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39、舞踏会
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アレクシスがシャンデリアの下、優雅に踊っている。
相手の女性は頬を染め、潤んだ瞳でアレクシスを見上げている。
その様子を眺めながら、クリスティーナはひとり、壁の花ならぬ、食事が並んだテーブル脇の添え物になっていた。今、ふたりは王都の貴族の館で開かれている舞踏会にきていた。
アレクシスたちを眺めているのは、何もクリスティーナばかりではない。令嬢たちは皆、踊っているいる二人を取り囲むように、遠目から眺めていた。しかしその眼差しは見守るという優しげなものではなく、嫉妬や羨み、焦り、あるいはやっかみといった負の感情ばかりだ。その負の感情がそそがれているのは相手の女性だけだ。アレクシスは、その対象ではない。
その目線を見るのも二度目となると慣れたもので、クリスティーナは、またかといった感情しか持たなかった。
実はアレクシスとクリスティーナが舞踏会に出席するのもこれで二度目だった。一度目は、王都の中心部、王宮にも近い公爵邸の舞踏会だった。
その時のことをクリスティーナは踊る二人をぼんやり眺めながら、思い出していた。
アレクシスは成人して以来、どこの夜会にも舞踏会にも出席してこなかった。それがかえって、貴族たちの心に火をつけたのか、舞踏会デビューを果たしているにもかかわらず、王太子がお披露目以来初めて顔を出す名誉を勝ちとろうと、貴族たちから届く招待状の量が日増しに多くなっていった。さすがにとうとうどこかの貴族の舞踏会に出席して、この熱を冷まさなければ、と思う頃合いで、ようやくアレクシスがひとつの舞踏会に出席することを決めた。その時たまたまクリスティーナが成人を迎えたのは、きっと偶然だろう。
そしてクリスティーナは自分の社交界デビューでもある公爵邸に、アレクシスと共に足を踏みいれたのだった。
着いた途端、花のようなドレスの波が押し寄せた。波にさらわれていったのは、アレクシスただひとり。クリスティーナは弾かれ、脇に追いやられるしかなかった。
あの可憐で細い体のどこに、そんな力があるのだろう。クリスティーナは唖然として、その熱気の塊のような輪を遠目で眺めるほかない。隅にある軽食が置かれているテーブルが目についたので、ひとまずそこで時を過ごすことにした。
その間も、アレクシスを取り巻く、目にも鮮やかなドレスの令嬢たちに目をやった。男物の服を着ている自分との立場の違いに、今まで感じたことのない痛みが走った。自分で選んだとはいえ、恋心を自覚してしまえば、その差は天と地ほどもあるような気がしてくる。
美しく着飾り、熱い目線を真っ向からぶつける令嬢たちと、地味な姿に装い、この想いに気付かれないように後ろからしか見つめることができない自分。
アレクシスの目に映ることができるのは、明らかに前者であり、クリスティーナではなかった。
マリアーナとの噂も下火になったことで、婚約者候補は白紙に戻り、令嬢たちの熱は再び燃え広がっている。王太子がお披露目以降初めての出席とあって、一部では公爵家の令嬢が婚約者候補ではないかとの噂ものぼっているときく。ただでさえ、鼻高々の公爵邸にそんな噂が耳に入れば、浮足立つのも時間の問題だろう。
果たして、アレクシスは、この場にいる令嬢たちから婚約者を選ぶのだろうかと、物思いに耽けりそうになり、クリスティーナは慌てて首を振った。
自ら従者になると、あの時決めたではないか。恋心を自覚したところで今更だ。アレクシスが誰を選ぼうと、彼の側で仕えることができればそれで充分である。今もその気持ちに迷いはないのだから。
クリスティーナは意識を違うほうに向けようと、目の前のテーブルに目をやった。大皿の上には、たくさんの料理がのっていた。ガチョウや孔雀のソテー、レンズ豆とミンチ肉のパイ包み、鮭のキッシュなど、食べやすいように一口大に切られ、串が刺さっている。他にも、薄切りのパンやバケット、パイの上に、生ハムや白身魚のサフランソース添えや兎のグレービーソース添え、アスパラガスとベシャメルソース、レバーペーストなどが乗り、目にも楽しく色とりどりに並んでいる。ワインや蜂蜜酒、果実酒もふんだんに振る舞われている。さすが公爵家の舞踏会だ。
今日、アレクシスの付き添いでなかったら、このような豪華な食事を目にする機会も一生こなかったに違いない。貧乏子爵の四男に――正確には長女だが――誰が招待状など出すだろう。社交界デビューの機会さえなかったかもしれない。そう思うと、連れてきてくれたアレクシスに感謝しなければならない。
せっかく来たのだから、初めての舞踏会を少しでも良い思い出として記憶に残しておきたい。クリスティーナはここの料理を楽しもうと決めた。デザートのほうに足を向ければ、ワンパウンドケーキ、洋梨のコンポート、アップルムースやカレントレーズンパイ、ベリーのタルトなど、どれも見るからに美味しそうだった。どれから食べようかと、迷っていると横から声がかかった。
「はじめまして。わたくし、ボリバル・シャギレフ侯爵の娘、イヴァンナと申します」
まさか自分に声がかかるとは思わず、食事に気を取られていたクリスティーナは、慌てて相手に向き直った。
「――はじめまして。わたしはクリス・エメットと申します。――ちなみに我が家は子爵を賜っております」
デクスターの名を出さなかったのは、父とはもう言いたくなかったからだ。しかし、礼儀として、爵位は伝える。
クリスティーナはイヴァンナを見た。サテン生地をふんだんに使ったワインドレスが美しい、やや吊り目勝ちの美人だ。しかし、きつい感じは受けず、猫のような愛嬌さが感じ取れた。
クリスティーナは口を開いた。
「あの、わたしになにか?」
「ねえ、あなたは殿下の従者なのでしょう?」
突然の質問に、とりあえず頷く。
「はい、そうですが」
「やっぱり。ねえ、殿下って普段どのようなお方なの?」
イヴァンナの質問から、話しかけられた理由を得て、ひとり納得する。
(この人もアレク目当てなんだな)
イヴァンナが、離れたところにいる令嬢たちの輪に視線を向ける。
「あれじゃあ、とてもじゃないけど近付けないでしょ。一言も喋らずに終わるのが関の山だわ。それなら、殿下の近くにいるあなたに聞いて、すこしでも有益な情報を得たほうが、賢いじゃない?」
ねえ、とクリスティーナに同意を求める。その明け透けで裏表のない正直さに、クリスティーナはかえって笑ってしまった。早々にアレクシスに声をかけるのを諦める潔さもある。クリスティーナはイヴァンナに好感を持った。べったりとアレクシスに付き纏う令嬢より、よほど良かった。クリスティーナは頷いた。
「いいですよ。わたしで良ければ、相手になります」
それにここでひとりで立って手持ち無沙汰になるより、話し相手がいたほうが気が楽だ。
クリスティーナは話しても支障のない、アレクシスの子供話を、イヴァンナに聞かせ始めた。場が盛り上がって笑い合ってると、音楽を鳴り始めた。ダンスの時間だ。
イヴァンナをちらりと見る。
(誘ったほうがいいかな)
ダンスは男性から申し込むのが通例だ。イヴァンナがアレクシス目的だとしても、この状況からではクリスティーナから申し込むのが、礼儀だろう。
誘いの言葉を口にしようとしたところで、声がかかった。
「随分と楽しそうですね」
いつのまにか、令嬢たちの輪から抜け出したアレクシスがそばに来ていた。
「アレク――」
「殿下っ!」
イヴァンナが声をあげて、口元を覆う。その頬が一気に赤く染まる。
「一体、何の話をしていたのでしょう」
アレクシスがクリスティーナとイヴァンナの間に入る。驚きで喋れないイヴァンナに変わり、クリスティーナが説明する。
「アレク――、殿下の話をしてたんです」
アレクシスが眉をあげる。
「わたしの知らないところで?」
イヴァンナが必死に首を振って、アレクシスを潤んだ瞳で見上げる。
「決して、殿下の悪口では――」
アレクシスが鷹揚に頷く。
「わかってますよ。わたしがいる場所で、わたしの話をしているのに驚いただけです。なぜそんなことを? ――そんな紛らわしいことはせず、せっかくここにいるのですから、わたしが直接、あなたからわたしのことを伺いたいものですね。――お答えしますよ、美しい方」
最後の台詞とともに微笑めば、イヴァンナの顔は真っ赤に染まった。
