10 / 22
10話
しおりを挟む
眩しいほどの午後の陽射しが、庭の隅々まで照らしている
エクセラル子爵邸の庭は、よく手入れが行き届いている。決して種類は多くはないが、季節ごとの花々が、絶えることなく咲いている。
亡くなった母の遺志を継いで、父と兄が守ってきた。
この家らしさがよく表れている庭だと、私は思う。
日除けのついた椅子に腰掛け、読みかけの本を膝の上に置く。
(ああ、なんて、静かで落ち着くのかしら)
それに気づいた自分に、少しだけ戸惑う。
ほんの少し前まで、胸の奥に常にあった緊張が、今は嘘のように和らいでいる。
勿論、理由は分かっていた。
怒鳴られる心配がない。
機嫌を窺う必要もない。
言葉を選ぶ疲れがない。
それだけで、人はこんなにも楽になれるのね。
「ここにいらしたのですね」
穏やかな声がして、顔を上げる。
ランガー様だった。
今日は兄と仕事の打ち合わせで屋敷を訪れていた。
「お邪魔でしたか?」
「いいえ。少し、考え事をしていただけです」
彼は無理に隣へ来ることはせず、数歩離れた場所に立った。
「庭が好きだと、ロイド殿から聞きました」
「はい。ここに居ると、とても落ち着くんです。亡くなった母が自ら、手入れをしていた庭なんですよ」
「そうでしたか」
それだけ言って、黙る。そんな沈黙が、不思議と心地よかった。
これまでの人生では、沈黙を恐れ、常に言葉を探していた。
(早く次の言葉を話さなければ)と、その繰り返しが苦痛だった。
「変な話ですが」
ふと、口を開いていた。
「私、最近思うのです。自分はどうしてこんなにも相手の顔色ばかり気にしていたのか」
「はい」
相槌は、急かすためではなく、聞いているという合図のように思えた。
「いつも先に相手の気持ちばかり考えてしまって。『これを言ったら嫌われるんじゃないか、怒らせてしまうんじゃないか』そんなふうに怯えることが、癖になっていたんです」
ランガー様は、ほんの少し黙ってから視線を上げた。
「それは、とても疲れる癖ですね」
否定もしない。
責めもしない。
「でも最近、それをしなくてもいい時間が増えました」
私は、視線をランガー様に向けた。
「何も考えずにこうしていられるのが、こんなに楽だとは思いませんでした」
「それは、良い変化だと思います」
「そう、でしょうか」
「ええ。貴女は『何も考えずにいるのが楽』と言いましたが、正確には、誰かの機嫌や反応を、常に気にしなくていいことが、楽なのだと思います」
私は首を傾げる。そんなこと、意識したことなどなかったから。
「人は本来、無意識に何かを考えてしまうものです。ですが、それは呼吸のように自然なことだから、本来は疲れない。今の貴女は、それが出来るようになったのです」
その言葉が、胸に深く染み込んだ。
それは、誰かの顔色のために隠していた心が、ようやく、呼吸を始めた感覚だった。
「そうですよね。人は常に何かを考えている。逆に何も考えないでいることの方が難しいのですよね」
「その通りです。心を無にすることはとても難しいのです」
「何となく、理解が出来ます。そう言えば私、最近はそんな自然の呼吸が出来ているような気がします」
「それは良かったです」
ランガー様は、少し考えてから言った。
「急ぐ必要は、ありません。ゆっくりで良いのです。今の貴女なら、段々と慣れていきますよ」
その言葉は、とても優しかった。
(ああ、この人は)
急かさない。
押し付けない。
待ってくれる。
私は、初めて思った。
(今なら、私、ちゃんと自分の足で立てるかもしれない)
エクセラル子爵邸の庭は、よく手入れが行き届いている。決して種類は多くはないが、季節ごとの花々が、絶えることなく咲いている。
亡くなった母の遺志を継いで、父と兄が守ってきた。
この家らしさがよく表れている庭だと、私は思う。
日除けのついた椅子に腰掛け、読みかけの本を膝の上に置く。
(ああ、なんて、静かで落ち着くのかしら)
