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100. 母さんと僕④
僕は石のようになって、母さんの姿をじっと見ていた。するとそれが母さんではなく見知らぬ女性のような気がしてきた。それほど、いつもの母とは違う姿だった。
看護婦で、夜勤までこなして、仕事があるのにPTA等もやって、家事だって少々手を抜くけれどちゃんとして、強くて……そう、僕の中の母さんはなよついた僕なんかと違っていつでも強かった。そのイメージを覆す姿に、先ほどまでの反発心が急激に揺らいだ。
母さんは僕に良い子の呪いをかけたけれど、僕は母さんに強い人の呪いをかけていたのだろうか。僕のせいで強くならざるを得なかったかわいそうな人が目の前にいると思った。すると、川合さんは母さんにとっての逃げ場所だったのかもしれない、僕にとっての橘先生のような。僕は言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、青ざめた。
母さんはまだ泣き止まない。うめきや鼻をすする音が僕への怨嗟のように感じられて、これ以上聞くのは耐えられないと思った。僕はなるべく気配を消すようにして、自分の部屋に逃げてしまった。
ベッドに倒れ込んで枕に顔をうずめた。ひどく疲れた。
母さんに迷惑はかけたくないと思っていたのに、結局こうして追いつめて、何をやっているんだろう。僕は身の丈に合った幸せの中で満足しているべきだった。どうして勘違いしてしまったんだろう。佐藤君が優しいから甘えてしまったのかな。佐藤君との関係は僕の身に余る贅沢品で、僕には似合わないと分かっていたはずだろ。悲しいけれどそれが現実だ。
もう何も考えたくない。考えるのは苦しい。眠れば考えなくてすむから寝てしまおう。でも、神経が昂っていて眠れそうにないや。何も考えたくない。そうだ、またハッテン場にでも行ってみようかな。少なくとも、ヤッてる間は現実逃避ができるわけだし。後の反動が怖いけど、でも、それも僕への罰だと思ったらちょうど良いのかもしれないな。
僕はパーカーを羽織り鍵と財布だけ持って、衝動的に家を出た。
最初は本当に自暴自棄だったけれど、歩いているうちに少し冷静になった。しかし家に戻る気にはなれず、目的もなくさまよった。夜の住宅街はたまに車が通るものの人気がない。街灯と街灯の距離があって繁華街のような明るさもない。
家々の灯が、蛍光灯は冴えた白色、白熱灯は暖かそうな白色で光っている。あの光のなかにはそれぞれに人の生活があるのが不思議に思えた。何もかもが僕には関係なくて、僕は世界から切り離されてぽつねんとしている。僕がいつも根底に感じるこの感覚はなんなのだろう。佐藤君と一緒のときでさえ、この感覚はゼロにはならない。誰しもこんな気持ちを抱えて生きているのだろうか。
いつの間にか思い出の公園のすぐ近くに来ていた。僕にまだ父さんがいたころ、この公園に父さんと遊びに来た記憶がかすかに残っている。
小さな公園には一つの灯もなく静まりかえっている。乗る人のいないブランコが、僕に一緒に遊んでと言っているような気がして、そっと座ってみた。明確な記憶はないけれど、僕はこのブランコに乗って父に背中を押してもらったような気がして、少しだけ漕いでみた。すると予想外に大きな金属の軋む音が不快で、すぐに動きを止めた。じっとつま先を見た。
母さんはどうして父さんと離婚したのか僕は知らない。それどころか、僕は自分の父親について薄れた記憶以外の情報を持ち合わせていない。母さんに聞いてみたいと思ったこともあったが、どうしても聞くことができなかった。だって、母さんは僕に父親なんて最初からいなかったみたいに一切を語らないもの。それでも一度だけ母さんが不機嫌そうに「あっくんは性格がお父さんに似ているね。」と言ったことが、どうしても忘れられない。
母さんとは楽しい思い出もあるのに、どうして嫌なことばかり思い出すのだろう。僕は母さんのことが好きで、母さんに感謝しているはずなのに、実は母さんを恨んでいるのだろうか。
感情がぐしゃぐしゃで自分の自然な心の有り様が分からない。でもこれらははっきりしている。僕は下宿したいなんて言うべきではなかった。友達を作るべきではなかった。母さんに不満を言うべきではなかった。前の僕なら平気だったはずのこれらのことが、今はとても苦しいんだ。佐藤君、君ならこんなときどうするだろうか……あれ、友達を作るべきでないと言ったそばから、君のことを考えている。おかしいな、大いなる矛盾だ。
どれくらい考え事をしていたのだろう。ブランコの鎖を握る手の指先が冷たくなった。僕は立ち上がってパーカーのポケットに手を突っ込んだ。公園の入り口を見やると、人影が見えた。夜の散歩だろうか、その人影は通り過ぎずに公園内に入ってきた。だんだんと近付いてきて、顔が判別できるほどになった。母さんだった。
「あっくん、帰りましょう。」
優しい声音に僕は面食らった。
「どうしてここだと分かったの。」
「昔、よくここで遊んだから、なんとなく来てみた。」
僕は母さんに嫌なことを言ったのにどうして迎えに来てくれるのか理解が及ばず、地に足がつかない感じがした。
母さんは僕を叱るでもなくただ歩き出した。僕は母さんの少し後ろを歩いた。母さんのほっそりした後ろ姿は弱々しくて、僕が母をあんなにも強いと思っていたのが不思議に思えた。そして確信した。僕も母さんに呪いをかけていたのだと。
