46 / 137
第九章「海神編」
誓いと宿命
しおりを挟む
ラティーマー本部長の執務室に入り、ドアをパタンと閉めた。
閉めたというか、閉まったと言うか。
何か、逃げ場のない気まずい空間に閉じ込められてしまった感が否めなかった。
「……なるほど。確かに宮廷魔術師たちは本来、国王であり王国を守る為の魔術師として集められたものだ。その性質は国軍の扱いに近いはずだが、その他にも魔術を用いて様々な教務がこなせる為、宮廷内務省の管轄となっている。だが、だからと言ってその様な雑務に追われていては、本来の職務を全うできぬ。わかった。その試み進めてみてくれ。ただし初の試みでもあり機密に関わる部分もある。報告は書面で良いのでちくいち上げてくれ。」
「承知しました。ご許可下さり、ありがとうございます。」
何とか俺の要件は済ませる事ができた。
許可ももらえたし、ほっと胸を撫で下ろす。
ガスパーパパことヤエル・ラティーマー本部長は、やはり仕事のできる感じの人で、俺が簡単に外部委託の話をしただけなのに、宮廷魔術師の本来の職務を理解した上で、それを許可してくれた。
やっぱりラティーマー家って何か凄いんだな……。
それにしても、何でヤエル本部長はこんなに浮かない顔なんだろう……。
空気も重いし早く帰りたい……。
こちらの要件は終わったのだけれども、その後何か話しかけられるでもなく続く沈黙の中、俺はだんだん居心地の悪さに耐えきれなくなってきていた。
「ところで……。」
俺が何もなければ仕事に戻りますと喉まで出掛かった時、ようやくヤエル本部長が口を開いた。
何となく重いその口調に俺は妙な焦りを感じる。
「我が息子、ガスパーは元気かね……。」
やっぱりガスパーの事か、と思う。
それはわかっていたのだが俺は首を傾げた。
「はい。彼は本日まで休暇となっていますのでここしばらく会ってはいませんが、本部長の息子さんには、いつもとても力になって頂いています。本当にありがとうございます。」
「そうか……。」
そう、ガスパーは休暇中だ。
だから俺よりも家族であるヤエル本部長の方が顔を見ていると思うんだよな??
ガスパーは引っ越した事はないって言ってたし、実家暮らしのはずだ。
ん~、これはどうやら親子関係があまり上手くいっていない系か……。
そりゃそうだよな~。
前に軽くガスパーが家の話をしてくれたけど、そりゃ、グレるよなぁって感じだったし……。
ただ、ヤエル本部長の方も仕方ないって言えば仕方ないんだよなぁ……。
何しろ相手はあの神童、頭が良すぎた。
その頭の良さを隠した方法だって天才的だっただろうから、子供がそれに苦しんだ故に表に出さなくなったって事を見抜けなかったんだろう。
だからただ落胆してしまった。
そしてそれを見たガスパーはグレてしまった。
自分があえてそれを隠した事を理解してもらえなかった。
頭が良くないと受け入れてもらえないのかと傷を負ってしまった。
確かにガスパーにもそれをする前に親に相談したりする余裕があればよかったのかもしれない。
理不尽な目にあっている事を話せれば良かったのかも知れない。
でも、訳もわからず怒鳴られる恐怖に身の竦んだ子供にはそれは難しいだろう。
そしてガスパーはその解決策を一人で閃いてしまう天才だったのも、ある意味不運だったんだろう。
ちょっとした親と子のすれ違い。
でもそれは時としてどうする事もできないものになってしまう。
その時大丈夫だと何の心配もいらないと。
頭の良さなんて関係ないと子供を抱きしめる事が出来ていたなら、ガスパーにもヤエル本部長にも違う道が開いていたのかもしれない。
その時、一言でも親に相談できていれば。
ただ意味がわからず泣きつく事ができていれば、違う結果があったのかもしれない。
そしてさらに悪い事にグレたガスパーは、その後も周囲に理解される事なく、厄介者の腫れ物として扱われて来てしまった。
だから誰ももう、ガスパーが神童と言われた天才だったなんて事は忘れてしまったのだ。
それは親であるヤエル本部長もそうだっただろう。
だがガスパーは這い上がった。
這い上がって、本来の自分を取り戻した。
ラティーマーの神童は健在だと、あいつは自分の足で立って証明してみせた。
そうなってやっと、長い間ガスパーは自分を殺していただけだとヤエル本部長は理解したのだろう。
それに気付なかった事、たとえ神童でなくても受け入れてやれなかった事、そして何より、その全てをかの神童は見抜いていただろう事を理解してしまった。
やるせないよな、それは。
今更何を言っても遅い。
今更何を話しかけていいのかもわからない。
けれど周囲からは、自慢の息子を持ったなと言われる。
その息子との関係はもう修復できないほど冷え切ってしまっていたとしても、周りはそんな事を気にかけてなどくれないだろう。
でもなぁ~、俺に親子の間を取り持って欲しいとか言われても困るんだよなぁ。
そういうつもりで話をされてるのかはよくわかんないけど。
俺はヤエル本部長がどういうつもりで俺と話したかったのかよくわからず、ただ黙っている事しかできなかった。
重い空気の中、時間だけがのろのろと過ぎていく。
「……心配しなくてもいい。息子との間を取り持って欲しいと言いたいのではない。」
しばらくの沈黙の後、ヤエル本部長はそう言った。
どうやら俺が何を考えていたかは読めていたようだ。
何だかんだ、やっぱりガスパーの父親だよな。
状況判断というか、読む力に優れている。
そりゃ代々宰相を務める訳だよ、ラティーマー一族。
やっぱり秀でて頭の回転が早い。
「では、私と話したい事というのは何でしょうか?」
そこまで読んで話す相手なら、探りを入れ合うような無駄な部分は端折っても構わないだろう。
俺はそう思って、さっくりと本題を突いた。
ヤエル本部長はまた、深くため息をついて、沈黙を纏った。
う~ん、この人も色々あったんだろうけど、そんなに重い空気を常に背負ってたら、前に進む事も進まなくなっちゃうのになぁ~。
余計なお世話だろうけれど、そんな事を思った。
「単刀直入に言おう、アズマ副隊長代理。あの子を開放して欲しい。」
「……はい??」
重々しく語られたヤエル本部長の言葉に、俺は間の抜けた返事を返した。
開放するってどういう意味だ??
