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SECOND STAGE 華凰
北の大河1
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霧が、晴れた。
視界を覆い尽くしていたはずの煙は、まるで不可視の巨人の吐息に導かれるように、緩慢に流れ去っていく。
鼻腔を刺すのは焦げ付いた石の異臭。それは疑いようもなく、先程までの爆裂の残滓であった。
鼓膜を蹂躙していた轟音は既に遠く、今はただ、死を予感させる静寂だけが支配している。
「……征くぞ」
建岱の低く、しかし芯の通った声が静寂を裂いた。
反論する者はいない。
否、言葉を発する余裕すら、今の彼らには残されていない。この場に留まること、それは即ち“終焉”を意味する。
その冷厳な事実を、ここにいる全員が骨身に染みて理解していた。
崩落した城門の残骸の奥、北へと続く石畳の道が、まるで冥府への誘いのように姿を現す。
空は宵闇に染まり、そこに一条の黒き奔流が伸びている。
あれこそが大河——彼らに残された唯一の活路。
「こちらだ!」
ジットが叫ぶ。その声は恐怖に微かに震えていた。それでも、彼の足が止まることはない。
ルナが反射的に背後を振り返る。脳裏に焼き付いたのは、先程放たれた矢の如き一撃。
だが、追撃の気配はない。
窮奇も、檮杌も、そしてあの白蓮すらも、誰一人としてその場を動こうとする気配はなかった。
あまりにも不自然な静寂。
だが、それこそが彼ら、捕食者としての“狩りの間合い”であると、肌が警告していた。
「気を緩めるな。奴らは、……」
綾が絞り出すように呟いた言葉は、しかし、次の瞬間には無慈悲に砕け散った。
耳元で何かが鋭く風を切り裂く音。
刹那の後、後方の壁面が凄まじい勢いで爆ぜ飛んだ。
岩の破片が凶器となって飛び散り、やや遅れて轟音が鼓膜を打つ。
「——ッ!」
ルナが咄嗟に身を投げ出し、ジットの身体を強引に地に伏させた。
肩を掠めた破片が熱い痛みを伴って肉を裂き、鉄錆の臭いが混じった空気が鼻腔を満たす。
「何を……!」
「今は、喋るなッ!」
ジットの抗議を遮るように、ランが怒号を発するよりも早く地を蹴った。
足裏が砕けた石畳を確実に捉え、周囲の空気が震えるほどの初速。
野生の獣を彷彿とさせる俊敏さで、彼は一瞬にして数十メートル先へと到達していた。
「綾!」
「言われるまでもない!」
鋭い呼応と共に、綾もまたランの背を追う。
振り返るまでもない。建岱も、ルナも、ジットも、既に全員が死力を尽くして走り出していた。
砕け散った石畳を踏みしめ、薄暗い城内の路地を疾駆する。
夜の冷気が、汗ばんだ頬を撫でていく。
遠くから、大河のせせらぎとは呼べぬ、重々しい水音が響いてくるのが聞こえた。
「この先……開けている」
先行していたルナが、僅かに息を切らしながら声を上げた。
視界が開け、そこは広場と呼ぶには殺風景な、城下町の外縁部であった。
そして、その先に。黒々とした水面が、月光を鈍く反射しながら揺らめいているのが見えた。
「船……!」
ジットが、ほとんど無意識に指を差す。
夜の闇に溶け込むように、桟橋に一隻の帆船が繋がれている。
漁に用いるには明らかに過大なその船体は、しかし、絶望的な逃走劇には十分すぎる希望であった。
「乗れ!」
建岱の檄が飛ぶ。
ランが獣じみた跳躍で最初に甲板へと降り立った。
間髪入れずにジット、ルナ、そして綾が続く。
最後に建岱が桟橋を強く蹴り、その巨体を帆船へと滑り込ませた。
「綱を切れ!」
建岱の指示に、綾が即座に反応する。
刀で、船体を繋ぎとめる太い係留縄を断ち切った。
ぎしり、と船体が大きく揺れ、水面に新たな波紋が広がる。
「舵は任せろ……!」
ジットが、まるで自分に言い聞かせるように呟きながら舵輪に手をかける。
このような船をまともに操縦した経験など、彼には皆無であった。
それでも、逃げなければならない。このままでは、誰一人として生きては残れぬ。
「帆を……!」
ルナの切羽詰まった声が響く。
綾がマストを駆け上がり、慣れた手つきで帆を解き放つ。
夜風が、まるで彼らの逃走を後押しするかのように吹き抜けた。
帆が孕み、船体はゆっくりと、しかし確実に岸を離れていく。
「……来ない」
ランが、背後の闇を睨みつけながら低く呟いた。
城門は既に遠ざかり、夜の帳に沈み始めている。
それでも、あの“黒き影”たちは、一歩たりともこちらへ踏み出そうとはしなかった。
「……何故だ」
建岱が、誰に問いかけるでもなく呻いた。
窮奇も、檮杌も、白蓮も。
あれほどの圧倒的な威圧を放っていた敵が、ただ黙って見送るようにそこに佇んでいる。
「罠、か……?」
綾が険しい表情で眉根を寄せた。
「違う」
建岱が静かに首を振る。
この異様なまでの静けさは、狩人が獲物を追い詰める際の“間”とは明らかに異質であった。
それは——まるで。
「我らを、捨てた……というのか」
ルナが、絞り出すような声で呟いた。
まるで、飽きた玩具を打ち捨てるかのように。
あるいは——この先に、更に“価値ある獲物”が待ち受けているとでも言うかのように。
「……関係ない」
ジットが苦々しげに唇を歪める。
震える拳を強く握りしめ、彼は魂の底から叫んだ。
「今は、ただ生き延びる。それだけだッ!」
船は、大河の黒き水面を滑るように進む。
忌まわしき城はみるみる遠ざかり、今はただ、頬を打つ夜風の音だけが耳元を過ぎていく。
「ラン、綾、ルナ……」
建岱が、噛みしめるように仲間たちの名を呼んだ。
誰も、応えはしない。
それでも、誰一人として足を止める者はいない。
船は夜の闇の中を、ゆっくりと、しかし確実に北へと進んでいった。
——この先に、どれほどの絶望が、どれほどの地獄が待ち受けていようとも。
それでも、今は。
この一瞬の呼吸を、この刹那の命を、ただひたすらに生き延びるために。
大河の黒き水面を、帆船は滑るように進んでいた。夜風が孕んだ帆は、船体をゆっくりと、しかし確実に北へと押しやっている。舵輪を握るジットの手に、知らず識らず力が入る。不慣れな操船であることは額に滲む汗が物語っていたが、その双眸は前方の深き闇を貫かんばかりに鋭く据えられていた。
「合流地点まで、あとどれ程の距離か」
建岱の低く重い声が、静寂を保っていた甲板に響き渡る。その巨躯は船の規則的な揺れにも微動だにせず、炎を思わせる白髪が、月光すら届かぬ闇夜にぼんやりと浮かび上がっていた。
「目視できれば距離は測れましょうが……今のところ、それらしき灯火一つ見当たりませぬ」
ルナが舳先に立ち、細い手を額にかざしながら応えた。彼女の青い髪が風に優しくなびき、月光に照らし出された横顔は、未だ拭えぬ緊張に硬く引き締まっている。その視線は、闇の先にあるはずの希望を捉えようと懸命に動いていた。
ジットはふと、背負っていた弓に手を伸ばした。無言のまま弦を引き絞り、虚空に向けて一本の矢を番える。その切っ先は、天の闇を目指していた。
「待て、貴様、何をするつもりだ」
綾が抜き身ではないものの、刀の柄に手をかけながら鋭く問い質した。風にはためく長襦袢の袖が、彼の警戒心を際立たせる。その双眸はジットの意図を測りかね、疑念の色を濃くしていた。
「合図だ。もし“寅の足”の連中が近くにいるのなら、この光で我々の存在に気付くはずだ」
ジットの指が弦から離れる。放たれた矢は闇を鋭く切り裂き、遥か上空で閃光弾のように鮮烈な光を放った。一瞬、夜の帳を破るかのような赤い煌めきが周囲の水面を真紅に染め上げ、そして刹那の後には何事もなかったかのように消え失せた。