それに気づいた自分に、少しだけ戸惑う。
ほんの少し前まで、胸の奥に常にあった緊張が、今は嘘のように和らいでいる。
勿論、理由は分かっていた。
怒鳴られる心配がない。
機嫌を窺う必要もない。
言葉を選ぶ疲れがない。
それだけで、人はこんなにも楽になれるのね。
「ここにいらしたのですね」
穏やかな声がして、顔を上げる。
ランガー様だった。
今日は兄と仕事の打ち合わせで屋敷を訪れていた。
「お邪魔でしたか?」
「いいえ。少し、考え事をしていただけです」
彼は無理に隣へ来ることはせず、数歩離れた場所に立った。
「庭が好きだと、ロイド殿から聞きました」
「はい。ここに居ると、とても落ち着くんです。亡くなった母が自ら、手入れをしていた庭なんですよ」
「そうでしたか」
それだけ言って、黙る。そんな沈黙が、不思議と心地よかった。
これまでの人生では、沈黙を恐れ、常に言葉を探していた。
(早く次の言葉を話さなければ)と、その繰り返しが苦痛だった。
「変な話ですが」
ふと、口を開いていた。
「私、最近思うのです。自分はどうしてこんなにも相手の顔色ばかり気にしていたのか」
「はい」
相槌は、急かすためではなく、聞いているという合図のように思えた。
「いつも先に相手の気持ちばかり考えてしまって。『これを言ったら嫌われるんじゃないか、怒らせてしまうんじゃないか』そんなふうに怯えることが、癖になっていたんです」
ランガー様は、ほんの少し黙ってから視線を上げた。
「それは、とても疲れる癖ですね」
否定もしない。
責めもしない。
「でも最近、それをしなくてもいい時間が増えました」
私は、視線をランガー様に向けた。
「何も考えずにこうしていられるのが、こんなに楽だとは思いませんでした」
「それは、良い変化だと思います」
「そう、でしょうか」
「ええ。貴女は『何も考えずにいるのが楽』と言いましたが、正確には、誰かの機嫌や反応を、常に気にしなくていいことが、楽なのだと思います」
私は首を傾げる。そんなこと、意識したことなどなかったから。
「人は本来、無意識に何かを考えてしまうものです。ですが、それは呼吸のように自然なことだから、本来は疲れない。今の貴女は、それが出来るようになったのです」
その言葉が、胸に深く染み込んだ。
それは、誰かの顔色のために隠していた心が、ようやく、呼吸を始めた感覚だった。
「そうですよね。人は常に何かを考えている。逆に何も考えないでいることの方が難しいのですよね」
「その通りです。心を無にすることはとても難しいのです」
「何となく、理解が出来ます。そう言えば私、最近はそんな自然の呼吸が出来ているような気がします」
「それは良かったです」
ランガー様は、少し考えてから言った。
「急ぐ必要は、ありません。ゆっくりで良いのです。今の貴女なら、段々と慣れていきますよ」
その言葉は、とても優しかった。
(ああ、この人は)
急かさない。
押し付けない。
待ってくれる。
私は、初めて思った。
(今なら、私、ちゃんと自分の足で立てるかもしれない)
110
あなたにおすすめの小説
愛人の生活費も、お願いします 〜ATM様、本日もよろしくてよ〜【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
政略結婚で結ばれた王子ザコットと、氷のように美しい公爵令嬢ビアンカ。だが、ザコットにはすでに愛する男爵令嬢エイミーがいた。
結婚初夜、彼はビアンカに冷酷な宣言を突きつける。
「お前を愛することはない。俺には愛する人がいる。このエイミーだ」
だが、ビアンカは静かに微笑み、こう返す。
「では、私の愛人の生活費も、お願いします」
──始まったのは、王子と王子妃の熾烈な政略バトル。
愛人を連れて食卓に現れるビアンカ。次々と辞表を出す重臣たち、そしてエイミーの暴走と破滅……。
果たして、王子ザコットの運命やいかに!?