「ちょうど、音楽も鳴り始めたようです。――踊りませんか、一曲」
アレクシスがイヴァンナに手を差し伸べれば、イヴァンナは目を見張るも、その手を恐る恐る手に取った。
二人が中央に出て踊り始めるのを、クリスティーナは見送った。
そうして、イヴァンナは王太子の今夜の初めて、かつ唯一の踊り手として、周りの令嬢たちから鋭い視線を受けながら、踊ったのだった。しかし当のイヴァンナは周りなど一切視界に入っていないかのようだった。その視線をアレクシスただひとりに注ぎ、うっとりとしてまるで幸せな表情そのものだった。
今、目のまえで踊っている令嬢の顔が、その時のイヴァンナの表情と重なった。その令嬢も、クリスティーナと先程話していた女性だった。
今度もまたアレクシスが取り囲まれているのを眺めているときに、声をかけられた。今回はアレクシスではなく、純粋に自分に興味があって、声をかけられたのだとわかった。相手は同じ子爵家の人間と名乗った。同じ家格同士気遣いの心配もなく、またクリスティーナは同じ年頃の同性と話した機会がなかったため、新鮮な気分で話し相手となった。
クリスティーナは気付いていなかったが、クリスティーナも知らず知らずのうちに、令嬢たちに目をつけられている立場となっていた。王太子妃の座を巡って公爵や侯爵といった上級貴族の令嬢と競って勝ち目のない戦をするよりも、子爵や男爵の下級貴族でなおかつ貧しい家の令嬢たちは、王太子の従者という、位はないが安定した将来を期待して、クリスティーナに目をつけたのである。おまけに王太子とは違う部類に入るものの、クリスティーナもまた整った容姿をしているのも、令嬢たちにとっては大きな得点である。自身の容姿に頓着のないクリスティーナが、笑顔で令嬢に顔を向けていると、アレクシスが現れた。
アレクシスが笑顔で令嬢に話しかければ、令嬢は途端にアレクシスだけにぽうっとなる。今まで話し相手になっていたクリスティーナなどまるで眼中に入らない。それも当然、諦めていた王太子妃の座という人参が急に目の前でぶら下がったのだから。少しでも冷静に考えれば、その人参は夢幻なのだが、急に現れたアレクシスの存在に圧倒されて、令嬢は人並みの理性を忘れてしまったようだ。そうでなくとも、アレクシスという魅力溢れる男性から誘われれば、女性は皆頷いてしまう。そのままぽうっとなって、アレクシスに手を引かれるまま、ダンスホールに向かってしまった。
クリスティーナは唖然として見送るほかない。
一度ならず二度までも、自分の目の前の女性を選んでいくアレクシスの思惑がわからない。ダンスの相手は先程囲んでいた令嬢たちを見る限り、いくらでもいるというのに。目の前から選べば簡単なのに、わざわざこちらに出向く理由が見当たらない。
クリスティーナは首をひねった。
(あれかな。人のものだと思うと、余計に欲しくなるっていう)
正確にはイヴァンナも先程の令嬢も、少しもクリスティーナのものではないが、楽しそうに話していたのが、アレクシスの目にとまったのかもしれない。囲んでいる令嬢の視線は既に自分に向けられているから、まだ自分を向いていない令嬢に興味を持ったのかもしれない。
クリスティーナはそんなふうに納得して、アレクシスの奔放さに溜め息を吐きつつ、羨ましげに二人を眺めたのだった。
一方、令嬢と踊っていたアレクシスは、熱に浮かされたように自分を見ている令嬢の視線を受け、内心安堵の溜め息を吐いた。
(これで、もうクリスに近づくことはないな)
会場に入った途端、令嬢たちに囲まれ、しばらく相手をしたまま輪の外を見れば、クリスティーナが女性と楽しげに話しているのが目に入った。その瞬間、アレクシスの瞳に霜がさっとおりたことを、周りの令嬢たちは誰一人気付くことはなかった。
踊りながら、アレクシスは回想する。
前回のイヴァンナは最初から杞憂に終わったようだ。話した内容を問えば、自分のことだと言う。笑い合って親しげだった雰囲気に、内心半信半疑にイヴァンナを見れば、その眼差しから真実だとわかった。クリスティーナに興味を抱いていないことを知れれば充分だ。
だが、クリスティーナはわからない。もしかしたら、相手に好意を抱いているかもしれないし、これから抱くかもしれない。仮にそうだとしても、それ以上は決して進ませない。だから、イヴァンナも、今踊っている令嬢もダンスの相手に選んだのだ。
アレクシスが選べば、その令嬢にアレクシスが少なからず好意を抱いている可能性が浮上する。アレクシス自身には好意など露ともなくとも、周りはそう判断する。
そうなれば、クリスティーナのことだ、決してそれ以上、令嬢に近づくことはなくなるだろう。アレクシスの胸のうちはクリスティーナにはわからないのだから。
マリアーナを公式に初めてのダンス相手に選んだのも同じ理由だ。
令嬢をリードしながら、羨ましげにこちらを見るクリスティーナに目線をやる。怒りで、令嬢の手を握りつぶしそうになる。
(女なんか見るな。俺だけ見てればいい。――お前は俺のものだ。誰にも渡すものか)
帰りの馬車の中、長い足を組んでクラヴァットを緩め、アレクシスが向かいのクリスティーナを見る。
「どうだ、気に入った令嬢はいたか?」
最後まで二人のダンスを見守ったクリスティーナは切なげに首を振った。
「ううん。いないよ」
「――そうか」
それを聞いてアレクシスは窓際に頬杖をついて、外の景色に目をやる。その隠された口元に満足気な薄い笑みが浮かんでいたことに、下を向いていたクリスティーナが気付くことはなかった。
相手の女性は頬を染め、潤んだ瞳でアレクシスを見上げている。
その様子を眺めながら、クリスティーナはひとり、壁の花ならぬ、食事が並んだテーブル脇の添え物になっていた。今、ふたりは王都の貴族の館で開かれている舞踏会にきていた。
アレクシスたちを眺めているのは、何もクリスティーナばかりではない。令嬢たちは皆、踊っているいる二人を取り囲むように、遠目から眺めていた。しかしその眼差しは見守るという優しげなものではなく、嫉妬や羨み、焦り、あるいはやっかみといった負の感情ばかりだ。その負の感情がそそがれているのは相手の女性だけだ。アレクシスは、その対象ではない。
その目線を見るのも二度目となると慣れたもので、クリスティーナは、またかといった感情しか持たなかった。
実はアレクシスとクリスティーナが舞踏会に出席するのもこれで二度目だった。一度目は、王都の中心部、王宮にも近い公爵邸の舞踏会だった。
その時のことをクリスティーナは踊る二人をぼんやり眺めながら、思い出していた。
アレクシスは成人して以来、どこの夜会にも舞踏会にも出席してこなかった。それがかえって、貴族たちの心に火をつけたのか、舞踏会デビューを果たしているにもかかわらず、王太子がお披露目以来初めて顔を出す名誉を勝ちとろうと、貴族たちから届く招待状の量が日増しに多くなっていった。さすがにとうとうどこかの貴族の舞踏会に出席して、この熱を冷まさなければ、と思う頃合いで、ようやくアレクシスがひとつの舞踏会に出席することを決めた。その時たまたまクリスティーナが成人を迎えたのは、きっと偶然だろう。
そしてクリスティーナは自分の社交界デビューでもある公爵邸に、アレクシスと共に足を踏みいれたのだった。
着いた途端、花のようなドレスの波が押し寄せた。波にさらわれていったのは、アレクシスただひとり。クリスティーナは弾かれ、脇に追いやられるしかなかった。
あの可憐で細い体のどこに、そんな力があるのだろう。クリスティーナは唖然として、その熱気の塊のような輪を遠目で眺めるほかない。隅にある軽食が置かれているテーブルが目についたので、ひとまずそこで時を過ごすことにした。
その間も、アレクシスを取り巻く、目にも鮮やかなドレスの令嬢たちに目をやった。男物の服を着ている自分との立場の違いに、今まで感じたことのない痛みが走った。自分で選んだとはいえ、恋心を自覚してしまえば、その差は天と地ほどもあるような気がしてくる。
美しく着飾り、熱い目線を真っ向からぶつける令嬢たちと、地味な姿に装い、この想いに気付かれないように後ろからしか見つめることができない自分。
アレクシスの目に映ることができるのは、明らかに前者であり、クリスティーナではなかった。
マリアーナとの噂も下火になったことで、婚約者候補は白紙に戻り、令嬢たちの熱は再び燃え広がっている。王太子がお披露目以降初めての出席とあって、一部では公爵家の令嬢が婚約者候補ではないかとの噂ものぼっているときく。ただでさえ、鼻高々の公爵邸にそんな噂が耳に入れば、浮足立つのも時間の問題だろう。
果たして、アレクシスは、この場にいる令嬢たちから婚約者を選ぶのだろうかと、物思いに耽けりそうになり、クリスティーナは慌てて首を振った。
自ら従者になると、あの時決めたではないか。恋心を自覚したところで今更だ。アレクシスが誰を選ぼうと、彼の側で仕えることができればそれで充分である。今もその気持ちに迷いはないのだから。
クリスティーナは意識を違うほうに向けようと、目の前のテーブルに目をやった。大皿の上には、たくさんの料理がのっていた。ガチョウや孔雀のソテー、レンズ豆とミンチ肉のパイ包み、鮭のキッシュなど、食べやすいように一口大に切られ、串が刺さっている。他にも、薄切りのパンやバケット、パイの上に、生ハムや白身魚のサフランソース添えや兎のグレービーソース添え、アスパラガスとベシャメルソース、レバーペーストなどが乗り、目にも楽しく色とりどりに並んでいる。ワインや蜂蜜酒、果実酒もふんだんに振る舞われている。さすが公爵家の舞踏会だ。
今日、アレクシスの付き添いでなかったら、このような豪華な食事を目にする機会も一生こなかったに違いない。貧乏子爵の四男に――正確には長女だが――誰が招待状など出すだろう。社交界デビューの機会さえなかったかもしれない。そう思うと、連れてきてくれたアレクシスに感謝しなければならない。
せっかく来たのだから、初めての舞踏会を少しでも良い思い出として記憶に残しておきたい。クリスティーナはここの料理を楽しもうと決めた。デザートのほうに足を向ければ、ワンパウンドケーキ、洋梨のコンポート、アップルムースやカレントレーズンパイ、ベリーのタルトなど、どれも見るからに美味しそうだった。どれから食べようかと、迷っていると横から声がかかった。
「はじめまして。わたくし、ボリバル・シャギレフ侯爵の娘、イヴァンナと申します」
まさか自分に声がかかるとは思わず、食事に気を取られていたクリスティーナは、慌てて相手に向き直った。
「――はじめまして。わたしはクリス・エメットと申します。――ちなみに我が家は子爵を賜っております」
デクスターの名を出さなかったのは、父とはもう言いたくなかったからだ。しかし、礼儀として、爵位は伝える。
クリスティーナはイヴァンナを見た。サテン生地をふんだんに使ったワインドレスが美しい、やや吊り目勝ちの美人だ。しかし、きつい感じは受けず、猫のような愛嬌さが感じ取れた。
クリスティーナは口を開いた。
「あの、わたしになにか?」
「ねえ、あなたは殿下の従者なのでしょう?」
突然の質問に、とりあえず頷く。
「はい、そうですが」
「やっぱり。ねえ、殿下って普段どのようなお方なの?」
イヴァンナの質問から、話しかけられた理由を得て、ひとり納得する。
(この人もアレク目当てなんだな)
イヴァンナが、離れたところにいる令嬢たちの輪に視線を向ける。
「あれじゃあ、とてもじゃないけど近付けないでしょ。一言も喋らずに終わるのが関の山だわ。それなら、殿下の近くにいるあなたに聞いて、すこしでも有益な情報を得たほうが、賢いじゃない?」
ねえ、とクリスティーナに同意を求める。その明け透けで裏表のない正直さに、クリスティーナはかえって笑ってしまった。早々にアレクシスに声をかけるのを諦める潔さもある。クリスティーナはイヴァンナに好感を持った。べったりとアレクシスに付き纏う令嬢より、よほど良かった。クリスティーナは頷いた。
「いいですよ。わたしで良ければ、相手になります」
それにここでひとりで立って手持ち無沙汰になるより、話し相手がいたほうが気が楽だ。
クリスティーナは話しても支障のない、アレクシスの子供話を、イヴァンナに聞かせ始めた。場が盛り上がって笑い合ってると、音楽を鳴り始めた。ダンスの時間だ。
イヴァンナをちらりと見る。
(誘ったほうがいいかな)
ダンスは男性から申し込むのが通例だ。イヴァンナがアレクシス目的だとしても、この状況からではクリスティーナから申し込むのが、礼儀だろう。
誘いの言葉を口にしようとしたところで、声がかかった。
「随分と楽しそうですね」
いつのまにか、令嬢たちの輪から抜け出したアレクシスがそばに来ていた。
「アレク――」
「殿下っ!」
イヴァンナが声をあげて、口元を覆う。その頬が一気に赤く染まる。
「一体、何の話をしていたのでしょう」
アレクシスがクリスティーナとイヴァンナの間に入る。驚きで喋れないイヴァンナに変わり、クリスティーナが説明する。
「アレク――、殿下の話をしてたんです」
アレクシスが眉をあげる。
「わたしの知らないところで?」
イヴァンナが必死に首を振って、アレクシスを潤んだ瞳で見上げる。
「決して、殿下の悪口では――」
アレクシスが鷹揚に頷く。
「わかってますよ。わたしがいる場所で、わたしの話をしているのに驚いただけです。なぜそんなことを? ――そんな紛らわしいことはせず、せっかくここにいるのですから、わたしが直接、あなたからわたしのことを伺いたいものですね。――お答えしますよ、美しい方」
最後の台詞とともに微笑めば、イヴァンナの顔は真っ赤に染まった。
「ちょうど、音楽も鳴り始めたようです。――踊りませんか、一曲」
アレクシスがイヴァンナに手を差し伸べれば、イヴァンナは目を見張るも、その手を恐る恐る手に取った。
二人が中央に出て踊り始めるのを、クリスティーナは見送った。
そうして、イヴァンナは王太子の今夜の初めて、かつ唯一の踊り手として、周りの令嬢たちから鋭い視線を受けながら、踊ったのだった。しかし当のイヴァンナは周りなど一切視界に入っていないかのようだった。その視線をアレクシスただひとりに注ぎ、うっとりとしてまるで幸せな表情そのものだった。
今、目のまえで踊っている令嬢の顔が、その時のイヴァンナの表情と重なった。その令嬢も、クリスティーナと先程話していた女性だった。
今度もまたアレクシスが取り囲まれているのを眺めているときに、声をかけられた。今回はアレクシスではなく、純粋に自分に興味があって、声をかけられたのだとわかった。相手は同じ子爵家の人間と名乗った。同じ家格同士気遣いの心配もなく、またクリスティーナは同じ年頃の同性と話した機会がなかったため、新鮮な気分で話し相手となった。
クリスティーナは気付いていなかったが、クリスティーナも知らず知らずのうちに、令嬢たちに目をつけられている立場となっていた。王太子妃の座を巡って公爵や侯爵といった上級貴族の令嬢と競って勝ち目のない戦をするよりも、子爵や男爵の下級貴族でなおかつ貧しい家の令嬢たちは、王太子の従者という、位はないが安定した将来を期待して、クリスティーナに目をつけたのである。おまけに王太子とは違う部類に入るものの、クリスティーナもまた整った容姿をしているのも、令嬢たちにとっては大きな得点である。自身の容姿に頓着のないクリスティーナが、笑顔で令嬢に顔を向けていると、アレクシスが現れた。
アレクシスが笑顔で令嬢に話しかければ、令嬢は途端にアレクシスだけにぽうっとなる。今まで話し相手になっていたクリスティーナなどまるで眼中に入らない。それも当然、諦めていた王太子妃の座という人参が急に目の前でぶら下がったのだから。少しでも冷静に考えれば、その人参は夢幻なのだが、急に現れたアレクシスの存在に圧倒されて、令嬢は人並みの理性を忘れてしまったようだ。そうでなくとも、アレクシスという魅力溢れる男性から誘われれば、女性は皆頷いてしまう。そのままぽうっとなって、アレクシスに手を引かれるまま、ダンスホールに向かってしまった。
クリスティーナは唖然として見送るほかない。
一度ならず二度までも、自分の目の前の女性を選んでいくアレクシスの思惑がわからない。ダンスの相手は先程囲んでいた令嬢たちを見る限り、いくらでもいるというのに。目の前から選べば簡単なのに、わざわざこちらに出向く理由が見当たらない。
クリスティーナは首をひねった。
(あれかな。人のものだと思うと、余計に欲しくなるっていう)
正確にはイヴァンナも先程の令嬢も、少しもクリスティーナのものではないが、楽しそうに話していたのが、アレクシスの目にとまったのかもしれない。囲んでいる令嬢の視線は既に自分に向けられているから、まだ自分を向いていない令嬢に興味を持ったのかもしれない。
クリスティーナはそんなふうに納得して、アレクシスの奔放さに溜め息を吐きつつ、羨ましげに二人を眺めたのだった。
一方、令嬢と踊っていたアレクシスは、熱に浮かされたように自分を見ている令嬢の視線を受け、内心安堵の溜め息を吐いた。
(これで、もうクリスに近づくことはないな)
会場に入った途端、令嬢たちに囲まれ、しばらく相手をしたまま輪の外を見れば、クリスティーナが女性と楽しげに話しているのが目に入った。その瞬間、アレクシスの瞳に霜がさっとおりたことを、周りの令嬢たちは誰一人気付くことはなかった。
踊りながら、アレクシスは回想する。
前回のイヴァンナは最初から杞憂に終わったようだ。話した内容を問えば、自分のことだと言う。笑い合って親しげだった雰囲気に、内心半信半疑にイヴァンナを見れば、その眼差しから真実だとわかった。クリスティーナに興味を抱いていないことを知れれば充分だ。
だが、クリスティーナはわからない。もしかしたら、相手に好意を抱いているかもしれないし、これから抱くかもしれない。仮にそうだとしても、それ以上は決して進ませない。だから、イヴァンナも、今踊っている令嬢もダンスの相手に選んだのだ。
アレクシスが選べば、その令嬢にアレクシスが少なからず好意を抱いている可能性が浮上する。アレクシス自身には好意など露ともなくとも、周りはそう判断する。
そうなれば、クリスティーナのことだ、決してそれ以上、令嬢に近づくことはなくなるだろう。アレクシスの胸のうちはクリスティーナにはわからないのだから。
マリアーナを公式に初めてのダンス相手に選んだのも同じ理由だ。
令嬢をリードしながら、羨ましげにこちらを見るクリスティーナに目線をやる。怒りで、令嬢の手を握りつぶしそうになる。
(女なんか見るな。俺だけ見てればいい。――お前は俺のものだ。誰にも渡すものか)
帰りの馬車の中、長い足を組んでクラヴァットを緩め、アレクシスが向かいのクリスティーナを見る。
「どうだ、気に入った令嬢はいたか?」
最後まで二人のダンスを見守ったクリスティーナは切なげに首を振った。
「ううん。いないよ」
「――そうか」
それを聞いてアレクシスは窓際に頬杖をついて、外の景色に目をやる。その隠された口元に満足気な薄い笑みが浮かんでいたことに、下を向いていたクリスティーナが気付くことはなかった。
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シアーズ男爵家の末娘ティナレインは、男爵が隣国出身のメイドに手をつけてできた娘だった。ティナレインは隣国の一部の者が持つ魔力(治癒術)を微力ながら持っており、そのため男爵夫人に一層疎まれ、男爵家後継ぎの兄と、世渡り上手で気の強い姉の下で、影薄く過ごしていた。
幼いティナレインは、優しい侯爵家の子息セシルと親しくなっていくが、息子がティナレインに入れ込みすぎていることを嫌う侯爵夫人は、シアーズ男爵夫人に苦言を呈す。侯爵夫人の機嫌を損ねることが怖い義母から強く叱られ、ティナレインはセシルとの接触を禁止されてしまう。
時を経て、貴族学園で再会する二人。忘れられなかったティナへの想いが燃え上がるセシルは猛アタックするが、ティナは自分の想いを封じ込めるように、セシルを避ける。
やがてティナレインは、とある商会の成金経営者と婚約させられることとなり、学園を中退。想い合いながらも会うことすら叶わなくなった二人だが、ある夜偶然の再会を果たす。
それから数ヶ月。結婚を目前に控えたティナレインは、隣国へと逃げる決意をした。自分のお腹に宿っていることに気付いた、大切な我が子を守るために。
けれど、名を偽り可愛い我が子の子育てをしながら懸命に生きていたティナレインと、彼女を諦めきれないセシルは、ある日運命的な再会を果たし────
生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。
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※この作品は小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
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