or

真亭 甘

文字の大きさ
25 / 36
SECOND STAGE 華凰

創始祭7

しおりを挟む
地に伏した男の姿は、あまりにも無様で、そして静かだった。破れた袖口から覗く指先は、震えることもなく、ただ床を掴むようにして止まっていた。咳き込むことも、呻くこともない。空虚の中で、ただ敗北の輪郭だけが、薄靄のように漂っていた。
衣の下から滲み出る血は、乾く気配もなく、床に濃く濃く染みていく。豪奢な幕の陰、王族の気配が立ちこめるこの場に、もはや彼の策謀は存在しない。戦火の記憶、盤上の駒として人を使役してきた日々──それらすべてが、今この瞬間に意味を失った。
踏み込んできた二人の衛兵の靴音すら、彼の意識には届いていなかった。拒絶も、威嚇も、抵抗の素振りすら浮かばない。それどころか、その背を押すような己の異能《商談(ディール)》の感覚すら、どこかへと失せていた。
何かを取引しようにも、“利”を得る意志が、もはや彼の内には存在しなかった。野望を具現するための術は封じられ、崩れ落ちた思考の残骸の中で、文圍はただ呆然と、見上げていた。舞台の上に残る彭──否、蚩尤の影を。
圧倒的な存在感、圧政の化身のようにすら見えたはずの己を、彼は何の武力も使わず打ち砕いた。憎悪でもなく、怒りでもなく、ただ黙して佇むその姿が、全てを奪っていった。
その沈黙こそが、何より雄弁に語っていた。これは報復ではない。陥落でもない。選ばれた敗北だ。天を欺いてまで築いた体系のすべてが、名も告げられぬ者の一礼によって潰えた。
その事実が、彼を打ちのめしたのだった。
手を伸ばそうにも、指は動かない。声を上げようにも、喉は焼けていた。かつて無数の命を等価交換してきた文圍の理論体系は、その根底から瓦解していた。感情ではない。痛みでもない。これは、意志の死だった。
衛兵の手が肩を掴み、その身を引き起こした。彼は抵抗しない。ただ、上を見たまま、何も語らぬ瞳で天蓋を眺め続けた。
重く湿った沈黙が、場を支配していた。衛兵の手が彼の肩を強く掴む。生気のない体は、まるで人形のように揺れただけだった。重症を負い、反抗の意志すら捨て去った文圍を、ただ形式として引き起こす。その様子は、すでに終わった劇の余韻に過ぎないようにも見えた。

「…立て」
言葉は儀礼。声に怒気もない。ただ命令として紡がれたその一言は、場の空気をわずかに震わせた。

「お前の罪、すでに天地も知っている」
もう一人の衛兵が背後から鉄の枷を取り出し、文圍の両手に掛けようとした、その刹那。
風を裂く音が響いた。瞬間、空間が歪んだ。
一条の銀が、雷の如く奔る。誰も反応する間もなかった。剣だ。飛来したそれは、寸分の狂いもなく衛兵の胸元を貫いた。肉を割き、骨を穿ち、命の光を奪い去る。
呻き声すら漏れなかった。衛兵の一人は目を見開いたまま倒れ、もう一人も、数瞬遅れて身体から剣が引き抜かれるように崩れ落ちた。鮮血が舞台の檜を濡らす。散った赤は花弁のように静かで、同時に、異常の兆しとして強烈に場を支配した。
文圍は動かなかった。驚愕も恐怖も、もはや彼には無縁の感情だった。ただ、風が吹いた先を見た。視線の先にあるはずの主は、そこにはいない。あるのはただ、決して理解できぬ力の余韻だけだった。
沈黙が戻る。が、それは先ほどの沈黙とは異なる。死が満ち、剣の軌跡が刻まれた世界。そこには秩序も、正義もない。あるのはただ、不可視の意思によって齎された断罪。
空間が一度、息を呑んだかのように静止した。鮮血に濡れた舞台。貫かれた衛兵の死体。剣の飛来を誰も理解できぬまま、祭祀の空気はそのまま恐怖へと沈んだ。
誰からともなく走り出す音が、群衆の堤を崩した。悲鳴が交差し、懇願の声が天蓋を震わせる。祈りを捧げる者、逃げる者、嘔吐する者、座り込んで名を唱える者。荘厳なる祭祀の広間は、瞬く間に阿鼻叫喚の修羅場へと変貌していた。
その中心で、ただ一人、凶相の存在はまるでそれすらも愉悦とするように顎を突き出す。