「……来ない、か」
ランが舷側に片肘をつき、獣が獲物を見失ったかのような不機嫌さを隠さずに呟いた。彼の内に眠る野生の直感が、この状況に言いようのない苛立ちを覚えていた。追手の気配が全く感じられないという事実が、かえって不気味なまでに不自然に感じられるのだ。
「気を抜くな。奴らが我々を諦めたとは到底思えん」
建岱の重々しい言葉に、一同の表情が再び硬化する。それぞれが己の武器に無意識に手をやり、周囲の濃密な闇へと神経を集中させた。
その時であった――遠く、黒一色であったはずの水面の彼方に、微かで頼りない光点が一つ、また一つと浮かび上がったのは。
「あれは……!」
ルナの声が、驚きと期待に弾んだ。水平線の向こう、ゆらゆらと不規則に揺れる複数の提灯の明かりが、間違いなくこちらへと向かってくる。
「軍船だ! 間違いない、“寅の足”の船印だ!」
ジットが、先程までの緊張を解き放つように叫び、思わず拳を振り上げた。その表情には、ようやく掴んだ細い光明に対する明確な安堵の色が浮かんでいた。
帆船はゆっくりと速度を落とし、徐々にその輪郭を明らかにしていく友軍の船へと船首を向けた。近づくにつれ判然としてくるその船体は、彼らが乗る間に合わせの帆船とは比較にならぬほど大きく、重厚な威容を誇っている。そしてマストには、見慣れた“寅の足”の旗印が夜風に誇らしげにはためいていた。
「建岱様、ご無事で!」
軍船の甲板から、聞き覚えのある力強い声が響いてきた。見れば、岩夫が片腕を包帯で痛々しく吊りながらも、残った腕で必死にこちらへ手を振っている。その傍らには、魚杢と兵似の姿も確認できた。三人とも満身創痍といった様子ではあったが、その瞳には確かな生の光が宿っていた。
「……甕は、甕はどうした」
建岱の問いかけに、岩夫の表情が苦渋に歪み、急速に曇った。その沈黙が、何よりも雄弁に事の次第を物語っていた。
「……そうか」
建岱は深く、長い息を吸い込み、そして吐き出した。固く握りしめた拳を、自らの胸に強く当てる。それは、戦場に散った仲間へ捧げる、武人としての無言の弔いであった。
「建岱殿、まずは船を移ろう。話はそれからだ」
綾が努めて冷静な声色で促した。既に軍船からは頑丈な渡し板が伸び、彼らが乗り移るための準備は万端に整えられている。
ランは言葉を発するよりも早く、ぴょんと猫のような身軽さで跳躍し、真っ先に渡し板を渡りきった。野生児然としたその挙動に、軍船の甲板にいた兵士たちが何事かと驚いたように目を見開いている。
「おい、そこの小僧!無礼であろう!」
「構うな。こいつは、まあ、そういう奴なんだ」
兵士の咎める声に、ジットが苦笑を浮かべながらランの後を追う。続いてルナと綾も軍船へと渡り、最後に建岱がその巨体を揺らしながら重々しい足取りで移ると、渡し板は速やかに引き上げられた。
「状況を報告させろ」
建岱の声に、魚杢が代表して一歩前へ進み出た。その厳格な表情は普段と変わらないものの、声には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「窮奇、そして檮杌は、依然として城内に留まっている模様です。何故、追撃してこないのか……我々にも皆目見当がつきませぬ」
「白蓮もか?」
「はっ。あの男も、一切動く気配を見せませんでした」
兵似が、重苦しい沈黙を破るように頷いた。左腕を失った岩夫は、ただじっと揺れる水面を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
「……罠、でしょうか?」
ルナが、囁くように、しかし切実な響きを込めて言った。その言葉に、ジットが鋭く反応する。