氷の王子妃と炎の愛人が織りなす、痛快逆転宮廷劇!
⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。 コメディーです。
「10歳の頃の想いなど熱病と同じ」と婚約者は言いました──さようなら【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王太子フリードリヒの婚約者として、幼い頃から王妃教育を受けてきたアメリア・エレファウント公爵令嬢。
誰もが羨む未来を約束された彼女の世界は、ある日突然1人の少女の登場によって揺らぎ始める。
無邪気な笑顔で距離を(意図的に)間違える編入生ベルティーユは、男爵の庶子で平民出身。
ベルティーユに出会ってから、悪い方へ変わっていくフリードリヒ。
「ベルが可哀想だろ」「たかがダンスくらい」と話が通じない。
アメリアの積み上げてきた7年の努力と誇りが崩れていく。
そしてフリードリヒを見限り、婚約解消を口にするが話は進まず、学園の卒業パーティーで断罪されてしまう……?!
⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています
【完結】六歳下の幼馴染に溺れた夫。白い結婚を理由に離縁を申し立てたら、義弟(溺愛)に全力で求婚されました
恋せよ恋
恋愛
夫が愛でるのは、守ってあげたくなるような「可憐な少女」。
夫が疎むのは、正論で自分を追い詰める「完璧な妻」。
「シンシア、君はしっかりしているから、大丈夫だろう?」
六歳年下の幼馴染ジェニファー子爵令嬢を気遣う貴方。
私たちは、新婚初夜さえ済ませていないのよ?
完璧な家政、完璧な社交。私が支えてきたこの家から、
ニコラス、貴方って私がいなくなったらどうなるか……。
考えたこともないのかしら?
義弟シモンは、学生時代の先輩でもあるシンシアを慕い
兄ニコラスの態度と、幼馴染ジェニファーを嫌悪する。
泣いて縋るあざとい少女と、救世主気取りの愚かな夫。
そして、義姉であるシンシアを慕うシモン。
これは、誇り高き伯爵夫人、シンシアの物語である。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
断罪された薔薇の話
倉真朔
恋愛
悪名高きロザリンドの断罪後、奇妙な病気にかかってしまった第二王子のルカ。そんなこと知るよしもなく、皇太子カイルと彼の婚約者のマーガレットはルカに元気になってもらおうと奮闘する。
ルカの切ない想いを誰が受け止めてくれるだろうか。
とても切ない物語です。
この作品は、カクヨム、小説家になろうにも掲載中。
婚約者様への逆襲です。
有栖川灯里
恋愛
王太子との婚約を、一方的な断罪と共に破棄された令嬢・アンネリーゼ=フォン=アイゼナッハ。
理由は“聖女を妬んだ悪役”という、ありふれた台本。
だが彼女は涙ひとつ見せずに微笑み、ただ静かに言い残した。
――「さようなら、婚約者様。二度と戻りませんわ」
すべてを捨て、王宮を去った“悪役令嬢”が辿り着いたのは、沈黙と再生の修道院。
そこで出会ったのは、聖女の奇跡に疑問を抱く神官、情報を操る傭兵、そしてかつて見逃された“真実”。
これは、少女が嘘を暴き、誇りを取り戻し、自らの手で未来を選び取る物語。
断罪は終わりではなく、始まりだった。
“信仰”に支配された王国を、静かに揺るがす――悪役令嬢の逆襲。
罠に嵌められたのは一体誰?
チカフジ ユキ
恋愛
卒業前夜祭とも言われる盛大なパーティーで、王太子の婚約者が多くの人の前で婚約破棄された。
誰もが冤罪だと思いながらも、破棄された令嬢は背筋を伸ばし、それを認め国を去ることを誓った。
そして、その一部始終すべてを見ていた僕もまた、その日に婚約が白紙になり、仕方がないかぁと思いながら、実家のある隣国へと帰って行った。
しかし帰宅した家で、なんと婚約破棄された元王太子殿下の婚約者様が僕を出迎えてた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる