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SECOND STAGE 華凰
洛陽城6
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男が地面に転がったまま呻いていると、周囲のざわめきが次第に大きくなった。歓楽街の喧騒に紛れていたが、今や人々は明らかに興味と警戒の眼差しを向けていた。誰かが声を上げる。
「騒ぎだ! 誰か、警備隊を呼べ!」
その言葉を皮切りに、奥の路地から複数の足音が近づいてくる。重い鉄の鎧がこすれる音、規律正しい動き——それは歓楽街には不釣り合いな、明らかに訓練された者たちのものだった。
「おい、お前たち! 何をしている!」
駆けつけたのは、雅商地区を管轄する警備隊だった。二層の住人たちの安全を守る彼らは、厳格な規律を重んじ、貴族や商人の味方として振る舞うのが常だった。
彼らの視線が、地面に転がった酔っ払いの男に向けられる。そして、次にランの姿を見た途端、表情が険しくなった。
「……なんだ、こいつは?」
ボロ布をまとったような服装、靴も履かず、髪はぼさぼさで、まるで野良犬のような出で立ち。どこから見ても、この歓楽街の住人には見えない。
「どう見ても浮浪者だな。こいつが騒ぎを起こしたのか?」
「そ、そうなんです! こいつがいきなり手を出してきて……!」
地面の男が、大げさに身を起こしながら訴える。
「俺はただ、この子を送っていただけなのに……急に殴りかかってきたんだ!」
女中は息を飲み、何かを言いかけるが、酔っ払いの勢いに押されて口をつぐむ。ランはというと、依然として無表情のまま、警備隊を見つめていた。
「なるほどな……身なりの悪い浮浪児が騒ぎを起こしたか」
警備隊の隊長らしき男が、静かに言った。その目には、すでに結論が下されている。
「身分証は持っているか?」
当然、ランがそんなものを持っているはずがない。彼はただ警備隊の言葉を聞き流し、相手の動きをじっと観察していた。
「持っていない、か。ならば、問答無用で捕縛だ!」
隊員たちが一斉に動いた。手には拘束用の縄が握られており、数人がかりで取り押さえようとする。
しかし、その瞬間——
ランの足元がわずかに沈んだかと思うと、次の瞬間には彼の姿が消えていた。
「なっ……!?」
警備隊の一人が驚愕の声を上げる。誰もが見失うほどの速度で、ランは瞬時に移動し、警備隊の背後に立っていた。
「な……今、どこへ……!?」
動きを目で追えなかった隊員たちが混乱する中、ランはただ静かに警備隊を見下ろしていた。その眼光は、まるで獲物を定めた肉食獣のようなものだった。
警備隊の間に、一瞬の緊張が走った。目の前で起きた異常な現象に動揺していた。
「い、今、何が……?」
「気にするな! こんな浮浪児一人、数人がかりで押さえれば問題ない!」
焦燥を振り払うように、隊長が叫ぶ。合図とともに、隊員たちが一斉にランへ襲いかかる。手には警棒、縄、捕縛用の鎖。歓楽街の騒ぎを治めるための装備を総動員し、一気に取り押さえようとする。
しかし——
「待ちなさい」
その声は、まるで空気そのものを震わせるかのようだった。
瞬間、すべての動きが止まる。警備隊の隊員も、酔っ払いも、通行人さえも、声の主に目を向けた。
そこに立っていたのは、一人の女性。
闇夜に浮かび上がるような、鮮やかな紅と金の着物。繊細な刺繍が施された絢爛豪華な衣装は、まるで高貴な花魁太夫そのものだった。しかし、その立ち姿は、花街に生きる者たちのそれとは異なる威厳と気品に満ちていた。
漆黒の髪は艶やかに結い上げられ、長い睫毛に縁取られた瞳は、まっすぐに警備隊を見据えている。
「これは、一体どういう騒ぎかしら?」
女性は静かに問いかけた。
隊長が思わず直立する。歓楽街において、これほどの装いを許される者は限られている。あるいは、名のある花魁か、それ以上の存在か——少なくとも、安易に無礼を働ける相手ではない。
「……この者が、騒ぎを起こしたとの報告を受けまして」
隊長が低い声で答える。
女性はゆっくりと視線を巡らせた。転がった酔っ払い、怯える女中、そして無表情のまま立つラン。
「なるほどね」
小さく微笑むと、女性は歩み寄る。そして、酔っ払いの男を見下ろした。
「あなた、この娘に無理を強いていたのではなくて?」
酔っ払いは目を泳がせた。
「そ、それは……その……」
女性は続けた。
「そこへ彼——」視線がランへと向く。「——が止めに入った。それが事の経緯でしょう?」
女中は驚いた顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「そ、そうです……この方が助けてくださったんです……!」
その言葉に、警備隊の面々は動揺した。
「……そういうことか」
隊長は額に手をやり、ため息をついた。
「では、この者に非はないと?」
「ええ」
女性は優雅に微笑みながら答えた。
隊長は渋い顔をしながらも、女性の言葉に逆らうことはできなかった。歓楽街には歓楽街の秩序がある。そして、この場で最も影響力を持つのが誰かを理解していた。
「……わかりました。我々は引きます」
そう言うと、警備隊はゆっくりと後退し、通りの向こうへと消えていった。静寂が戻る。
女性は、再びランへと視線を向けた。その瞳には、微かな興味が浮かんでいる。
「騒ぎだ! 誰か、警備隊を呼べ!」
その言葉を皮切りに、奥の路地から複数の足音が近づいてくる。重い鉄の鎧がこすれる音、規律正しい動き——それは歓楽街には不釣り合いな、明らかに訓練された者たちのものだった。
「おい、お前たち! 何をしている!」
駆けつけたのは、雅商地区を管轄する警備隊だった。二層の住人たちの安全を守る彼らは、厳格な規律を重んじ、貴族や商人の味方として振る舞うのが常だった。
彼らの視線が、地面に転がった酔っ払いの男に向けられる。そして、次にランの姿を見た途端、表情が険しくなった。
「……なんだ、こいつは?」
ボロ布をまとったような服装、靴も履かず、髪はぼさぼさで、まるで野良犬のような出で立ち。どこから見ても、この歓楽街の住人には見えない。
「どう見ても浮浪者だな。こいつが騒ぎを起こしたのか?」
「そ、そうなんです! こいつがいきなり手を出してきて……!」
地面の男が、大げさに身を起こしながら訴える。
「俺はただ、この子を送っていただけなのに……急に殴りかかってきたんだ!」
女中は息を飲み、何かを言いかけるが、酔っ払いの勢いに押されて口をつぐむ。ランはというと、依然として無表情のまま、警備隊を見つめていた。
「なるほどな……身なりの悪い浮浪児が騒ぎを起こしたか」
警備隊の隊長らしき男が、静かに言った。その目には、すでに結論が下されている。
「身分証は持っているか?」
当然、ランがそんなものを持っているはずがない。彼はただ警備隊の言葉を聞き流し、相手の動きをじっと観察していた。
「持っていない、か。ならば、問答無用で捕縛だ!」
隊員たちが一斉に動いた。手には拘束用の縄が握られており、数人がかりで取り押さえようとする。
しかし、その瞬間——
ランの足元がわずかに沈んだかと思うと、次の瞬間には彼の姿が消えていた。
「なっ……!?」
警備隊の一人が驚愕の声を上げる。誰もが見失うほどの速度で、ランは瞬時に移動し、警備隊の背後に立っていた。
「な……今、どこへ……!?」
動きを目で追えなかった隊員たちが混乱する中、ランはただ静かに警備隊を見下ろしていた。その眼光は、まるで獲物を定めた肉食獣のようなものだった。
警備隊の間に、一瞬の緊張が走った。目の前で起きた異常な現象に動揺していた。
「い、今、何が……?」
「気にするな! こんな浮浪児一人、数人がかりで押さえれば問題ない!」
焦燥を振り払うように、隊長が叫ぶ。合図とともに、隊員たちが一斉にランへ襲いかかる。手には警棒、縄、捕縛用の鎖。歓楽街の騒ぎを治めるための装備を総動員し、一気に取り押さえようとする。
しかし——
「待ちなさい」
その声は、まるで空気そのものを震わせるかのようだった。
瞬間、すべての動きが止まる。警備隊の隊員も、酔っ払いも、通行人さえも、声の主に目を向けた。
そこに立っていたのは、一人の女性。
闇夜に浮かび上がるような、鮮やかな紅と金の着物。繊細な刺繍が施された絢爛豪華な衣装は、まるで高貴な花魁太夫そのものだった。しかし、その立ち姿は、花街に生きる者たちのそれとは異なる威厳と気品に満ちていた。
漆黒の髪は艶やかに結い上げられ、長い睫毛に縁取られた瞳は、まっすぐに警備隊を見据えている。
「これは、一体どういう騒ぎかしら?」
女性は静かに問いかけた。
隊長が思わず直立する。歓楽街において、これほどの装いを許される者は限られている。あるいは、名のある花魁か、それ以上の存在か——少なくとも、安易に無礼を働ける相手ではない。
「……この者が、騒ぎを起こしたとの報告を受けまして」
隊長が低い声で答える。
女性はゆっくりと視線を巡らせた。転がった酔っ払い、怯える女中、そして無表情のまま立つラン。
「なるほどね」
小さく微笑むと、女性は歩み寄る。そして、酔っ払いの男を見下ろした。
「あなた、この娘に無理を強いていたのではなくて?」
酔っ払いは目を泳がせた。
「そ、それは……その……」
女性は続けた。
「そこへ彼——」視線がランへと向く。「——が止めに入った。それが事の経緯でしょう?」
女中は驚いた顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「そ、そうです……この方が助けてくださったんです……!」
その言葉に、警備隊の面々は動揺した。
「……そういうことか」
隊長は額に手をやり、ため息をついた。
「では、この者に非はないと?」
「ええ」
女性は優雅に微笑みながら答えた。
隊長は渋い顔をしながらも、女性の言葉に逆らうことはできなかった。歓楽街には歓楽街の秩序がある。そして、この場で最も影響力を持つのが誰かを理解していた。
「……わかりました。我々は引きます」
そう言うと、警備隊はゆっくりと後退し、通りの向こうへと消えていった。静寂が戻る。
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