「ぬるいぞ──饕餮、もっと極めろ!欲を高めろ! 馬鹿がァッ!」
嘲りと嗤いが入り交じった咆哮が轟いた。その声は地の底から響くかのように重く、聞く者すべての脊髄を震わせる呪詛にも等しかった。場を蹂躙する圧倒的な気配。だが、その隙。まさにその瞬間だった。
火花のような衝動が、空間を裂いた。
重装の鎧が咆哮する。建岱だ。白銀の鬣を逆立てた獣の如く、檻を破った意志が疾風となって蚩尤の懐へと飛びかかる。
虚空へと振り上げたその掌には、何もなかった。だが、その無が咆哮を上げる。世界が追いつく前に、古錠刀が、まるでそこにあるべきだったかのように、顕現した。
その刹那、構えなど存在しなかった。ただ、魂が命じるままに、建岱の肉体が動いた。
怒りではない。義ではない。ただ、守るべきものを貫くために。

「──!」
声にならぬ絶叫とともに、上段から振り下ろされた斬撃が、音を置き去りにして世界を切り裂いた。
焼け焦げた空気が空間を灼く。炎の尾を引きながら、古錠刀が真っ直ぐに蚩尤を断罪せんと迫る。
その一撃に込められたのは、虎の咆哮でも、獣の本能でもない。建岱という男の、ただ一つの覚悟だった。
斬撃の軌道は、まさに絶を裂く。建岱の古錠刀が放つ炎の尾が、広間の空気すら灼き焦がす。軌道は正確無比、力強く、美しかった。それが──止まった。

「檮杌(とうこつ)」
蚩尤が静かに、しかし確信をもって呟く。
刹那、空間が裂けるようにして現れた影があった。まるで元よりそこに在ったかのように。巨体。黒々とした岩のような肌。その全身を覆うのは、簡素な布と腰布のみ。だが、その威容は、鉄壁などという言葉を通り越していた。
巨大な矛の柄が、古錠刀の進路を正確に遮っていた。寸分の狂いもなく。力を籠めたはずの建岱の剣は、まるで水面に触れる風のように止まり、火花すら散らすことなく沈黙する。蚩尤の表情は涼しげだった。むしろ、愉快そうに口元を歪め、ゆっくりと微笑んでいる。

「面白いな、お前は」
声は挑発というにはあまりに冷静で、しかしその奥に底知れぬ悪意がにじんでいた。
その瞬間だった。檮杌の巨腕が閃いた。何の予備動作もなく、ただ腕を振るだけ。それだけで、建岱の巨体が横へと吹き飛ぶ。重量を誇る鎧ごと壁に叩きつけられた音が、広間に乾いた余韻を残す。
建岱はすぐさま起き上がった。だが、その額には鈍く赤い線が走っていた。軽く薙がれただけ。それだけで、地を割るような衝撃を受けたのだ。
周囲の者たちは、檮杌の出現に言葉を失っていた。誰も叫ばない。誰も逃げない。ただ、本能が語るのだ──この存在から目を逸らすな、と。
檮杌は声を発さない。ただ、深く、荒々しく、息を吐くだけだ。だがその一息にさえ、破壊の衝動が込められていた。
彼は、蚩尤の盾であり、狂気の化身だった。