別に俺、あいつを縛ってるつもりはないんだけど??
ヤエル本部長は続けた。
「わかっていると思うが、あの子は才能のある子だ。その才を再びこの世界に戻してくれた事にはとても感謝している。だが、あの子のその才能はきっとこの国を大きく動かす事ができる。君が引き戻してくれたものなのは十分よくわかっている。けれどあの子の才はもっと広い場所で活かされるべきだ。あの子ならこの国を、多くの人を動かし導いていける。だからどうか、あの子を開放してやって欲しい。」
全く意味がわからない。
俺はきょとんとしてその話を聞いていた。
ガスパーが凄く才能がある事なんて、近くで見てきたんだから俺はよくわかっている。
でも別に俺は、俺や警護部隊に縛りつけている気はない。
むしろ裁判が終わったら、速攻、どっかの部署なり大臣なりに掻っ攫われると思っていた。
でもそういう話は聞かなかった。
ガスパーが隠しているのかと思ったが、周りに聞いても、内々に打診があったりはしたようだが、表立って引き抜きはかけられていないと言っていた。
正直、警護部隊なんて下っ端組織だ。
上の省や大臣から正式に声をかけられてしまったら、断る事なんてできない。
でもそういう話はなかったのだ。
内々にはあったらしいから、ガスパー本人がうまく手を回して躱してるんだと思っていた。
でもそれだって別に、俺や警護部隊が縛りつけて出ていかないようにしていた訳じゃない。
「……もしかして、領地管理等後見人の事でしょうか??」
話が見えなかった俺はヤエル本部長にそう聞いた。
俺達はガスパーを縛っていたりはしない。
ただ、俺が個人的にガスパーを縛っている様に見えるとしたら後見人の件だ。
他は警護部隊の役職なんだから、俺に言うよりギルに言った方がいい。
まぁ一応俺も副隊長代理だから俺からギルに伝えてもいいんだけどさ??
「それもあるが……。」
ヤエル本部長も何やら困惑し始めた。
全く話が見えないで俺が話している事を理解したようで、ヤエル本部長も訳がわからなくなっている。
「え??あのヤエル本部長。誤解があるようなのですが、私や警護部隊の方で息子さんに無理を強いている事は何もありません。確かに息子さんはすぐにでも王宮の仕事につきたいと言う事は我々に話していませんが、我々は他部署や省から正式に声がかかった時に何か邪魔をしようなどとは思っておりません。」
俺の言葉にヤエル本部長は言葉を失う。
そして全部わかったと言うようにため息をつき、黙ってしまった。
え?マジで何なの??
本当に話が見えないんだけど??
俺は気まずい空気の中、どうしていいのかわからず、ヤエル本部長が話し出すのを待っていた。
「……君は……本当にあの件を知らぬのだな……。」
重いため息と共にヤエル本部長が言った。
あの件??
あの件って一体なんだ??
俺は首をひねるしかない。
だがヤエル本部長は、手段を選んでいる事はできないとばかりに、覚悟を決めたようにまっすぐに俺を見た。
「息子、ガスパーは君に騎士の誓いを立てた。」
俺は硬直した。
は??騎士の誓い??
ガスパーが??俺に……??
「ちょっと待ってください!!騎士の誓いですか?!ガスパーが?!俺に?!」
「あぁ……。」
「そんなの知りません!知っていたら止めてます!!いつですか?!いつあいつは誓いを立てたんですか?!俺、知らないですよ?!」
「……ランスロット殿下の呪いと君がやり合った後だよ。君は意識を失っていた。その時だ。」
「えええぇぇぇぇ~っ?!」
「意識のない君から返答は受けていない。だから誓いを立てたと言っても不完全なものだ。だが皆、その行動がどういう意味なのかわかっている。よって無粋な真似はできぬと、あの子を引き抜きたくてもしないのだ。」
俺は言葉が出なかった。
そしてやっとわかった。
裁判の後、周りからガスパーとの関係について微妙なツッコミを受けたり、ガスパーが常に俺の専属みたいに動いていても誰も何も言わなかった理由が……。
……アイツ!!
何勝手な事してんだよ!!
騎士の誓い?!
騎士の誓いなんかしたのかよ?!
しかも大勢の人が見ている前で!
俺に?!
