《完結》悪女と噂されたわたくしのざまぁ

ヴァンドール

文字の大きさ
2 / 12

2話

しおりを挟む
 翌朝、わたくしは早くに目を覚まし、残りの部屋の掃除を始めた。
 窓の外では薄い朝靄が庭の芝を覆い、まだ冷たい空気が頬をくすぐる。
 本当なら使用人の方にもこちらの片付けを手伝っていただきたかったけれど、人数がわずか五人だけだと聞いたので、無理を言うのはやめておいた。
 埃を払い、床を磨きながら、静かな朝の空気を感じていたその時、どこからか、かすかな猫の鳴き声がした。

「あら? どこから聞こえるのかしら?」

 わたくしは手を止め、耳を澄ませた。けれど、辺りを見回しても姿は見えない。

「おかしいわね。確かに聞こえたはずなのに」

 小首を傾げながら再び掃除を続けていると、また微かな鳴き声が。
 今度はもう少し近い。どうやら隣の部屋の方かしら。

 そっと扉を開けると、薄暗い部屋の隅で、家具とソファの狭い隙間に小さな影が挟まっていた。よく見るとそれは、痩せこけた黒猫だった。毛はところどころ抜け、肋骨が浮かび上がっている。

 思わず息を呑み、そっと抱き上げる。
 軽すぎるその体に胸が締め付けられ、わたくしはすぐに声をかけた。

『可哀想に挟まって、出れなくなってしまったのね。待っていて、すぐにミルクを持ってくるわね』

 黒猫を自室の布団にそっと寝かせ、わたくしは裾を少し持ち上げながら急ぎ足で本宅へ向かった。


 厨房では、コック長が鍋の前で忙しく働いていたが、わたくしの姿を見るなり振り向いて

「奥様。おはようございます。どうなさいましたか?」

「ミルクを少しいただけますか?」

「はい、すぐにお持ちします」

 彼は慌ただしく手を拭き、瓶のミルクを器に注いで差し出してくれた。

「もうすぐ朝食の支度も整いますので、お呼びに伺おうと思っていたところでした」

「ありがとうございます。このミルクを猫ちゃんにあげたら、すぐに参りますわ」

 そう言うと、コック長がふと首を傾げ

「猫とおっしゃいましたか? もしかして黒い猫ではありませんか?」

「ええ、そうです。黒猫ですわ」

「そうでしたか。ここ最近まったく姿を見かけなかったので、気にかけていたのです」

「ということは、このお屋敷で飼われているのですか?」

「いえ、正式に飼っているわけではございません。ただ、ずっと昔からこの屋敷に棲みついておりまして。けれど、ここしばらくは姿を消していたのです」

 と教えてくれた。その時、本宅の廊下の方から、低く通る声が聞こえてきた。
 旦那様が、見知らぬ女性を腕にぶらさげ、こちらへ歩いてくるのが見えた。

「お前、本宅に何しに来た?」

 彼の険しい声に、厨房の空気が少し張りつめた。

「猫にあげるミルクをいただきに参っただけですわ」

「まさか、あの黒猫ではあるまいな?」

「あの黒猫と言われましても、わたくしには分かりかねますが」

「黒猫だったら駄目だ。あれは不吉な猫だ」

 わたくしはその言葉を、軽く受け流し

「では、これで失礼いたします」

 そう言って立ち去ろうとした瞬間、旦那様が声を上げた。

「待て。これからのために紹介しておく」

 そう言いながら、隣の女性の肩を抱き寄せ、得意げに

「彼女が俺の愛するマーガレットだ。そしてこっちが、悪女で名高い一応、伯爵令嬢だったローズだ」

 女はわたくしを上から下まで眺め、唇を歪め

「ふん。とても元伯爵令嬢には見えないわね。何、その質素なドレスは」

 その言葉に、わたくしは微笑み

「まあ、わたくしの服装などどうでもよろしいでしょう? いずれ貴女の恋人が侯爵位を継がれた暁には、わたくしが侯爵夫人ですもの」

 すると、女の顔に一瞬、言葉を失ったような表情が浮かんだ。
 それ以上は、言葉を交わすのも馬鹿らしくなり、わたくしはコック長にだけ穏やかに微笑んだ。

「では、後ほど朝食の席に伺いますね」

 背後で、旦那様の怒鳴り声が響いた。

「何が侯爵夫人だ! 俺は認めんぞ! それに黒猫など飼うことは許さん!」

 わたくしはその声を涼しい顔で無視しながら、心の中でそっと呟いた。

『認める、認めないではなく、このままいけば、いずれそうなるのです。ほんとうにおバカさんね』


 離れに戻ると、布団の上でぐったりしていた猫が、わたくしの足音にかすかに耳を動かした。
 皿に移したミルクをスプーンで少しずつ口元へ運ぶと、細い舌がぺろりと動いて舐め始めた。