「だとしたら、もっと早くに仕掛けてきているはずだ。あの手の連中に、悠長に待つという選択肢があるとは思えん」
「では、何故……」
「――我らを見逃した、という訳ではあるまい」
それまで黙して報告を聞いていた建岱が、突如として深い、地の底から響くような声で口を開いた。
「奴らは、待っているのだ。何か……我々よりも、もっと大きな“獲物”の出現を」
その言葉が紡がれた瞬間、その場にいた誰もが、背筋を這い上がる冷たい何かを感じた。この広大な大河の闇の向こうに、想像を絶する、さらに恐ろしい何かが潜んでいるかのような、強烈な予感が脳裏を過った。
「いずれにせよ、今は進むしかない」
綾が、己を鼓舞するように、そして仲間たちを勇気づけるように、愛刀の柄を強く握りしめて決然と言い放った。
「総員、城へ向かう。これ以上の犠牲は、断じて出さぬ」
建岱の覇気に満ちた号令一下、軍船の巨大な帆が再び夜風を孕んで大きく膨らんだ。船体がゆっくりと、しかし力強く動き出し、大河の黒き流れを切り裂いて、一路北へと進路を取った。
視界を覆い尽くしていたはずの煙は、まるで不可視の巨人の吐息に導かれるように、緩慢に流れ去っていく。
鼻腔を刺すのは焦げ付いた石の異臭。それは疑いようもなく、先程までの爆裂の残滓であった。
鼓膜を蹂躙していた轟音は既に遠く、今はただ、死を予感させる静寂だけが支配している。
「……征くぞ」
建岱の低く、しかし芯の通った声が静寂を裂いた。
反論する者はいない。
否、言葉を発する余裕すら、今の彼らには残されていない。この場に留まること、それは即ち“終焉”を意味する。
その冷厳な事実を、ここにいる全員が骨身に染みて理解していた。
崩落した城門の残骸の奥、北へと続く石畳の道が、まるで冥府への誘いのように姿を現す。
空は宵闇に染まり、そこに一条の黒き奔流が伸びている。
あれこそが大河——彼らに残された唯一の活路。
「こちらだ!」
ジットが叫ぶ。その声は恐怖に微かに震えていた。それでも、彼の足が止まることはない。
ルナが反射的に背後を振り返る。脳裏に焼き付いたのは、先程放たれた矢の如き一撃。
だが、追撃の気配はない。
窮奇も、檮杌も、そしてあの白蓮すらも、誰一人としてその場を動こうとする気配はなかった。
あまりにも不自然な静寂。
だが、それこそが彼ら、捕食者としての“狩りの間合い”であると、肌が警告していた。
「気を緩めるな。奴らは、……」
綾が絞り出すように呟いた言葉は、しかし、次の瞬間には無慈悲に砕け散った。
耳元で何かが鋭く風を切り裂く音。
刹那の後、後方の壁面が凄まじい勢いで爆ぜ飛んだ。
岩の破片が凶器となって飛び散り、やや遅れて轟音が鼓膜を打つ。
「——ッ!」
ルナが咄嗟に身を投げ出し、ジットの身体を強引に地に伏させた。
肩を掠めた破片が熱い痛みを伴って肉を裂き、鉄錆の臭いが混じった空気が鼻腔を満たす。
「何を……!」
「今は、喋るなッ!」
ジットの抗議を遮るように、ランが怒号を発するよりも早く地を蹴った。
足裏が砕けた石畳を確実に捉え、周囲の空気が震えるほどの初速。
野生の獣を彷彿とさせる俊敏さで、彼は一瞬にして数十メートル先へと到達していた。
「綾!」
「言われるまでもない!」
鋭い呼応と共に、綾もまたランの背を追う。
振り返るまでもない。建岱も、ルナも、ジットも、既に全員が死力を尽くして走り出していた。
砕け散った石畳を踏みしめ、薄暗い城内の路地を疾駆する。
夜の冷気が、汗ばんだ頬を撫でていく。
遠くから、大河のせせらぎとは呼べぬ、重々しい水音が響いてくるのが聞こえた。
「この先……開けている」
先行していたルナが、僅かに息を切らしながら声を上げた。
視界が開け、そこは広場と呼ぶには殺風景な、城下町の外縁部であった。
そして、その先に。黒々とした水面が、月光を鈍く反射しながら揺らめいているのが見えた。