馬鹿なの?!
天才だと思ってたけど、馬鹿なの?!
アイツ?!
「嘘だろぉ~っ!!」
俺は上官であるヤエル本部長の前だというのに、完全に取り乱してそう叫んだ。
そして手で顔を覆った。
騎士の誓いにはいくつかある。
いや、本当はいくつかあったらまずいんだけどさ。
一つ目は騎士の称号を賜る時に建てるやつだ。
俺がライオネル殿下に称号を貰う時にやったあれだ。
これが王道であり、本来の騎士の誓いだ。
でも貴族だと生まれた時に称号がすでにくっついてたりするし、入隊の時に一応やるけど集団で代表だけが王族の前に出で賜ってしまうので、何だか自分が受けたと言う認識が少ない奴も多い。
2つめが、プロポーズとしての誓いだ。
これはお遊びというか、騎士の誓いを真似して恋人にプロポーズするってやつだ。
まぁ普通のプロポーズの多くは跪いてやるから、それらも何となく騎士の誓いの影響は受けてるって感じだ。
3つめは、称号を貰う為ではなく、自分が真に命をかけて支えようと思った、いわば主と選んだ相手にする誓いだ。
俗に言う、本気の誓い。
何の拘束力もないが、本人が相手に対して心からの忠誠を示すものだ。
本来なら称号をもらう相手に騎士の誓いをするって事は、その王族に全てを捧げ命をかけるって事だからそれも含まれているのだ。
でも貴族に生まれたら誕生した時から持ってるし、警護部隊や軍なんかに入って授与式を受けても、一対一で賜った訳じゃないから、卒業式で卒業証書を受け取ったぐらいの感覚しか持てない事が多い。
そんな所で出てくるのがこの誓いだ。
自分が本気でこの人の下で働きたいと、この人に全て捧げてついていくんだと決めた時、それを示す為に騎士の誓いをする事がある。
別に誓いを建てたからと言って何がある訳ではないし、その誓いに拘束力もない。
ただ、本人の覚悟を相手に示すものだ。
意味はないが、心情的にはシルクの一度だけの誓いに近いのかもしれない。
俺は真っ青になった。
ガスパーが俺に誓いを立てた。
おそらく本気の誓いってヤツだ。
「何で……何で俺なんかに……?!」
全く意味がわからない。
だが、大勢の人間がそれを見ていて知っている。
だからその心意気を踏みにじるのは礼儀に反するから、ガスパーを引き抜こうとしないのだ。
「ちょっと待ってよ~っ!!」
知らなかった事とはいえ、気絶してたとはいえ、すでにこんなに時間が経ってしまって、広く王宮に浸透してしまった事実だ。
知らなかったで通る訳がない。
動揺する俺にヤエル本部長はゆっくりと言った。
「あの誓いが君の本意ではなかった事はわかった……。そしてあの誓いが不完全なものである事も皆、知っている。だから頼もう。アズマ・サーク男爵。あの子を開放して欲しい。この通りだ……。」
ヤエル本部長はそう言って立ち上がり、俺に頭を下げた。
「私はあの子との関係を修復したいとは言わない。私はそれだけの事をした。親としてあの子にひどい仕打ちをしたのは事実だ。あの子が一番辛かった時、私は落胆するという形であの子を突き放してしまった。一番誰かに頼りたかった時に、幼いあの子を突き放してしまった。あの子から見捨てられても致し方ない。だがせめて、あの子の才能は守ってやりたい。その才能を遺憾なく発揮できる道を作ってやりたい。この通りだ、アズマ・サーク男爵。あの子を開放してやって欲しい……。」
そう言って頭を下げるヤエル本部長を、俺は黙って見つめた。
そして大きく息を吸い込み、吐き出す。
俺の答えは決まっていた。
「……それはできません。ヤエル本部長。」
はっきりと答えた俺に、ヤエル本部長は信じられないと言った顔を向けた。
「何故?!あの誓いは君の本意ではなかったのだろう?!」
「俺の本意なんか関係ないじゃないですか?問題はアイツの本意です。」
「何?!」
「ヤエル本部長、あなたは何もわかっていない。あなたはまた、才能を隠してしまったガスパーにしたのと同じ事をしようとしてますよ。」
「……どういう事だ?!」
「ですから、俺の本意なんてどうてもいい事なんですよ。あいつもそう思って意識のない俺に誓いを立てて、その後も周りに口止めしてたんですから。」
ヤエル本部長は本気でわからないのか、困って固まっていた。
そんな本部長に俺はため息をつくしかない。
「……あいつはもういい大人です。才能を押し殺してしまった時の小さな子どもなんかじゃないんです。本部長。」
「それはいったい……?!」
