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16話(幸せとは)
月明かりに包まれた夜から、穏やかな日々が流れていった。
王都の噂は、まだ完全に消えたわけではなかった。
それでも、私たちにとってそれはもう何処か遠くで聞こえるただの雑音程度のものだった。
こうした日常の中で、世界はゆっくりと、しかし確実に変わろうとしていた。
女性が職業を持つことへの周囲の厳しい目も今では少しずつ和らいできている。
私が敬愛するクリスティーヌ・ド・ピザン先生。
貴女の言葉があったから、私は前を向くことができました。
誰もが平等に学べる世界。貴女が夢見たその世界を、この手で少しでも現実に近づけるために、私は一歩ずつ、今日という日を精一杯生きていきます。
そんな決意を胸に抱いて目覚めた。
と、ある朝のこと。
優しい風が、寝室のカーテンを揺らしていた。
私が目を覚ますと、すぐ隣には旦那様の横顔が静かな寝息を立てていた。
眠っていると思っていた彼の腕が、無意識のように私を引き寄せる。
「おはよう。アナスタシア」
低く、かすれた声がした。
「おはようございます、旦那様」
私が微笑むと、彼は目を細めた。
「起きるには、まだ少し早い気がするな。もう少しこうしていたい」
「でも朝食の時間が……」
「もう少しだけ」
優しく笑いながら旦那様は私の額に軽く口づける。
朝の静けさの中、私たちはしばらく抱き合ったまま、お互いの温もりを感じ合った。
ずっとこうしていたいけれど容赦なく時間は過ぎていく。
ほどきかけた私の腕に再び力がこもり、最後にもう一度だけ、軽く口づけを落とされる。
止まっていた時間が動き出したみたいに、私たちは現実へと引き戻され、身支度を始める。
朝の食堂。
既に席に着いていたお義姉様が、二人の姿を見て、にやりと笑った。
「あら。今日は随分と機嫌がよろしいようね、アラン」
「姉上」
旦那様が苦笑する。
私は少し照れながら席に着いた。
美味しそうな香りに誘われて、自然と会話が弾んだ。
ふと、旦那様が思い出したように口を開いた。
「そういえば姉上。ロイド殿とは、その後どうなっているんです?」
「ぶっ!」
お義姉様が思わず水を吹き出しそうになった。
「な、なによ急に!」
「少し気になっただけです」
涼しい顔で答える弟に、お義姉様は頬を赤くする。
「が、頑張っているところよ」
「ほう。なるほど」
旦那様が笑いを耐えている。
「ですがロイド殿は人気がありますからね。狙っている令嬢も多いと聞きます」
「わ、分かってるわよそんなこと!」
お義姉様がカトラリーを落とした。
「今度こそ、わたくしだって負けないんだから」
その様子に、思わず私がくすりと笑ってしまう。
「お義姉様なら、きっと大丈夫です」
「きっととは何よ、失礼ね! そんなことより早くしないと二人とも遅れるわよ」
私たちは驚いて壁の時計に目を向けた。
「もうこんな時間」
「なんだ、ゆっくりお茶を飲む暇もないのか」
私たちは慌てて食事を頬張る。
「残ったデザートは、わたくしが全部食べてあげるから二人とも心配しないでさっさと行きなさい」
「残念!」
お義姉様の恋はまだ始まったばかりです。
朝の光に満たされた食堂に、明るい笑い声が響いている。壁にかかった鏡の前で、軽く身だしなみを確認しながら、私はふと思うのです。
あの頃の私はただ、旦那様のそばで時々顔を見られるだけで充分幸せだと思っていた。
それなのに今では毎日こうして一緒に過ごしている。
幸せとは慣れてしまうと、どんどん欲張りになりそうで少し怖い。
だけど怖いと思えるほど満たされているのなら、それもまた幸せなのかもしれない。
だからこそ私はこの幸せをあたりまえとは思わずに今日という日を大切に過ごしていこう。
噂も、過去の不安も、もう私たちを縛ることはできないのだから。
「おーい、アナスタシア。遅れるぞ、早く!」
遠くから聞こえる愛しい声に、私はくすりと笑みをこぼした。
「はーい、旦那様。今すぐ行きます!」
こうして今日も、私たちの忙しい一日が始まるのです。
完
《追伸》
この話に登場するロイドたち三人の家族は前作の【《完結》暴言と浮気を繰り返す婚約者】の中の登場人物たちです。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/282591553/918012854