石畳を滑るように転がった建岱の身体が、起き上がるよりも先に、空気が変わった。鎧鳴りが響く。その身を包むは、炎の紋を刻んだ重装の甲冑。白銀のたてがみが、火を宿すかのように逆立ち、瞳の奥に燃える意志が一点を射抜く。
彼は、敗北を認めない。まだ終わっていない。その身に刻まれた信念が、痛みに呑まれることを許さない。
甲冑が光を受けて軋む。その右手に握られた古錠刀が、次の瞬間、猛るように燃え上がる。刀身を走るは炎の龍。その存在自体が威圧となって、広間の温度を引き上げていく。

一閃。建岱の足が地を踏みしめ、瞬間移動に近い加速で檮杌へと肉迫する。炎が唸る。斬撃が放たれる。過熱した空間が裂け、轟音と共に軌跡が弧を描く。火柱の如きその一閃は、まさに灼熱の意思だった。
だが──その一撃を、檮杌は“あしらった”。
巨体とは思えぬ速さで矛を旋回させ、炎の刃を弾いた。熱も、衝撃も、黒き肌に痕一つ刻まない。受け流すのではない。斬撃の圧を“逸らす”という、戦場の本能が生む獣の技だった。

「──オオオオオオッ!」
声にならぬ咆哮が、建岱の耳膜を打つ。巨人が吼えた。怒りでも歓喜でもない。ただ、目の前にある力へ純粋に反応した、闘争本能の衝動。
広間が震える。檮杌が動く。その一歩は山を揺るがすかのようで、天井の文様が微かに震えるほどの重圧を持っていた。
炎と黒鉄がぶつかり合うたび、広間の空間がきしんだ。建岱の振るう古錠刀は、軌道すら灼熱で焼き潰すように空気を裂き、爆ぜる火花が飛沫のように舞い散る。だが、それを迎え撃つ檮杌は、一切の装飾もない巨大な矛を、まるで己の延長であるかのように振るい、その全てを拮抗させていた。
巨体から繰り出される矛撃は重く、速く、そして異常なほどに正確だった。一撃一撃が地を穿ち、建岱の身体をなぞるように殺意の風圧が吹き荒れる。その巨腕が振るわれるたび、空間は呻き、石床がひび割れていく。
建岱は飛ぶ。舞うようにして身を翻し、炎を纏った斬撃を連ねる。動きに淀みはない。だが、そのすべてを檮杌は読み切っていた。矛の柄を軸に回転し、踏み込み、叩き落とす。常識では捉えきれぬその速度と精度に、建岱の剣圧が次第に押されていく。
火花が走る。炎が唸る。そして、衝突の余波が空間を波打たせる。だが、倒れない。退かない。二人はまるで、戦場という名の詩を刻むように、刃と矛を交差させ続けた。
刹那、建岱が重心を沈める。一気に踏み込み、地を爆ぜさせるようにして斬り上げる。炎が牙を剥き、空を断ち割るような閃光が奔る。しかし、檮杌の動きは寸分の狂いもなく、矛の柄がその刃を迎え撃った。
音が消えた。重なった力と力が拮抗し、一瞬、時が凍る。視界が白に染まり、次の瞬間、爆ぜるような衝撃が広間を満たす。
建岱の足が地を離れる。吹き飛ばされたわけではない。自ら跳び退いたのだ。呼吸を整えることもなく、次の攻防に備えて。
檮杌は動かない。ただ、荒い息を吐くだけ。その巨体は微動だにせず、まるで戦場に根を張る神像のようだった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

八百万の神から祝福をもらいました!この力で異世界を生きていきます!

トリガー
ファンタジー
神様のミスで死んでしまったリオ。 女神から代償に八百万の神の祝福をもらった。 転生した異世界で無双する。

悪徳貴族の、イメージ改善、慈善事業

ウィリアム・ブロック
ファンタジー
現代日本から死亡したラスティは貴族に転生する。しかしその世界では貴族はあんまり良く思われていなかった。なのでノブリス・オブリージュを徹底させて、貴族のイメージ改善を目指すのだった。

異世界転生おじさんは最強とハーレムを極める

自ら
ファンタジー
定年を半年後に控えた凡庸なサラリーマン、佐藤健一(50歳)は、不慮の交通事故で人生を終える。目覚めた先で出会ったのは、自分の魂をトラックの前に落としたというミスをした女神リナリア。 その「お詫び」として、健一は剣と魔法の異世界へと30代後半の肉体で転生することになる。チート能力の選択を迫られ、彼はあらゆる経験から無限に成長できる**【無限成長(アンリミテッド・グロース)】**を選び取る。 異世界で早速遭遇したゴブリンを一撃で倒し、チート能力を実感した健一は、くたびれた人生を捨て、最強のセカンドライフを謳歌することを決意する。 定年間際のおじさんが、女神の気まぐれチートで異世界最強への道を歩み始める、転生ファンタジーの開幕。

バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します

namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。 マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。 その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。 「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。 しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。 「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」 公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。 前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。 これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。

猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣で最強すぎて困る

マーラッシュ
ファンタジー
旧題:狙って勇者パーティーを追放されて猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣だった。そして人間を拾ったら・・・ 何かを拾う度にトラブルに巻き込まれるけど、結果成り上がってしまう。 異世界転生者のユートは、バルトフェル帝国の山奥に一人で住んでいた。  ある日、盗賊に襲われている公爵令嬢を助けたことによって、勇者パーティーに推薦されることになる。  断ると角が立つと思い仕方なしに引き受けるが、このパーティーが最悪だった。  勇者ギアベルは皇帝の息子でやりたい放題。活躍すれば咎められ、上手く行かなければユートのせいにされ、パーティーに入った初日から後悔するのだった。そして他の仲間達は全て女性で、ギアベルに絶対服従していたため、味方は誰もいない。  ユートはすぐにでもパーティーを抜けるため、情報屋に金を払い噂を流すことにした。  勇者パーティーはユートがいなければ何も出来ない集団だという内容でだ。  プライドが高いギアベルは、噂を聞いてすぐに「貴様のような役立たずは勇者パーティーには必要ない!」と公衆の面前で追放してくれた。  しかし晴れて自由の身になったが、一つだけ誤算があった。  それはギアベルの怒りを買いすぎたせいで、帝国を追放されてしまったのだ。  そしてユートは荷物を取りに行くため自宅に戻ると、そこには腹をすかした猫が、道端には怪我をした犬が、さらに船の中には女の子が倒れていたが、それぞれの正体はとんでもないものであった。  これは自重できない異世界転生者が色々なものを拾った結果、トラブルに巻き込まれ解決していき成り上がり、幸せな異世界ライフを満喫する物語である。

異世界に転生した俺は英雄の身体強化魔法を使って無双する。~無詠唱の身体強化魔法と無詠唱のマジックドレインは異世界最強~

北条氏成
ファンタジー
宮本 英二(みやもと えいじ)高校生3年生。 実家は江戸時代から続く剣道の道場をしている。そこの次男に生まれ、優秀な兄に道場の跡取りを任せて英二は剣術、槍術、柔道、空手など様々な武道をやってきた。 そんなある日、トラックに轢かれて死んだ英二は異世界へと転生させられる。 グランベルン王国のエイデル公爵の長男として生まれた英二はリオン・エイデルとして生きる事に・・・ しかし、リオンは貴族でありながらまさかの魔力が200しかなかった。貴族であれば魔力が1000はあるのが普通の世界でリオンは初期魔法すら使えないレベル。だが、リオンには神話で邪悪なドラゴンを倒した魔剣士リュウジと同じ身体強化魔法を持っていたのだ。 これは魔法が殆ど使えない代わりに、最強の英雄の魔法である身体強化魔法を使いながら無双する物語りである。

処理中です...