「あいつは長年自分の才能に蓋をしてきた。一生、そうやって生きていくと決めていた。でもそんなあいつが、自分で決めた生涯のルールを破ったんです。自分の意志で破ったんです。」
「……………。」
「騎士の誓いも同じです。それはあいつの意思です。もっとも、どういう意図だったかはわかりません。本当に私に忠誠の誓いを建てたのか、もしくはあの後、王宮から引き抜きの話が来るのを見越し、それを防ぐ手段として行ったのか、私にはわかりません。ですがそれが何であれ、あの時、あの場で誓いを立てたのはあいつの意思です。あいつが考えた末に選んだ道です。……あなたはまた、その意思を理解してやるどころか、踏みにじるおつもりなんですか?」
俺の言葉に、ヤエル本部長はハッとした顔をして、そして俯いた。
どうやら話は通じたようだ。
これ以上、俺がああだこうだ言う必要はないだろう。
「俺の本意なんて関係ないんですよ。大事なのは、あいつの意思です。あいつが自分の意志で選んだ本気です。そもそも俺はあいつが誓いを立てたなんて事は知りません。ですから俺にできる事は何もありませんよ、本部長。」
ヤエル本部長は力なく椅子に座った。
俺はしばらくそれを見ていたが、頃合いを見て言った。
「お話がお済みのようなので、退室しても構わないでしょうか?」
「あぁ、下がってくれ、アズマ男爵……。」
「はい。では失礼致します。」
俺はそう言って礼を尽くし、部屋を出て行った。
扉が閉まる前に見えたヤエル本部長は、何だかとても小さく見えた。
パタン……とドアが閉まって、アズマ男爵が出て行った。
ヤエル・ラティーマーは、力なく俯いて額を押さえる。
どうやら自分はとんでもない勘違いをしていたようだ。
それをアズマ男爵から教えられるとは、本当に親として失格だ。
自分が本当に情けなくて泣きたくなる。
こんな自分では息子に見放されるのも当然だ。
「……余計な事、すんじゃねぇよ。」
ふとそんな声がかかった。
その声に顔を向ければ、秘書室に通じるドアがいつの間にか開いていて、戸口に酷く不機嫌そうな息子が立っている。
キッとした蛇の目がキツく自分を睨む。
いつからいたのだろう?
アズマ男爵の話では、まだ今日は休暇中のはずだ。
とは言え同じ屋敷に住みながら、自分の息子が休暇中であった事も、どんな予定を過ごしていたのかも知らない。
どこから聞かれていたのだろう?
ただ口ぶりから、聞かれたくなかった部分は聞かれていたのは確かだろう。
「全く……やっとあの日の事が吹っ切れた所だってのに……明日以降、どうやってあいつの顔を見りゃいいんだよ……。」
そんな事をブツブツ言っている。
その顔を見てヤエルは悟った。
だが色々言うのは野暮というものだ。
これはもう、成人した一人の男が覚悟を持って選んだ道なのだから。
「……アズマ男爵は、いい男だな……。」
そうとだけ言葉にした。
彼の息子は一瞬、意外そうな顔をしたが、フフンと笑った。
「当たり前だろ?この俺が全てを掛けた男だ。」
ニヤッと浮かべる挑戦的な笑みは、ラティーマー家に相応しい笑みだった。
長く続くラティーマー家だが、この笑みを浮かべられるのは、その中のひと握りだ。
自分には浮かべられない笑みを浮かべる息子を見て、ヤエルはもう何も言うまいと思った。
その牙を、その毒を、何の為に使うか定まった者の笑み。
優れている故に、己が信念を貫くものに出会える事が少ない。
それがラティーマーの背負うもう一つの宿命。
能力の大きさだけでなく、自分の才をどう使うか見つけられなかったラティーマーは、ただ他より少し優れた社会の歯車の一つでしかない。
自分には見つけられなかったそれを、たくさんの絶望と挫折の末に手に入れた息子をヤエルは誇らしいと思った。
「それで?お前は自分の選んだ主君を自慢しに来たのか?ガスパー?」
「いや?ちょっと知人を離れに泊める事になったから、一応あんたに断っておこうと思って寄っただけだ。」
知人を家に泊める。
そう言われヤエルはまじまじと息子の顔を見つめた。
今までそのような事はなかったからだ。
友人はそれなりにいたようだが、自分の友人の息子で幼馴染となったイヴァン以外にはずっと一線を引いて、誰にも心を開かず家に招くような事はなかった。
そんな息子が知人とは言え家に招いたという。
離れというのはガスパーが日頃使っている別棟だ。
同じ家に住みながら、あまり顔を合わせたりしないのはそのせいだ。
だからその客人ともあまり顔を合わせる事はないだろう。
それでも息子は礼儀を考え、家主である自分に断ったのだろう。
これは……やはり彼の影響なのだろうか?
