姿は、花街に生きる者たちのそれとは異なる威厳と気品に満ちていた。
 漆黒の髪は艶やかに結い上げられ、長い睫毛に縁取られた瞳は、まっすぐに警備隊を見据えている。

 「これは、一体どういう騒ぎかしら?」
 女性は静かに問いかけた。

 隊長が思わず直立する。歓楽街において、これほどの装いを許される者は限られている。あるいは、名のある花魁か、それ以上の存在か——少なくとも、安易に無礼を働ける相手ではない。

 「……この者が、騒ぎを起こしたとの報告を受けまして」
 隊長が低い声で答える。
 女性はゆっくりと視線を巡らせた。転がった酔っ払い、怯える女中、そして無表情のまま立つラン。

 「なるほどね」
 小さく微笑むと、女性は歩み寄る。そして、酔っ払いの男を見下ろした。

 「あなた、この娘に無理を強いていたのではなくて?」
 酔っ払いは目を泳がせた。

 「そ、それは……その……」
 女性は続けた。

 「そこへ彼——」視線がランへと向く。「——が止めに入った。それが事の経緯でしょう?」
 女中は驚いた顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
 「そ、そうです……この方が助けてくださったんです……!」
 その言葉に、警備隊の面々は動揺した。

 「……そういうことか」
 隊長は額に手をやり、ため息をついた。

 「では、この者に非はないと?」

 「ええ」
 女性は優雅に微笑みながら答えた。
 隊長は渋い顔をしながらも、女性の言葉に逆らうことはできなかった。歓楽街には歓楽街の秩序がある。そして、この場で最も影響力を持つのが誰かを理解していた。


 「……わかりました。我々は引きます」
 そう言うと、警備隊はゆっくりと後退し、通りの向こうへと消えていった。静寂が戻る。
 女性は、再びランへと視線を向けた。その瞳には、微かな興味が浮かんでいる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業

ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。

八百万の神から祝福をもらいました!この力で異世界を生きていきます!

トリガー
ファンタジー
神様のミスで死んでしまったリオ。 女神から代償に八百万の神の祝福をもらった。 転生した異世界で無双する。

転生したら『塔』の主になった。ポイントでガチャ回してフロア増やしたら、いつの間にか世界最強のダンジョンになってた

季未
ファンタジー
【書き溜めがなくなるまで高頻度更新!♡٩( 'ω' )و】 気がつくとダンジョンコア(石)になっていた。 手持ちの資源はわずか。迫りくる野生の魔物やコアを狙う冒険者たち。 頼れるのは怪しげな「魔物ガチャ」だけ!? 傷ついた少女・リナを保護したことをきっかけにダンジョンは急速に進化を始める。 罠を張り巡らせた塔を建築し、資源を集め、強力な魔物をガチャで召喚! 人間と魔族、どこの勢力にも属さない独立した「最強のダンジョン」が今、産声を上げる!

バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します

namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。 マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。 その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。 「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。 しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。 「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」 公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。 前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。 これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる

あっとさん
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。 でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。 でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。 その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。 そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。

猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣で最強すぎて困る

マーラッシュ
ファンタジー
旧題:狙って勇者パーティーを追放されて猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣だった。そして人間を拾ったら・・・ 何かを拾う度にトラブルに巻き込まれるけど、結果成り上がってしまう。 異世界転生者のユートは、バルトフェル帝国の山奥に一人で住んでいた。  ある日、盗賊に襲われている公爵令嬢を助けたことによって、勇者パーティーに推薦されることになる。  断ると角が立つと思い仕方なしに引き受けるが、このパーティーが最悪だった。  勇者ギアベルは皇帝の息子でやりたい放題。活躍すれば咎められ、上手く行かなければユートのせいにされ、パーティーに入った初日から後悔するのだった。そして他の仲間達は全て女性で、ギアベルに絶対服従していたため、味方は誰もいない。  ユートはすぐにでもパーティーを抜けるため、情報屋に金を払い噂を流すことにした。  勇者パーティーはユートがいなければ何も出来ない集団だという内容でだ。  プライドが高いギアベルは、噂を聞いてすぐに「貴様のような役立たずは勇者パーティーには必要ない!」と公衆の面前で追放してくれた。  しかし晴れて自由の身になったが、一つだけ誤算があった。  それはギアベルの怒りを買いすぎたせいで、帝国を追放されてしまったのだ。  そしてユートは荷物を取りに行くため自宅に戻ると、そこには腹をすかした猫が、道端には怪我をした犬が、さらに船の中には女の子が倒れていたが、それぞれの正体はとんでもないものであった。  これは自重できない異世界転生者が色々なものを拾った結果、トラブルに巻き込まれ解決していき成り上がり、幸せな異世界ライフを満喫する物語である。

処理中です...