看護婦で、夜勤までこなして、仕事があるのにPTA等もやって、家事だって少々手を抜くけれどちゃんとして、強くて……そう、僕の中の母さんはなよついた僕なんかと違っていつでも強かった。そのイメージを覆す姿に、先ほどまでの反発心が急激に揺らいだ。
母さんは僕に良い子の呪いをかけたけれど、僕は母さんに強い人の呪いをかけていたのだろうか。僕のせいで強くならざるを得なかったかわいそうな人が目の前にいると思った。すると、川合さんは母さんにとっての逃げ場所だったのかもしれない、僕にとっての橘先生のような。僕は言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、青ざめた。
母さんはまだ泣き止まない。うめきや鼻をすする音が僕への怨嗟のように感じられて、これ以上聞くのは耐えられないと思った。僕はなるべく気配を消すようにして、自分の部屋に逃げてしまった。
ベッドに倒れ込んで枕に顔をうずめた。ひどく疲れた。
母さんに迷惑はかけたくないと思っていたのに、結局こうして追いつめて、何をやっているんだろう。僕は身の丈に合った幸せの中で満足しているべきだった。どうして勘違いしてしまったんだろう。佐藤君が優しいから甘えてしまったのかな。佐藤君との関係は僕の身に余る贅沢品で、僕には似合わないと分かっていたはずだろ。悲しいけれどそれが現実だ。
もう何も考えたくない。考えるのは苦しい。眠れば考えなくてすむから寝てしまおう。でも、神経が昂っていて眠れそうにないや。何も考えたくない。そうだ、またハッテン場にでも行ってみようかな。少なくとも、ヤッてる間は現実逃避ができるわけだし。後の反動が怖いけど、でも、それも僕への罰だと思ったらちょうど良いのかもしれないな。
僕はパーカーを羽織り鍵と財布だけ持って、衝動的に家を出た。
最初は本当に自暴自棄だったけれど、歩いているうちに少し冷静になった。しかし家に戻る気にはなれず、目的もなくさまよった。夜の住宅街はたまに車が通るものの人気がない。街灯と街灯の距離があって繁華街のような明るさもない。
家々の灯が、蛍光灯は冴えた白色、白熱灯は暖かそうな白色で光っている。あの光のなかにはそれぞれに人の生活があるのが不思議に思えた。何もかもが僕には関係なくて、僕は世界から切り離されてぽつねんとしている。僕がいつも根底に感じるこの感覚はなんなのだろう。佐藤君と一緒のときでさえ、この感覚はゼロにはならない。誰しもこんな気持ちを抱えて生きているのだろうか。
いつの間にか思い出の公園のすぐ近くに来ていた。僕にまだ父さんがいたころ、この公園に父さんと遊びに来た記憶がかすかに残っている。
小さな公園には一つの灯もなく静まりかえっている。乗る人のいないブランコが、僕に一緒に遊んでと言っているような気がして、そっと座ってみた。明確な記憶はないけれど、僕はこのブランコに乗って父に背中を押してもらったような気がして、少しだけ漕いでみた。すると予想外に大きな金属の軋む音が不快で、すぐに動きを止めた。じっとつま先を見た。
母さんはどうして父さんと離婚したのか僕は知らない。それどころか、僕は自分の父親について薄れた記憶以外の情報を持ち合わせていない。母さんに聞いてみたいと思ったこともあったが、どうしても聞くことができなかった。だって、母さんは僕に父親なんて最初からいなかったみたいに一切を語らないもの。それでも一度だけ母さんが不機嫌そうに「あっくんは性格がお父さんに似ているね。」と言ったことが、どうしても忘れられない。
母さんとは楽しい思い出もあるのに、どうして嫌なことばかり思い出すのだろう。僕は母さんのことが好きで、母さんに感謝しているはずなのに、実は母さんを恨んでいるのだろうか。
感情がぐしゃぐしゃで自分の自然な心の有り様が分からない。でもこれらははっきりしている。僕は下宿したいなんて言うべきではなかった。友達を作るべきではなかった。母さんに不満を言うべきではなかった。前の僕なら平気だったはずのこれらのことが、今はとても苦しいんだ。佐藤君、君ならこんなときどうするだろうか……あれ、友達を作るべきでないと言ったそばから、君のことを考えている。おかしいな、大いなる矛盾だ。
どれくらい考え事をしていたのだろう。ブランコの鎖を握る手の指先が冷たくなった。僕は立ち上がってパーカーのポケットに手を突っ込んだ。公園の入り口を見やると、人影が見えた。夜の散歩だろうか、その人影は通り過ぎずに公園内に入ってきた。だんだんと近付いてきて、顔が判別できるほどになった。母さんだった。
「あっくん、帰りましょう。」
優しい声音に僕は面食らった。
「どうしてここだと分かったの。」
「昔、よくここで遊んだから、なんとなく来てみた。」
僕は母さんに嫌なことを言ったのにどうして迎えに来てくれるのか理解が及ばず、地に足がつかない感じがした。
母さんは僕を叱るでもなくただ歩き出した。僕は母さんの少し後ろを歩いた。母さんのほっそりした後ろ姿は弱々しくて、僕が母をあんなにも強いと思っていたのが不思議に思えた。そして確信した。僕も母さんに呪いをかけていたのだと。
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