その変化を目の当たりにし、ヤエルは面食らってしまった。
「…………。嫌ならいい。ホテルを探す。」
「いや、いや。大丈夫だ泊まってもらってくれ。」
「ああそうかよ。ありがとな。ただちょっと人嫌いな人物だから、あんま顔を見せろとか呼び出すなよ?」
「わかった……。」
喉までおかしな人間じゃないだろうなと言いそうになったが、下手な事を言ったらガスパーも含めてホテルの手続きをしだすのが目に見えていたので押し黙った。
かの人物を君主に選んだ今の息子にはあまり心配はないだろうと思った。
「一応、名前だけは教えてくれるか?」
「名前は……。」
息子の告げた名前に、ヤエルはまた目を丸くして言葉を失ったのだった。
閉めたというか、閉まったと言うか。
何か、逃げ場のない気まずい空間に閉じ込められてしまった感が否めなかった。
「……なるほど。確かに宮廷魔術師たちは本来、国王であり王国を守る為の魔術師として集められたものだ。その性質は国軍の扱いに近いはずだが、その他にも魔術を用いて様々な教務がこなせる為、宮廷内務省の管轄となっている。だが、だからと言ってその様な雑務に追われていては、本来の職務を全うできぬ。わかった。その試み進めてみてくれ。ただし初の試みでもあり機密に関わる部分もある。報告は書面で良いのでちくいち上げてくれ。」
「承知しました。ご許可下さり、ありがとうございます。」
何とか俺の要件は済ませる事ができた。
許可ももらえたし、ほっと胸を撫で下ろす。
ガスパーパパことヤエル・ラティーマー本部長は、やはり仕事のできる感じの人で、俺が簡単に外部委託の話をしただけなのに、宮廷魔術師の本来の職務を理解した上で、それを許可してくれた。
やっぱりラティーマー家って何か凄いんだな……。
それにしても、何でヤエル本部長はこんなに浮かない顔なんだろう……。
空気も重いし早く帰りたい……。
こちらの要件は終わったのだけれども、その後何か話しかけられるでもなく続く沈黙の中、俺はだんだん居心地の悪さに耐えきれなくなってきていた。
「ところで……。」
俺が何もなければ仕事に戻りますと喉まで出掛かった時、ようやくヤエル本部長が口を開いた。
何となく重いその口調に俺は妙な焦りを感じる。
「我が息子、ガスパーは元気かね……。」
やっぱりガスパーの事か、と思う。
それはわかっていたのだが俺は首を傾げた。
「はい。彼は本日まで休暇となっていますのでここしばらく会ってはいませんが、本部長の息子さんには、いつもとても力になって頂いています。本当にありがとうございます。」
「そうか……。」
そう、ガスパーは休暇中だ。
だから俺よりも家族であるヤエル本部長の方が顔を見ていると思うんだよな??
ガスパーは引っ越した事はないって言ってたし、実家暮らしのはずだ。
ん~、これはどうやら親子関係があまり上手くいっていない系か……。
そりゃそうだよな~。
前に軽くガスパーが家の話をしてくれたけど、そりゃ、グレるよなぁって感じだったし……。
ただ、ヤエル本部長の方も仕方ないって言えば仕方ないんだよなぁ……。
何しろ相手はあの神童、頭が良すぎた。
その頭の良さを隠した方法だって天才的だっただろうから、子供がそれに苦しんだ故に表に出さなくなったって事を見抜けなかったんだろう。
だからただ落胆してしまった。
そしてそれを見たガスパーはグレてしまった。
自分があえてそれを隠した事を理解してもらえなかった。
頭が良くないと受け入れてもらえないのかと傷を負ってしまった。
確かにガスパーにもそれをする前に親に相談したりする余裕があればよかったのかもしれない。
理不尽な目にあっている事を話せれば良かったのかも知れない。
でも、訳もわからず怒鳴られる恐怖に身の竦んだ子供にはそれは難しいだろう。
そしてガスパーはその解決策を一人で閃いてしまう天才だったのも、ある意味不運だったんだろう。
ちょっとした親と子のすれ違い。
でもそれは時としてどうする事もできないものになってしまう。
その時大丈夫だと何の心配もいらないと。
頭の良さなんて関係ないと子供を抱きしめる事が出来ていたなら、ガスパーにもヤエル本部長にも違う道が開いていたのかもしれない。
その時、一言でも親に相談できていれば。
ただ意味がわからず泣きつく事ができていれば、違う結果があったのかもしれない。
そしてさらに悪い事にグレたガスパーは、その後も周囲に理解される事なく、厄介者の腫れ物として扱われて来てしまった。
だから誰ももう、ガスパーが神童と言われた天才だったなんて事は忘れてしまったのだ。
それは親であるヤエル本部長もそうだっただろう。
だがガスパーは這い上がった。
這い上がって、本来の自分を取り戻した。
ラティーマーの神童は健在だと、あいつは自分の足で立って証明してみせた。
そうなってやっと、長い間ガスパーは自分を殺していただけだとヤエル本部長は理解したのだろう。
それに気付なかった事、たとえ神童でなくても受け入れてやれなかった事、そして何より、その全てをかの神童は見抜いていただろう事を理解してしまった。
やるせないよな、それは。
今更何を言っても遅い。
今更何を話しかけていいのかもわからない。
けれど周囲からは、自慢の息子を持ったなと言われる。
その息子との関係はもう修復できないほど冷え切ってしまっていたとしても、周りはそんな事を気にかけてなどくれないだろう。
でもなぁ~、俺に親子の間を取り持って欲しいとか言われても困るんだよなぁ。
そういうつもりで話をされてるのかはよくわかんないけど。
俺はヤエル本部長がどういうつもりで俺と話したかったのかよくわからず、ただ黙っている事しかできなかった。
重い空気の中、時間だけがのろのろと過ぎていく。
「……心配しなくてもいい。息子との間を取り持って欲しいと言いたいのではない。」
しばらくの沈黙の後、ヤエル本部長はそう言った。
どうやら俺が何を考えていたかは読めていたようだ。
何だかんだ、やっぱりガスパーの父親だよな。
状況判断というか、読む力に優れている。
そりゃ代々宰相を務める訳だよ、ラティーマー一族。
やっぱり秀でて頭の回転が早い。
「では、私と話したい事というのは何でしょうか?」
そこまで読んで話す相手なら、探りを入れ合うような無駄な部分は端折っても構わないだろう。
俺はそう思って、さっくりと本題を突いた。
ヤエル本部長はまた、深くため息をついて、沈黙を纏った。
う~ん、この人も色々あったんだろうけど、そんなに重い空気を常に背負ってたら、前に進む事も進まなくなっちゃうのになぁ~。
余計なお世話だろうけれど、そんな事を思った。
「単刀直入に言おう、アズマ副隊長代理。あの子を開放して欲しい。」
「……はい??」
重々しく語られたヤエル本部長の言葉に、俺は間の抜けた返事を返した。
開放するってどういう意味だ??