「よく頑張ったわね。お名前がないと不便だわ、何がいいかしら?」

 少し考え、ふと昔を思い出した。

「そうだわ、ニール。あなたのお名前はニールにしましょう」

 幼い頃、わたくしが飼っていた猫と同じ名前。
 黒猫ではなかったけれど、あの子、とても賢くて優しい子だったわ。


 その後、ニールを布団の上に寝かせ、わたくしは本宅へ朝食のために向かった。
 厨房ではコック長が申し訳なさそうに頭を下げ

「先ほどは災難でしたね、奥様」

 わたくしは微笑みながら礼を述べ、昨夜と同じように使用人の方々と食卓を囲んだ。

 パンを食べながら、メイド長がふと昔話を始めた。その話によると、なんでも、旦那様には一つ下に弟君がいらした。
 その日は乳母の息子と仲良く離れで遊んでいたが、夕方になっても戻らなかった。心配した使用人たちが探しに行ったものの、弟君だけが、どこにも姿が見当たらず、その後、治安部隊や自警団による大規模な捜索が行われたが、結局見つからなかったという。

 そして、その出来事からしばらく経った頃、乳母夫妻とその息子が流行病で三人共に、命を落としたのだ。その時、乳母たちが飼っていた猫の家族もいつの間にか姿を消したが何故か、黒猫だけが戻って来て、離れに住み着いたそうだ。
 結局、弟君はそれ以来、行く方不明のままだという。

 その当時の侯爵夫人は、立て続けに起こったそれらの出来事に心を痛めてしまい、病に倒れ、侯爵様と共に領地へ引きこもられたそうだ。

「え、旦那様には一つ違いの弟さんがいたのですか?」

「はい、とても可愛らしく利発なお子様でした」

 執事のトーマスさんが悲しい顔で俯いた。

『だから、先ほど旦那様は不吉な猫などと言っていたのね』と心の中で思った。

「では今、わたくしの居る離れがその時の……」

 そう言いかけると皆、急に黙ってしまわれた。

 わたくしは納得し、食後のお茶を口にした。そして、席を立とうとしたとき、メイド長が声をかけてきた。

「奥様、離れのお掃除が遅くなり申し訳ありません。これから伺ってもよろしいでしょうか?」

 わたくしは何ともないふりをして

「ありがとう。でもこちらも人手が足りないのでしょう? わたくしなら大丈夫よ。それに、大体は終わっているから安心してちょうだい」

 そう言って、再び離れへと戻った。

 扉を開けると、陽が少し高くなり、窓辺に暖かい光が差し込んでいた。
 その光の中で、黒猫のニールが小さく喉を鳴らして眠っていた。

 わたくしはそっと微笑み、不吉? とんでもない。
 『この子は、きっと幸運を運んでくれるに違いないわ』
 何故か確信めいて呟いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄で悪役令嬢を辞めたので、今日から素で生きます。

黒猫かの
恋愛
「エリー・オルブライト! 貴様との婚約を破棄する!」 豪華絢爛な夜会で、ウィルフレッド王子から突きつけられた非情な宣告。 しかし、公爵令嬢エリーの心境は……「よっしゃあ! やっと喋れるわ!!」だった。

鈍感令嬢は分からない

yukiya
恋愛
 彼が好きな人と結婚したいようだから、私から別れを切り出したのに…どうしてこうなったんだっけ?

知らぬが花

鳥柄ささみ
恋愛
「ライラ・アーデ嬢。申し訳ないが、キミとの婚約は破棄させてもらう」 もう何度目かわからないやりとりにライラはショックを受けるも、その場では大人しく受け入れる。 これでもう婚約破棄と婚約解消あわせて十回目。 ライラは自分に非があるのではと自分を責めるも、「お義姉様は何も悪くありません。相手の見る目がないのです」と義弟であるディークハルトにいつも慰められ、支えられていた。 いつもライラに親身になって肯定し、そばにいてくれるディークハルト。 けれど、ある日突然ディークハルトの訃報が入ってくる。 大切な義弟を失い、泣き崩れて塞ぎ込むライラ。 そんなライラがやっと立ち直ってきて一年後、とある人物から縁談の話がやってくるのだった。

婚約者を友人に奪われて~婚約破棄後の公爵令嬢~

tartan321
恋愛
成績優秀な公爵令嬢ソフィアは、婚約相手である王子のカリエスの面倒を見ていた。 ある日、級友であるリリーがソフィアの元を訪れて……。

完結 女性に興味が無い侯爵様、私は自由に生きます

ヴァンドール
恋愛
私は絵を描いて暮らせるならそれだけで幸せ! そんな私に好都合な相手が。 女性に興味が無く仕事一筋で冷徹と噂の侯爵様との縁談が。 ただ面倒くさい従妹という令嬢がもれなく付いてきました。

なぜ、虐げてはいけないのですか?

碧井 汐桜香
恋愛
男爵令嬢を虐げた罪で、婚約者である第一王子に投獄された公爵令嬢。 処刑前日の彼女の獄中記。 そして、それぞれ関係者目線のお話

愛を騙るな

篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」 「………」 「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」 王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。 「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」 「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」 「い、いや、それはできぬ」 「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」 「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」 途端、王妃の嘲る笑い声が響く。 「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

処理中です...