「船……!」
ジットが、ほとんど無意識に指を差す。
夜の闇に溶け込むように、桟橋に一隻の帆船が繋がれている。
漁に用いるには明らかに過大なその船体は、しかし、絶望的な逃走劇には十分すぎる希望であった。
「乗れ!」
建岱の檄が飛ぶ。
ランが獣じみた跳躍で最初に甲板へと降り立った。
間髪入れずにジット、ルナ、そして綾が続く。
最後に建岱が桟橋を強く蹴り、その巨体を帆船へと滑り込ませた。
「綱を切れ!」
建岱の指示に、綾が即座に反応する。
刀で、船体を繋ぎとめる太い係留縄を断ち切った。
ぎしり、と船体が大きく揺れ、水面に新たな波紋が広がる。
「舵は任せろ……!」
ジットが、まるで自分に言い聞かせるように呟きながら舵輪に手をかける。
このような船をまともに操縦した経験など、彼には皆無であった。
それでも、逃げなければならない。このままでは、誰一人として生きては残れぬ。
「帆を……!」
ルナの切羽詰まった声が響く。
綾がマストを駆け上がり、慣れた手つきで帆を解き放つ。
夜風が、まるで彼らの逃走を後押しするかのように吹き抜けた。
帆が孕み、船体はゆっくりと、しかし確実に岸を離れていく。
「……来ない」
ランが、背後の闇を睨みつけながら低く呟いた。
城門は既に遠ざかり、夜の帳に沈み始めている。
それでも、あの“黒き影”たちは、一歩たりともこちらへ踏み出そうとはしなかった。
「……何故だ」
建岱が、誰に問いかけるでもなく呻いた。
窮奇も、檮杌も、白蓮も。
あれほどの圧倒的な威圧を放っていた敵が、ただ黙って見送るようにそこに佇んでいる。
「罠、か……?」
綾が険しい表情で眉根を寄せた。
「違う」
建岱が静かに首を振る。
この異様なまでの静けさは、狩人が獲物を追い詰める際の“間”とは明らかに異質であった。
それは——まるで。
「我らを、捨てた……というのか」
ルナが、絞り出すような声で呟いた。
まるで、飽きた玩具を打ち捨てるかのように。
あるいは——この先に、更に“価値ある獲物”が待ち受けているとでも言うかのように。
「……関係ない」
ジットが苦々しげに唇を歪める。
震える拳を強く握りしめ、彼は魂の底から叫んだ。
「今は、ただ生き延びる。それだけだッ!」
船は、大河の黒き水面を滑るように進む。
忌まわしき城はみるみる遠ざかり、今はただ、頬を打つ夜風の音だけが耳元を過ぎていく。
「ラン、綾、ルナ……」
建岱が、噛みしめるように仲間たちの名を呼んだ。
誰も、応えはしない。
それでも、誰一人として足を止める者はいない。
船は夜の闇の中を、ゆっくりと、しかし確実に北へと進んでいった。
——この先に、どれほどの絶望が、どれほどの地獄が待ち受けていようとも。
それでも、今は。
この一瞬の呼吸を、この刹那の命を、ただひたすらに生き延びるために。
大河の黒き水面を、帆船は滑るように進んでいた。夜風が孕んだ帆は、船体をゆっくりと、しかし確実に北へと押しやっている。舵輪を握るジットの手に、知らず識らず力が入る。不慣れな操船であることは額に滲む汗が物語っていたが、その双眸は前方の深き闇を貫かんばかりに鋭く据えられていた。
「合流地点まで、あとどれ程の距離か」
建岱の低く重い声が、静寂を保っていた甲板に響き渡る。その巨躯は船の規則的な揺れにも微動だにせず、炎を思わせる白髪が、月光すら届かぬ闇夜にぼんやりと浮かび上がっていた。
「目視できれば距離は測れましょうが……今のところ、それらしき灯火一つ見当たりませぬ」
ルナが舳先に立ち、細い手を額にかざしながら応えた。彼女の青い髪が風に優しくなびき、月光に照らし出された横顔は、未だ拭えぬ緊張に硬く引き締まっている。その視線は、闇の先にあるはずの希望を捉えようと懸命に動いていた。
ジットはふと、背負っていた弓に手を伸ばした。無言のまま弦を引き絞り、虚空に向けて一本の矢を番える。その切っ先は、天の闇を目指していた。
「待て、貴様、何をするつもりだ」
綾が抜き身ではないものの、刀の柄に手をかけながら鋭く問い質した。風にはためく長襦袢の袖が、彼の警戒心を際立たせる。その双眸はジットの意図を測りかね、疑念の色を濃くしていた。
「合図だ。もし“寅の足”の連中が近くにいるのなら、この光で我々の存在に気付くはずだ」
ジットの指が弦から離れる。放たれた矢は闇を鋭く切り裂き、遥か上空で閃光弾のように鮮烈な光を放った。一瞬、夜の帳を破るかのような赤い煌めきが周囲の水面を真紅に染め上げ、そして刹那の後には何事もなかったかのように消え失せた。
「……来ない、か」
ランが舷側に片肘をつき、獣が獲物を見失ったかのような不機嫌さを隠さずに呟いた。彼の内に眠る野生の直感が、この状況に言いようのない苛立ちを覚えていた。追手の気配が全く感じられないという事実が、かえって不気味なまでに不自然に感じられるのだ。
「気を抜くな。奴らが我々を諦めたとは到底思えん」
建岱の重々しい言葉に、一同の表情が再び硬化する。それぞれが己の武器に無意識に手をやり、周囲の濃密な闇へと神経を集中させた。
その時であった――遠く、黒一色であったはずの水面の彼方に、微かで頼りない光点が一つ、また一つと浮かび上がったのは。
「あれは……!」
ルナの声が、驚きと期待に弾んだ。水平線の向こう、ゆらゆらと不規則に揺れる複数の提灯の明かりが、間違いなくこちらへと向かってくる。
「軍船だ! 間違いない、“寅の足”の船印だ!」
ジットが、先程までの緊張を解き放つように叫び、思わず拳を振り上げた。その表情には、ようやく掴んだ細い光明に対する明確な安堵の色が浮かんでいた。
帆船はゆっくりと速度を落とし、徐々にその輪郭を明らかにしていく友軍の船へと船首を向けた。近づくにつれ判然としてくるその船体は、彼らが乗る間に合わせの帆船とは比較にならぬほど大きく、重厚な威容を誇っている。そしてマストには、見慣れた“寅の足”の旗印が夜風に誇らしげにはためいていた。
「建岱様、ご無事で!」
軍船の甲板から、聞き覚えのある力強い声が響いてきた。見れば、岩夫が片腕を包帯で痛々しく吊りながらも、残った腕で必死にこちらへ手を振っている。その傍らには、魚杢と兵似の姿も確認できた。三人とも満身創痍といった様子ではあったが、その瞳には確かな生の光が宿っていた。
「……甕は、甕はどうした」
建岱の問いかけに、岩夫の表情が苦渋に歪み、急速に曇った。その沈黙が、何よりも雄弁に事の次第を物語っていた。
「……そうか」
建岱は深く、長い息を吸い込み、そして吐き出した。固く握りしめた拳を、自らの胸に強く当てる。それは、戦場に散った仲間へ捧げる、武人としての無言の弔いであった。
「建岱殿、まずは船を移ろう。話はそれからだ」
綾が努めて冷静な声色で促した。既に軍船からは頑丈な渡し板が伸び、彼らが乗り移るための準備は万端に整えられている。
ランは言葉を発するよりも早く、ぴょんと猫のような身軽さで跳躍し、真っ先に渡し板を渡りきった。野生児然としたその挙動に、軍船の甲板にいた兵士たちが何事かと驚いたように目を見開いている。
「おい、そこの小僧!無礼であろう!」
「構うな。こいつは、まあ、そういう奴なんだ」
兵士の咎める声に、ジットが苦笑を浮かべながらランの後を追う。続いてルナと綾も軍船へと渡り、最後に建岱がその巨体を揺らしながら重々しい足取りで移ると、渡し板は速やかに引き上げられた。
「状況を報告させろ」