別に俺、あいつを縛ってるつもりはないんだけど??
ヤエル本部長は続けた。
「わかっていると思うが、あの子は才能のある子だ。その才を再びこの世界に戻してくれた事にはとても感謝している。だが、あの子のその才能はきっとこの国を大きく動かす事ができる。君が引き戻してくれたものなのは十分よくわかっている。けれどあの子の才はもっと広い場所で活かされるべきだ。あの子ならこの国を、多くの人を動かし導いていける。だからどうか、あの子を開放してやって欲しい。」
全く意味がわからない。
俺はきょとんとしてその話を聞いていた。
ガスパーが凄く才能がある事なんて、近くで見てきたんだから俺はよくわかっている。
でも別に俺は、俺や警護部隊に縛りつけている気はない。
むしろ裁判が終わったら、速攻、どっかの部署なり大臣なりに掻っ攫われると思っていた。
でもそういう話は聞かなかった。
ガスパーが隠しているのかと思ったが、周りに聞いても、内々に打診があったりはしたようだが、表立って引き抜きはかけられていないと言っていた。
正直、警護部隊なんて下っ端組織だ。
上の省や大臣から正式に声をかけられてしまったら、断る事なんてできない。
でもそういう話はなかったのだ。
内々にはあったらしいから、ガスパー本人がうまく手を回して躱してるんだと思っていた。
でもそれだって別に、俺や警護部隊が縛りつけて出ていかないようにしていた訳じゃない。
「……もしかして、領地管理等後見人の事でしょうか??」
話が見えなかった俺はヤエル本部長にそう聞いた。
俺達はガスパーを縛っていたりはしない。
ただ、俺が個人的にガスパーを縛っている様に見えるとしたら後見人の件だ。
他は警護部隊の役職なんだから、俺に言うよりギルに言った方がいい。
まぁ一応俺も副隊長代理だから俺からギルに伝えてもいいんだけどさ??
「それもあるが……。」
ヤエル本部長も何やら困惑し始めた。
全く話が見えないで俺が話している事を理解したようで、ヤエル本部長も訳がわからなくなっている。
「え??あのヤエル本部長。誤解があるようなのですが、私や警護部隊の方で息子さんに無理を強いている事は何もありません。確かに息子さんはすぐにでも王宮の仕事につきたいと言う事は我々に話していませんが、我々は他部署や省から正式に声がかかった時に何か邪魔をしようなどとは思っておりません。」
俺の言葉にヤエル本部長は言葉を失う。
そして全部わかったと言うようにため息をつき、黙ってしまった。
え?マジで何なの??
本当に話が見えないんだけど??
俺は気まずい空気の中、どうしていいのかわからず、ヤエル本部長が話し出すのを待っていた。
「……君は……本当にあの件を知らぬのだな……。」
重いため息と共にヤエル本部長が言った。
あの件??
あの件って一体なんだ??
俺は首をひねるしかない。
だがヤエル本部長は、手段を選んでいる事はできないとばかりに、覚悟を決めたようにまっすぐに俺を見た。
「息子、ガスパーは君に騎士の誓いを立てた。」
俺は硬直した。
は??騎士の誓い??
ガスパーが??俺に……??
「ちょっと待ってください!!騎士の誓いですか?!ガスパーが?!俺に?!」
「あぁ……。」
「そんなの知りません!知っていたら止めてます!!いつですか?!いつあいつは誓いを立てたんですか?!俺、知らないですよ?!」
「……ランスロット殿下の呪いと君がやり合った後だよ。君は意識を失っていた。その時だ。」
「えええぇぇぇぇ~っ?!」
「意識のない君から返答は受けていない。だから誓いを立てたと言っても不完全なものだ。だが皆、その行動がどういう意味なのかわかっている。よって無粋な真似はできぬと、あの子を引き抜きたくてもしないのだ。」
俺は言葉が出なかった。
そしてやっとわかった。
裁判の後、周りからガスパーとの関係について微妙なツッコミを受けたり、ガスパーが常に俺の専属みたいに動いていても誰も何も言わなかった理由が……。
……アイツ!!
何勝手な事してんだよ!!
騎士の誓い?!
騎士の誓いなんかしたのかよ?!
しかも大勢の人が見ている前で!
俺に?!
馬鹿なの?!
天才だと思ってたけど、馬鹿なの?!
アイツ?!
