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1話
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ある日、見知らぬ子供が屋敷を訪ねて来た。
「ここに……パパはいますか?」
戸口でそう尋ねた少年に、執事のジョゼフは一瞬だけ眉をひそめ、すぐにいつもの礼儀正しい表情に戻った。
「奥様、いかがいたしましょうか?」
ジョゼフが困ったようにわたくしへ振り返る。
あまりにも旦那様に似ているその子供に、嫌な予感が働いた。
「そうね……だったら僕、ちょっとこちらに来てくれるかしら?」
「うん、いいよ」
わたくしは少年を屋敷の廊下へ案内し、飾られている旦那様の姿絵を指し示した。
「あっ……パパだ!」
少年の弾んだ声に、ジョゼフとわたくしは思わず目を合わせる。
彼は気まずそうに視線を落とした。
ーーーー
わたくしがこの屋敷の主人である侯爵様に嫁いで来たのは三か月前。
結婚式までわずか三日と迫ったその時、戦地の急激な情勢悪化により王命が下った。
侯爵様は自領の兵を率いるよう命じられ、急遽、戦地へと出立されることになった。
東の国境での戦況が劣勢を強いられているため、侯爵様ご自身が直接、軍の指揮を執ることになったという。
きれいに飾りつけられた会場も、わたくしのウェディングドレスも、すべてが無意味になり、招待客へ急いで中止の連絡を取った。
侯爵様は結婚の誓いを交わす間もなく軍服に着替え、『必ず帰る』と一言だけ残して、夜中に馬で駆けて行った。
結婚式を挙げることなく侯爵夫人になったわたくしは、広い屋敷にぽつんと取り残され、ただ夫の無事を祈る日々を送っていた。
そんな状況の中、現れたのがあの少年だった。
今年で十歳になるという。
旦那様は現在二十八歳。
つまり、わたくしが十八歳の今と同じ年頃に、旦那様は彼の父になっていたことになる。
胸に冷たいものが落ちた。
ーーーー
「奥様……申し訳ございません。この件、旦那様から何も伺っておらず……」
ジョゼフが深く頭を下げる。
「いいのよ、ジョゼフ。貴方が責任を感じることではありませんわ。貴方は何も知らなかったのですもの」
わたくしは微笑み、少年に向き直った。
「あなたのお名前は?」
「ルカだよ。ママがね、お買い物が終わったらここに迎えに来るって……だから、それまで待っててもいい?」
ジョゼフの表情がさらに曇る。
「とりあえず、少し待ってみましょうか」
けれど、日が傾いても母親は来なかった。
空が茜色に染まりきっても。
(……まさか、置き去りにするつもり?)
「やはり……来ないようね」
わたくしの呟きに、ルカは不安げに袖をつかんだ。
「ママ、何かあったのかもしれない。きっと迎えに来るよね?」
金色の瞳、旦那様とまったく同じ色。
「そうね。でも日が暮れてしまったわ。今夜はここに泊まりましょう。お腹は空いている?」
「うん! すごく空いてる!」
「ジョゼフ、厨房へ伝えて。この子に温かいスープと何か食べる物を。それからお部屋も整えさせて」
「かしこまりました、奥様」
ーーーー
その夜も、翌日も、そのまた翌日も、母親は姿を見せなかった。
(……困ったことになりましたわ)
執務をしながら、静かに苦笑する。
けれど同時に、確信も深まっていた。
子供に話を聞けば、旦那様は戦場に向かう直前まで彼女のもとへ通っていたようだ。
その女性が、わざとこの子を屋敷へ置き去りにした理由。
(わたくしを侯爵夫人の座から追い出すため……そういう魂胆でしょうね)
それならば……。
わたくしは静かな笑みを浮かべた。
(その思惑、すべて優雅にひっくり返して差し上げますわ)
「ここに……パパはいますか?」
戸口でそう尋ねた少年に、執事のジョゼフは一瞬だけ眉をひそめ、すぐにいつもの礼儀正しい表情に戻った。
「奥様、いかがいたしましょうか?」
ジョゼフが困ったようにわたくしへ振り返る。
あまりにも旦那様に似ているその子供に、嫌な予感が働いた。
「そうね……だったら僕、ちょっとこちらに来てくれるかしら?」
「うん、いいよ」
わたくしは少年を屋敷の廊下へ案内し、飾られている旦那様の姿絵を指し示した。
「あっ……パパだ!」
少年の弾んだ声に、ジョゼフとわたくしは思わず目を合わせる。
彼は気まずそうに視線を落とした。
ーーーー
わたくしがこの屋敷の主人である侯爵様に嫁いで来たのは三か月前。
結婚式までわずか三日と迫ったその時、戦地の急激な情勢悪化により王命が下った。
侯爵様は自領の兵を率いるよう命じられ、急遽、戦地へと出立されることになった。
東の国境での戦況が劣勢を強いられているため、侯爵様ご自身が直接、軍の指揮を執ることになったという。
きれいに飾りつけられた会場も、わたくしのウェディングドレスも、すべてが無意味になり、招待客へ急いで中止の連絡を取った。
侯爵様は結婚の誓いを交わす間もなく軍服に着替え、『必ず帰る』と一言だけ残して、夜中に馬で駆けて行った。
結婚式を挙げることなく侯爵夫人になったわたくしは、広い屋敷にぽつんと取り残され、ただ夫の無事を祈る日々を送っていた。
そんな状況の中、現れたのがあの少年だった。
今年で十歳になるという。
旦那様は現在二十八歳。
つまり、わたくしが十八歳の今と同じ年頃に、旦那様は彼の父になっていたことになる。
胸に冷たいものが落ちた。
ーーーー
「奥様……申し訳ございません。この件、旦那様から何も伺っておらず……」
ジョゼフが深く頭を下げる。
「いいのよ、ジョゼフ。貴方が責任を感じることではありませんわ。貴方は何も知らなかったのですもの」
わたくしは微笑み、少年に向き直った。
「あなたのお名前は?」
「ルカだよ。ママがね、お買い物が終わったらここに迎えに来るって……だから、それまで待っててもいい?」
ジョゼフの表情がさらに曇る。
「とりあえず、少し待ってみましょうか」
けれど、日が傾いても母親は来なかった。
空が茜色に染まりきっても。
(……まさか、置き去りにするつもり?)
「やはり……来ないようね」
わたくしの呟きに、ルカは不安げに袖をつかんだ。
「ママ、何かあったのかもしれない。きっと迎えに来るよね?」
金色の瞳、旦那様とまったく同じ色。
「そうね。でも日が暮れてしまったわ。今夜はここに泊まりましょう。お腹は空いている?」
「うん! すごく空いてる!」
「ジョゼフ、厨房へ伝えて。この子に温かいスープと何か食べる物を。それからお部屋も整えさせて」
「かしこまりました、奥様」
ーーーー
その夜も、翌日も、そのまた翌日も、母親は姿を見せなかった。
(……困ったことになりましたわ)
執務をしながら、静かに苦笑する。
けれど同時に、確信も深まっていた。
子供に話を聞けば、旦那様は戦場に向かう直前まで彼女のもとへ通っていたようだ。
その女性が、わざとこの子を屋敷へ置き去りにした理由。
(わたくしを侯爵夫人の座から追い出すため……そういう魂胆でしょうね)
それならば……。
わたくしは静かな笑みを浮かべた。
(その思惑、すべて優雅にひっくり返して差し上げますわ)
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