建岱の声に、魚杢が代表して一歩前へ進み出た。その厳格な表情は普段と変わらないものの、声には隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「窮奇、そして檮杌は、依然として城内に留まっている模様です。何故、追撃してこないのか……我々にも皆目見当がつきませぬ」
「白蓮もか?」
「はっ。あの男も、一切動く気配を見せませんでした」
兵似が、重苦しい沈黙を破るように頷いた。左腕を失った岩夫は、ただじっと揺れる水面を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
「……罠、でしょうか?」
ルナが、囁くように、しかし切実な響きを込めて言った。その言葉に、ジットが鋭く反応する。
「だとしたら、もっと早くに仕掛けてきているはずだ。あの手の連中に、悠長に待つという選択肢があるとは思えん」
「では、何故……」
「――我らを見逃した、という訳ではあるまい」
それまで黙して報告を聞いていた建岱が、突如として深い、地の底から響くような声で口を開いた。
「奴らは、待っているのだ。何か……我々よりも、もっと大きな“獲物”の出現を」
その言葉が紡がれた瞬間、その場にいた誰もが、背筋を這い上がる冷たい何かを感じた。この広大な大河の闇の向こうに、想像を絶する、さらに恐ろしい何かが潜んでいるかのような、強烈な予感が脳裏を過った。
「いずれにせよ、今は進むしかない」
綾が、己を鼓舞するように、そして仲間たちを勇気づけるように、愛刀の柄を強く握りしめて決然と言い放った。
「総員、城へ向かう。これ以上の犠牲は、断じて出さぬ」
建岱の覇気に満ちた号令一下、軍船の巨大な帆が再び夜風を孕んで大きく膨らんだ。船体がゆっくりと、しかし力強く動き出し、大河の黒き流れを切り裂いて、一路北へと進路を取った。
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でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣で最強すぎて困る
マーラッシュ
ファンタジー
旧題:狙って勇者パーティーを追放されて猫を拾ったら聖獣で犬を拾ったら神獣だった。そして人間を拾ったら・・・
何かを拾う度にトラブルに巻き込まれるけど、結果成り上がってしまう。
異世界転生者のユートは、バルトフェル帝国の山奥に一人で住んでいた。
ある日、盗賊に襲われている公爵令嬢を助けたことによって、勇者パーティーに推薦されることになる。
断ると角が立つと思い仕方なしに引き受けるが、このパーティーが最悪だった。
勇者ギアベルは皇帝の息子でやりたい放題。活躍すれば咎められ、上手く行かなければユートのせいにされ、パーティーに入った初日から後悔するのだった。そして他の仲間達は全て女性で、ギアベルに絶対服従していたため、味方は誰もいない。
ユートはすぐにでもパーティーを抜けるため、情報屋に金を払い噂を流すことにした。
勇者パーティーはユートがいなければ何も出来ない集団だという内容でだ。
プライドが高いギアベルは、噂を聞いてすぐに「貴様のような役立たずは勇者パーティーには必要ない!」と公衆の面前で追放してくれた。
しかし晴れて自由の身になったが、一つだけ誤算があった。
それはギアベルの怒りを買いすぎたせいで、帝国を追放されてしまったのだ。
そしてユートは荷物を取りに行くため自宅に戻ると、そこには腹をすかした猫が、道端には怪我をした犬が、さらに船の中には女の子が倒れていたが、それぞれの正体はとんでもないものであった。
これは自重できない異世界転生者が色々なものを拾った結果、トラブルに巻き込まれ解決していき成り上がり、幸せな異世界ライフを満喫する物語である。
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