「嘘だろぉ~っ!!」
俺は上官であるヤエル本部長の前だというのに、完全に取り乱してそう叫んだ。
そして手で顔を覆った。
騎士の誓いにはいくつかある。
いや、本当はいくつかあったらまずいんだけどさ。
一つ目は騎士の称号を賜る時に建てるやつだ。
俺がライオネル殿下に称号を貰う時にやったあれだ。
これが王道であり、本来の騎士の誓いだ。
でも貴族だと生まれた時に称号がすでにくっついてたりするし、入隊の時に一応やるけど集団で代表だけが王族の前に出で賜ってしまうので、何だか自分が受けたと言う認識が少ない奴も多い。
2つめが、プロポーズとしての誓いだ。
これはお遊びというか、騎士の誓いを真似して恋人にプロポーズするってやつだ。
まぁ普通のプロポーズの多くは跪いてやるから、それらも何となく騎士の誓いの影響は受けてるって感じだ。
3つめは、称号を貰う為ではなく、自分が真に命をかけて支えようと思った、いわば主と選んだ相手にする誓いだ。
俗に言う、本気の誓い。
何の拘束力もないが、本人が相手に対して心からの忠誠を示すものだ。
本来なら称号をもらう相手に騎士の誓いをするって事は、その王族に全てを捧げ命をかけるって事だからそれも含まれているのだ。
でも貴族に生まれたら誕生した時から持ってるし、警護部隊や軍なんかに入って授与式を受けても、一対一で賜った訳じゃないから、卒業式で卒業証書を受け取ったぐらいの感覚しか持てない事が多い。
そんな所で出てくるのがこの誓いだ。
自分が本気でこの人の下で働きたいと、この人に全て捧げてついていくんだと決めた時、それを示す為に騎士の誓いをする事がある。
別に誓いを建てたからと言って何がある訳ではないし、その誓いに拘束力もない。
ただ、本人の覚悟を相手に示すものだ。
意味はないが、心情的にはシルクの一度だけの誓いに近いのかもしれない。
俺は真っ青になった。
ガスパーが俺に誓いを立てた。
おそらく本気の誓いってヤツだ。
「何で……何で俺なんかに……?!」
全く意味がわからない。
だが、大勢の人間がそれを見ていて知っている。
だからその心意気を踏みにじるのは礼儀に反するから、ガスパーを引き抜こうとしないのだ。
「ちょっと待ってよ~っ!!」
知らなかった事とはいえ、気絶してたとはいえ、すでにこんなに時間が経ってしまって、広く王宮に浸透してしまった事実だ。
知らなかったで通る訳がない。
動揺する俺にヤエル本部長はゆっくりと言った。
「あの誓いが君の本意ではなかった事はわかった……。そしてあの誓いが不完全なものである事も皆、知っている。だから頼もう。アズマ・サーク男爵。あの子を開放して欲しい。この通りだ……。」
ヤエル本部長はそう言って立ち上がり、俺に頭を下げた。
「私はあの子との関係を修復したいとは言わない。私はそれだけの事をした。親としてあの子にひどい仕打ちをしたのは事実だ。あの子が一番辛かった時、私は落胆するという形であの子を突き放してしまった。一番誰かに頼りたかった時に、幼いあの子を突き放してしまった。あの子から見捨てられても致し方ない。だがせめて、あの子の才能は守ってやりたい。その才能を遺憾なく発揮できる道を作ってやりたい。この通りだ、アズマ・サーク男爵。あの子を開放してやって欲しい……。」
そう言って頭を下げるヤエル本部長を、俺は黙って見つめた。
そして大きく息を吸い込み、吐き出す。
俺の答えは決まっていた。
「……それはできません。ヤエル本部長。」
はっきりと答えた俺に、ヤエル本部長は信じられないと言った顔を向けた。
「何故?!あの誓いは君の本意ではなかったのだろう?!」
「俺の本意なんか関係ないじゃないですか?問題はアイツの本意です。」
「何?!」
「ヤエル本部長、あなたは何もわかっていない。あなたはまた、才能を隠してしまったガスパーにしたのと同じ事をしようとしてますよ。」
「……どういう事だ?!」
「ですから、俺の本意なんてどうてもいい事なんですよ。あいつもそう思って意識のない俺に誓いを立てて、その後も周りに口止めしてたんですから。」
ヤエル本部長は本気でわからないのか、困って固まっていた。
そんな本部長に俺はため息をつくしかない。
「……あいつはもういい大人です。才能を押し殺してしまった時の小さな子どもなんかじゃないんです。本部長。」
「それはいったい……?!」
「あいつは長年自分の才能に蓋をしてきた。一生、そうやって生きていくと決めていた。でもそんなあいつが、自分で決めた生涯のルールを破ったんです。自分の意志で破ったんです。」
「……………。」
「騎士の誓いも同じです。それはあいつの意思です。もっとも、どういう意図だったかはわかりません。本当に私に忠誠の誓いを建てたのか、もしくはあの後、王宮から引き抜きの話が来るのを見越し、それを防ぐ手段として行ったのか、私にはわかりません。ですがそれが何であれ、あの時、あの場で誓いを立てたのはあいつの意思です。あいつが考えた末に選んだ道です。……あなたはまた、その意思を理解してやるどころか、踏みにじるおつもりなんですか?」
俺の言葉に、ヤエル本部長はハッとした顔をして、そして俯いた。
どうやら話は通じたようだ。
これ以上、俺がああだこうだ言う必要はないだろう。
「俺の本意なんて関係ないんですよ。大事なのは、あいつの意思です。あいつが自分の意志で選んだ本気です。そもそも俺はあいつが誓いを立てたなんて事は知りません。ですから俺にできる事は何もありませんよ、本部長。」
ヤエル本部長は力なく椅子に座った。
俺はしばらくそれを見ていたが、頃合いを見て言った。
「お話がお済みのようなので、退室しても構わないでしょうか?」
「あぁ、下がってくれ、アズマ男爵……。」
「はい。では失礼致します。」
俺はそう言って礼を尽くし、部屋を出て行った。
扉が閉まる前に見えたヤエル本部長は、何だかとても小さく見えた。
パタン……とドアが閉まって、アズマ男爵が出て行った。
ヤエル・ラティーマーは、力なく俯いて額を押さえる。
どうやら自分はとんでもない勘違いをしていたようだ。
それをアズマ男爵から教えられるとは、本当に親として失格だ。
自分が本当に情けなくて泣きたくなる。
こんな自分では息子に見放されるのも当然だ。
「……余計な事、すんじゃねぇよ。」
ふとそんな声がかかった。
その声に顔を向ければ、秘書室に通じるドアがいつの間にか開いていて、戸口に酷く不機嫌そうな息子が立っている。
キッとした蛇の目がキツく自分を睨む。
いつからいたのだろう?