王都の噂は、まだ完全に消えたわけではなかった。
それでも、私たちにとってそれはもう何処か遠くで聞こえるただの雑音程度のものだった。
こうした日常の中で、世界はゆっくりと、しかし確実に変わろうとしていた。
女性が職業を持つことへの周囲の厳しい目も今では少しずつ和らいできている。
私が敬愛するクリスティーヌ・ド・ピザン先生。
貴女の言葉があったから、私は前を向くことができました。
誰もが平等に学べる世界。貴女が夢見たその世界を、この手で少しでも現実に近づけるために、私は一歩ずつ、今日という日を精一杯生きていきます。
そんな決意を胸に抱いて目覚めた。
と、ある朝のこと。
優しい風が、寝室のカーテンを揺らしていた。
私が目を覚ますと、すぐ隣には旦那様の横顔が静かな寝息を立てていた。
眠っていると思っていた彼の腕が、無意識のように私を引き寄せる。
「おはよう。アナスタシア」
低く、かすれた声がした。
「おはようございます、旦那様」
私が微笑むと、彼は目を細めた。
「起きるには、まだ少し早い気がするな。もう少しこうしていたい」
「でも朝食の時間が……」
「もう少しだけ」
優しく笑いながら旦那様は私の額に軽く口づける。
朝の静けさの中、私たちはしばらく抱き合ったまま、お互いの温もりを感じ合った。
ずっとこうしていたいけれど容赦なく時間は過ぎていく。
ほどきかけた私の腕に再び力がこもり、最後にもう一度だけ、軽く口づけを落とされる。
止まっていた時間が動き出したみたいに、私たちは現実へと引き戻され、身支度を始める。
朝の食堂。
既に席に着いていたお義姉様が、二人の姿を見て、にやりと笑った。
「あら。今日は随分と機嫌がよろしいようね、アラン」
「姉上」
旦那様が苦笑する。
私は少し照れながら席に着いた。
美味しそうな香りに誘われて、自然と会話が弾んだ。
ふと、旦那様が思い出したように口を開いた。
「そういえば姉上。ロイド殿とは、その後どうなっているんです?」
「ぶっ!」
お義姉様が思わず水を吹き出しそうになった。
「な、なによ急に!」
「少し気になっただけです」
涼しい顔で答える弟に、お義姉様は頬を赤くする。
「が、頑張っているところよ」
「ほう。なるほど」
旦那様が笑いを耐えている。
「ですがロイド殿は人気がありますからね。狙っている令嬢も多いと聞きます」
「わ、分かってるわよそんなこと!」
お義姉様がカトラリーを落とした。
「今度こそ、わたくしだって負けないんだから」
その様子に、思わず私がくすりと笑ってしまう。
「お義姉様なら、きっと大丈夫です」
「きっととは何よ、失礼ね! そんなことより早くしないと二人とも遅れるわよ」
私たちは驚いて壁の時計に目を向けた。
「もうこんな時間」
「なんだ、ゆっくりお茶を飲む暇もないのか」
私たちは慌てて食事を頬張る。
「残ったデザートは、わたくしが全部食べてあげるから二人とも心配しないでさっさと行きなさい」
「残念!」
お義姉様の恋はまだ始まったばかりです。
朝の光に満たされた食堂に、明るい笑い声が響いている。壁にかかった鏡の前で、軽く身だしなみを確認しながら、私はふと思うのです。
あの頃の私はただ、旦那様のそばで時々顔を見られるだけで充分幸せだと思っていた。
それなのに今では毎日こうして一緒に過ごしている。
幸せとは慣れてしまうと、どんどん欲張りになりそうで少し怖い。
だけど怖いと思えるほど満たされているのなら、それもまた幸せなのかもしれない。
だからこそ私はこの幸せをあたりまえとは思わずに今日という日を大切に過ごしていこう。
噂も、過去の不安も、もう私たちを縛ることはできないのだから。
「おーい、アナスタシア。遅れるぞ、早く!」
遠くから聞こえる愛しい声に、私はくすりと笑みをこぼした。
「はーい、旦那様。今すぐ行きます!」
こうして今日も、私たちの忙しい一日が始まるのです。
完
《追伸》
この話に登場するロイドたち三人の家族は前作の【《完結》暴言と浮気を繰り返す婚約者】の中の登場人物たちです。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/282591553/918012854
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