アズマ男爵の話では、まだ今日は休暇中のはずだ。
とは言え同じ屋敷に住みながら、自分の息子が休暇中であった事も、どんな予定を過ごしていたのかも知らない。
どこから聞かれていたのだろう?
ただ口ぶりから、聞かれたくなかった部分は聞かれていたのは確かだろう。
「全く……やっとあの日の事が吹っ切れた所だってのに……明日以降、どうやってあいつの顔を見りゃいいんだよ……。」
そんな事をブツブツ言っている。
その顔を見てヤエルは悟った。
だが色々言うのは野暮というものだ。
これはもう、成人した一人の男が覚悟を持って選んだ道なのだから。
「……アズマ男爵は、いい男だな……。」
そうとだけ言葉にした。
彼の息子は一瞬、意外そうな顔をしたが、フフンと笑った。
「当たり前だろ?この俺が全てを掛けた男だ。」
ニヤッと浮かべる挑戦的な笑みは、ラティーマー家に相応しい笑みだった。
長く続くラティーマー家だが、この笑みを浮かべられるのは、その中のひと握りだ。
自分には浮かべられない笑みを浮かべる息子を見て、ヤエルはもう何も言うまいと思った。
その牙を、その毒を、何の為に使うか定まった者の笑み。
優れている故に、己が信念を貫くものに出会える事が少ない。
それがラティーマーの背負うもう一つの宿命。
能力の大きさだけでなく、自分の才をどう使うか見つけられなかったラティーマーは、ただ他より少し優れた社会の歯車の一つでしかない。
自分には見つけられなかったそれを、たくさんの絶望と挫折の末に手に入れた息子をヤエルは誇らしいと思った。
「それで?お前は自分の選んだ主君を自慢しに来たのか?ガスパー?」
「いや?ちょっと知人を離れに泊める事になったから、一応あんたに断っておこうと思って寄っただけだ。」
知人を家に泊める。
そう言われヤエルはまじまじと息子の顔を見つめた。
今までそのような事はなかったからだ。
友人はそれなりにいたようだが、自分の友人の息子で幼馴染となったイヴァン以外にはずっと一線を引いて、誰にも心を開かず家に招くような事はなかった。
そんな息子が知人とは言え家に招いたという。
離れというのはガスパーが日頃使っている別棟だ。
同じ家に住みながら、あまり顔を合わせたりしないのはそのせいだ。
だからその客人ともあまり顔を合わせる事はないだろう。
それでも息子は礼儀を考え、家主である自分に断ったのだろう。
これは……やはり彼の影響なのだろうか?
その変化を目の当たりにし、ヤエルは面食らってしまった。
「…………。嫌ならいい。ホテルを探す。」
「いや、いや。大丈夫だ泊まってもらってくれ。」
「ああそうかよ。ありがとな。ただちょっと人嫌いな人物だから、あんま顔を見せろとか呼び出すなよ?」
「わかった……。」
喉までおかしな人間じゃないだろうなと言いそうになったが、下手な事を言ったらガスパーも含めてホテルの手続きをしだすのが目に見えていたので押し黙った。
かの人物を君主に選んだ今の息子にはあまり心配はないだろうと思った。
「一応、名前だけは教えてくれるか?」
「名前は……。」
息子の告げた名前に、ヤエルはまた目を丸くして言葉を失ったのだった。
30
あなたにおすすめの小説
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
あなたの隣で初めての恋を知る
彩矢
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
宵にまぎれて兎は回る
宇土為名
BL
高校3年の春、同級生の名取に告白した冬だったが名取にはあっさりと冗談だったことにされてしまう。それを否定することもなく卒業し手以来、冬は親友だった名取とは距離を置こうと一度も連絡を取らなかった。そして8年後、勤めている会社の取引先で転勤してきた名取と8年ぶりに再会を果たす。再会してすぐ名取は自身の結婚式に出席してくれと冬に頼んできた。はじめは断るつもりだった冬だが、名取の願いには弱く結局引き受けてしまう。そして式当日、幸せに溢れた雰囲気に疲れてしまった冬は式場の中庭で避難するように休憩した。いまだに思いを断ち切れていない自分の情けなさを反省していると、そこで別の式に出席している男と出会い…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる