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愛と重圧 1/7
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朦朧とした意識の中で聞こえたのは、何かが砕け散る音と、二人の言い争う声。
やめて、と言おうとするが、声が出ない。体が動かない。
間もなく音は遠くなり、誰かに抱き上げられた感触がした。
ぼやけた視界の向こうで、優しい声がかかる。
「リト、もう大丈夫。お母さんが護ってあげるから……」
その言葉を最後に、意識が闇の中に落ちた。
「瘴霧が出てきましたね」ニースは窓越しの道路を見下ろして言った。
鈍色の瘴霧がうっすらと道路を霞ませる。バンはベクターの運転で、その中を真っ直ぐに走っていた。
ホルダーにマウントした端末が音声を発する。
「瘴霧濃度上昇。レベルイエローに移行。マスクの着用を推奨します」
「着用してるよ。ほとんど常時ね」
ベクターは答えるように言った。
「けれどレーダーを見る限り」ニースはマスクを着けながら返す。「すぐに晴れそうです。マスクの出番も短いかも」
「仕事中に出なくて助かった。なんなら永遠に出なくても――」
ベクターは最後まで言う前に、前方に異変を見とめた。
路肩に横転したトラックと、それに群がる人影が複数。
二人はかれらが「暴徒」であると察した。
「戦闘準備を」
瘴霧の向こうで、正気を失った剣幕がこちらに向いた。
トラックドライバーはドアの窓から覗き込んできた暴徒の頭に一発くれてやってから車外へ這い出た。
襲い掛かってきた二人目を蹴飛ばしながらシャーシに背を預ける。
額からは血が出ていた。まだ衝撃で頭がくらくらする。
だが暴徒はお構いなしに攻めてきた。
彼は毒づきながら発砲する。
「くそったれ!」
三人目、四人目と続けざまに斃した。
まだ暴徒は残っている。全部で十数人はいるだろう。
手持ちの拳銃では弾が足りない。
彼は暴徒連中の攻撃を躱しながら、コンテナの扉側に回り込み、鍵を挿した。
中には自動小銃が入っている。
が、結局それを使う機会はなかった。
解錠、扉の開放までは順調だったのに、彼は中から小銃を探し出す前に暴徒に噛みつかれてしまう。
首筋に歯を立てられ、激痛と共に血しぶきが舞う。
叫び声が暴徒の咆哮にかき消された。
そして、彼が最期に聞いたのは自分ではない誰かの銃声であった。
ニースとベクターは暴徒を次々と斃していく。
こちらを睨んだ一体以外は皆トラックドライバーに意識が向いていたためか、反撃を受けることなく全滅せしめた。
静けさが戻ると、二人はトラックに駆け寄る。
「ひどいですね」
ニースは小銃のボルトを引き、排莢しながらトラックとそのドライバーを見た。
ベクターはしゃがみこんでドライバーの顔を覗き込む。
「遅かった……」
二人が彼に弔いの言葉をかけようとした次の瞬間、コンテナの方からガタガタと音がした。
慌てて二人は銃を構える。
すると、暗がりの中でひっくり返った荷物のうちひとつがドタバタと蠢いているのが見えた。
それは大型のトラベルケースで、小柄な体躯であれば人ひとりは簡単に入るサイズだ。
ベクターはケースを引っ張り出し、開ける。
それと同時に、ひとりの男の子が中から飛び出してきた。
わけもわからず暴れる少年を、ベクターとニースは取り押さえる。
「落ち着いて! 落ち着いてください!」
ニースの言葉に少年は何か返そうとしたが、彼は咳き込み、怯えきった目で周囲を見回す。
そんな彼に対し、ニースはマスクを外してから、彼の顔を両掌でしっかり包んだ。
真っ直ぐに彼の双眸を見据え、言う。
「私の目を見てください。息を吸って。深呼吸を……」
少年はうろたえながらも彼女に従い、ようやく落ち着きを取り戻しはじめる。
その様を見てベクターは言った。
「もう大丈夫そうだね」
「あなたの鉄面に驚いたのでは?」とニース。
「おおっと、それはご無礼を」
少年はベクターの言葉に、首を横に振った。
ニースは少年の分のマスクを取り出しながら、自らもマスクを着け直す。
「さて、一段落したところで――」
とベクターが言おうとすると、トラックの運転席側から警報めいた電子音が響いた。
ベクターは運転席側に回り込み、それから叫ぶ。
「逃げろ! 爆発する!」
その声と同時に、ニースは少年の肩を抱きながらバンへと走った。
ベクターもあとに続く。
バンの手前まで来たところで、トラックが爆発した。
ニースは少年を、ベクターはニースをかばうようにして身を丸め、爆風に耐えた。
いくつかの破片がバンにぶつかる音がして、とくに大きな破片が三人めがけて飛んでくる。
ベクターはとっさに腕を振り上げ、防御した。
三人は巨大な柱のごとき爆煙を見上げ、慄く。
「……ドライバーの死亡で起爆装置が作動する仕掛け……でしょうか……?」
「おそらくは」ベクターは答えた。「盗賊まがいの低質なガンベクターがやる証拠隠滅のひとつさ。……この目で見たのは初めてだけどね」
言いながらベクターは自分たちに飛んできた破片を見下ろす。
二人はそれが破片ではないことに気づいた。焼け焦げた自動小銃だ。それも軍用レベルの。
ベクターは小銃の残骸を拾い、こちらに顔を向ける。少年を見ていた。
ニースも彼を窺う。
「……また意識を失ってしまいましたね」
「それも仕方ないさ。……ん?」
二人は投げ出された少年の肘窩に、注射の跡があるのを見つけた。
「……ただの人さらいか、それとも――」
まどろみの中で思い出せる事柄はきわめて少なかった。
自らを「リト」と呼んだ母、ケースの中の狭く苦しい暗黒。そこから助けてくれた鉄色の仮面に黒コートの大人と――。
私の目を見てください。
その言葉と共に頬に触れた少女の柔らかい手。
これが最も鮮明で、強烈な記憶だった。
彼女の清く澄んだヘーゼルの瞳と、白い肌と、銀色の髪と……。
それらを思い返していると、リトは温かなベッドの上で目を覚ます。
天井で蛍光灯がそっけない光を放っていた。
軽く唸りながら上体を起こすと、近くのデスクに座っていた人物が振り向く。
あの時の少女だった。
「おはようございます」
彼女はラップトップPCを閉じながら言う。
それから立ち上がりつつ、座っていたパイプ椅子を持ってリトの傍に来た。
リトはうろたえながらも、言葉を返す。
「おはようございます……」
「よかった。発声能力を取り戻せたみたいですね」
「はい……。ありがとう……」
言ってから、リトは訊ねる。
「そうだ、もうひとり――」
「ベクターのことですか? あの黒服の鉄面」
少女は続ける。
「あなたの身元調査を警察に頼みに行っています。そろそろ戻ってくるころ……」
彼女が言っていると、扉の開く音が聞こえて、件のベクターが入ってきた。脇には買い物袋を抱えている。
「おかえりなさい」と少女。
「ただいま」
ベクターは答え、リトを見る。身なりこそ威圧的だが、仮面の裏で輝く目は優しかった。
「災難だったね、少年。きみがどんないきさつであのケースに突っ込まれてたかは知らないけど、しばらくここにいるといい」
「あまりいい返事はもらえなかったみたいですね」
「子供のことより自動小銃のほうが大事な様子だった」
「やはり軍用で?」
「ああ。装弾数三十発、フルオート射撃機能ありのカービンだ。民間人が持っていい代物じゃない」
「なるほど、それは重大事件ですね。ならば――」
少女はまたリトに向き直る。
「なおさら私たちが優しくしてあげないと、ですね」
続けて彼女はこう言った。
「ニースと呼んでください。こちらはベクター。あるいはマスク・ザ・ベアメタル」
「……ぼくは……」
「無理はなさらず。あなたは日常的に薬を打たれてた。最近認可された麻酔薬の一種を。それと未知の薬物がいくつか……。たぶん記憶が混濁して、何も思い出せないのでは?」
「はい……。でも……リトという名前で呼ばれてたのは覚えてます」
「誰に?」
「……お母さん……護ってあげると言われて……だけど――」
リトは俯いた。
すると、腹が鳴る。彼はすこし気まずくなり、にわかに目を泳がせた。
そんな様を見て、ニースとベクターは目を合わせてから言う。
「ちょうどいい時間です。食事にしましょう」
シェイドは例のトラックが爆発したという報告を受け、現場に飛んでいった。
すでに現場は警察が封鎖していて、彼は遠巻きに観察することを強いられた。
「もう警察が? 早すぎる……」
部下が言う。が、シェイドは答えず双眼鏡の向こうの光景を睨みつけていた。
文字通りの血眼になって、死体を確かめる。
暴徒の十数体と、社員の一体。それ以外には見当たらない。
見当たらないだけで、もうすでに――。
そう思った直後、警官の一人が大型のトラベルケースを手にして、道の脇から戻ってきた。
シェイドは呟く。
「――防爆ケースが開いている」
「まさか、爆発の拍子に……?」
「いや……それはありえない。おそらく、かれらの他に誰かいたんだろう」
「その誰かが通報を?」
「……だろうな……」
シェイドの、双眼鏡を持つ指に力が入った。
ニースたちは糧食プレートの保護フィルムを剥がす。
複数の仕切りに盛り付けられた合成食品が姿を表し、食事の時間が始まった。
隣のリトと、向かいのベクターも同じメニューだ。
案の定、リトは初めて見るであろう、かろうじて食べ物と認識できる何かに戸惑っている様子であった。
「すまないね。本来ならもっと気の利いた料理を出したかったんだけど」
「いえ……いいんです。こうやってごはんを出してもらえるだけでも……」
三人は合掌してから、食事に手をつける。
するとリトの表情に明るい変化が生じた。
「おいしい……!」
「それはよかった」ベクターが微笑み、糧食に目を落とす。「わたしが所属してるガンベクターズギルドからの配給食なんだ。コスト最優先で見た目はこんなのだけど、味と栄養にはかなり気を遣ってるのさ」
「ガンベクター……? 聞き覚えが……」
リトが首を傾げると、ニースが答えた。
「銃を持った運送業者です。世界中に瘴霧が蔓延して、今までのように気軽に外を出歩けなくなった時代に登場した職業……。けれどその質はピンキリで……あなたを誘拐したであろうガンベクターはたぶん盗賊と呼んだほうが適切かもしれませんね」
「時代の変化を痛感するよ」
と、ベクター。
「わたしがきみらくらいのトシだったころは、銃なんて持てなかったし、今ほど個人的自衛権の重要性を叫ばれてもいなかった」
「そうなんですか? ……あの……失礼かもですが……ベクターさんはおいくつ……」
「この顔……若く見えるかい? うれしいね」
ベクターは笑ってみせた。するとニースが、
「私の「ニース」という呼び名は、英語で「姪」を意味するんです。そう言えば、察しがつきますか?」
と言い、ベクターがこう続けた。
「彼女の母はわたしの妹なのさ。このコが幼い頃、瘴霧を吸い込んで狂暴になってしまった人々に襲われて……だから、今もわたしと一緒にいてくれてる」
「そうだったんですね……」
「……それが理由とは言いませんが」ニースはリトの目を見る。「なおのこと、お母さんと引き離されたあなたを放っておけなかった。――きっと、あなたを親御さんのところへ帰してあげます。安心してくださいね」
「――ありがとうございます」
リトは目を潤ませながら微笑んだ。
それからニースとベクターはリトが風呂に入っている間に、空き部屋に寝具と着替えを用意する。服はベクターが警察に行った帰りに見繕ったものだ。
風呂上がりのリトを案内し、他の用事をこなし、入浴を終えてニースもまた就寝準備に入ろうとしていた。
「血清」を打ちながら彼女は思う。
今日の夕方まではいつもと変わらない一日と思っていたのに……。
天井を仰いでニースは深く息を吸い、すこし溜めてから吐き出した。
あの子はいったい何者だろう。
どうしてあんなところに入れられていたのだろう。
あの子の両親はどんな人だろう。
リトに関する思いが、ニースの頭の中をめぐる。
ふと気になって、彼女はリトの部屋をそっと覗き込んだ。
リトは小さな灯りの下で、すうすうと寝息を立てている。
かわいらしい寝顔に、ニースは思わず微笑んだ。
すると、彼は寝返りを打ち、それからかすかな声で、
「お母さん……」
と呟く。
ただの寝言だろうが、淋しげで、胸を締めつけられる一言だった。
ニースは切ない眼差しをリトにやり、それから彼の寝るベッドに腰かける。
お母さんか……。
彼女は幼いころの、色あせてしまった記憶の中だけにいる両親に思いを馳せる。
あれから長い時間が経った。もし生きているのなら、もう一度会いたいという気持ちはあるが、現在に至るまでメッセージのひとつも無い。生存は絶望的だろう。
彼女はリトが感じているはずの寂寥を、自分に重ね合わせた。
ニースは彼のすぐ横に寝転がり、頭をやさしく撫でる。
いつしか、そのまま眠りに落ちていた。
朦朧とした意識の中で聞こえたのは、何かが砕け散る音と、二人の言い争う声。
やめて、と言おうとするが、声が出ない。体が動かない。
間もなく音は遠くなり、誰かに抱き上げられた感触がした。
ぼやけた視界の向こうで、優しい声がかかる。
「リト、もう大丈夫。お母さんが護ってあげるから……」
その言葉を最後に、意識が闇の中に落ちた。
「瘴霧が出てきましたね」ニースは窓越しの道路を見下ろして言った。
鈍色の瘴霧がうっすらと道路を霞ませる。バンはベクターの運転で、その中を真っ直ぐに走っていた。
ホルダーにマウントした端末が音声を発する。
「瘴霧濃度上昇。レベルイエローに移行。マスクの着用を推奨します」
「着用してるよ。ほとんど常時ね」
ベクターは答えるように言った。
「けれどレーダーを見る限り」ニースはマスクを着けながら返す。「すぐに晴れそうです。マスクの出番も短いかも」
「仕事中に出なくて助かった。なんなら永遠に出なくても――」
ベクターは最後まで言う前に、前方に異変を見とめた。
路肩に横転したトラックと、それに群がる人影が複数。
二人はかれらが「暴徒」であると察した。
「戦闘準備を」
瘴霧の向こうで、正気を失った剣幕がこちらに向いた。
トラックドライバーはドアの窓から覗き込んできた暴徒の頭に一発くれてやってから車外へ這い出た。
襲い掛かってきた二人目を蹴飛ばしながらシャーシに背を預ける。
額からは血が出ていた。まだ衝撃で頭がくらくらする。
だが暴徒はお構いなしに攻めてきた。
彼は毒づきながら発砲する。
「くそったれ!」
三人目、四人目と続けざまに斃した。
まだ暴徒は残っている。全部で十数人はいるだろう。
手持ちの拳銃では弾が足りない。
彼は暴徒連中の攻撃を躱しながら、コンテナの扉側に回り込み、鍵を挿した。
中には自動小銃が入っている。
が、結局それを使う機会はなかった。
解錠、扉の開放までは順調だったのに、彼は中から小銃を探し出す前に暴徒に噛みつかれてしまう。
首筋に歯を立てられ、激痛と共に血しぶきが舞う。
叫び声が暴徒の咆哮にかき消された。
そして、彼が最期に聞いたのは自分ではない誰かの銃声であった。
ニースとベクターは暴徒を次々と斃していく。
こちらを睨んだ一体以外は皆トラックドライバーに意識が向いていたためか、反撃を受けることなく全滅せしめた。
静けさが戻ると、二人はトラックに駆け寄る。
「ひどいですね」
ニースは小銃のボルトを引き、排莢しながらトラックとそのドライバーを見た。
ベクターはしゃがみこんでドライバーの顔を覗き込む。
「遅かった……」
二人が彼に弔いの言葉をかけようとした次の瞬間、コンテナの方からガタガタと音がした。
慌てて二人は銃を構える。
すると、暗がりの中でひっくり返った荷物のうちひとつがドタバタと蠢いているのが見えた。
それは大型のトラベルケースで、小柄な体躯であれば人ひとりは簡単に入るサイズだ。
ベクターはケースを引っ張り出し、開ける。
それと同時に、ひとりの男の子が中から飛び出してきた。
わけもわからず暴れる少年を、ベクターとニースは取り押さえる。
「落ち着いて! 落ち着いてください!」
ニースの言葉に少年は何か返そうとしたが、彼は咳き込み、怯えきった目で周囲を見回す。
そんな彼に対し、ニースはマスクを外してから、彼の顔を両掌でしっかり包んだ。
真っ直ぐに彼の双眸を見据え、言う。
「私の目を見てください。息を吸って。深呼吸を……」
少年はうろたえながらも彼女に従い、ようやく落ち着きを取り戻しはじめる。
その様を見てベクターは言った。
「もう大丈夫そうだね」
「あなたの鉄面に驚いたのでは?」とニース。
「おおっと、それはご無礼を」
少年はベクターの言葉に、首を横に振った。
ニースは少年の分のマスクを取り出しながら、自らもマスクを着け直す。
「さて、一段落したところで――」
とベクターが言おうとすると、トラックの運転席側から警報めいた電子音が響いた。
ベクターは運転席側に回り込み、それから叫ぶ。
「逃げろ! 爆発する!」
その声と同時に、ニースは少年の肩を抱きながらバンへと走った。
ベクターもあとに続く。
バンの手前まで来たところで、トラックが爆発した。
ニースは少年を、ベクターはニースをかばうようにして身を丸め、爆風に耐えた。
いくつかの破片がバンにぶつかる音がして、とくに大きな破片が三人めがけて飛んでくる。
ベクターはとっさに腕を振り上げ、防御した。
三人は巨大な柱のごとき爆煙を見上げ、慄く。
「……ドライバーの死亡で起爆装置が作動する仕掛け……でしょうか……?」
「おそらくは」ベクターは答えた。「盗賊まがいの低質なガンベクターがやる証拠隠滅のひとつさ。……この目で見たのは初めてだけどね」
言いながらベクターは自分たちに飛んできた破片を見下ろす。
二人はそれが破片ではないことに気づいた。焼け焦げた自動小銃だ。それも軍用レベルの。
ベクターは小銃の残骸を拾い、こちらに顔を向ける。少年を見ていた。
ニースも彼を窺う。
「……また意識を失ってしまいましたね」
「それも仕方ないさ。……ん?」
二人は投げ出された少年の肘窩に、注射の跡があるのを見つけた。
「……ただの人さらいか、それとも――」
まどろみの中で思い出せる事柄はきわめて少なかった。
自らを「リト」と呼んだ母、ケースの中の狭く苦しい暗黒。そこから助けてくれた鉄色の仮面に黒コートの大人と――。
私の目を見てください。
その言葉と共に頬に触れた少女の柔らかい手。
これが最も鮮明で、強烈な記憶だった。
彼女の清く澄んだヘーゼルの瞳と、白い肌と、銀色の髪と……。
それらを思い返していると、リトは温かなベッドの上で目を覚ます。
天井で蛍光灯がそっけない光を放っていた。
軽く唸りながら上体を起こすと、近くのデスクに座っていた人物が振り向く。
あの時の少女だった。
「おはようございます」
彼女はラップトップPCを閉じながら言う。
それから立ち上がりつつ、座っていたパイプ椅子を持ってリトの傍に来た。
リトはうろたえながらも、言葉を返す。
「おはようございます……」
「よかった。発声能力を取り戻せたみたいですね」
「はい……。ありがとう……」
言ってから、リトは訊ねる。
「そうだ、もうひとり――」
「ベクターのことですか? あの黒服の鉄面」
少女は続ける。
「あなたの身元調査を警察に頼みに行っています。そろそろ戻ってくるころ……」
彼女が言っていると、扉の開く音が聞こえて、件のベクターが入ってきた。脇には買い物袋を抱えている。
「おかえりなさい」と少女。
「ただいま」
ベクターは答え、リトを見る。身なりこそ威圧的だが、仮面の裏で輝く目は優しかった。
「災難だったね、少年。きみがどんないきさつであのケースに突っ込まれてたかは知らないけど、しばらくここにいるといい」
「あまりいい返事はもらえなかったみたいですね」
「子供のことより自動小銃のほうが大事な様子だった」
「やはり軍用で?」
「ああ。装弾数三十発、フルオート射撃機能ありのカービンだ。民間人が持っていい代物じゃない」
「なるほど、それは重大事件ですね。ならば――」
少女はまたリトに向き直る。
「なおさら私たちが優しくしてあげないと、ですね」
続けて彼女はこう言った。
「ニースと呼んでください。こちらはベクター。あるいはマスク・ザ・ベアメタル」
「……ぼくは……」
「無理はなさらず。あなたは日常的に薬を打たれてた。最近認可された麻酔薬の一種を。それと未知の薬物がいくつか……。たぶん記憶が混濁して、何も思い出せないのでは?」
「はい……。でも……リトという名前で呼ばれてたのは覚えてます」
「誰に?」
「……お母さん……護ってあげると言われて……だけど――」
リトは俯いた。
すると、腹が鳴る。彼はすこし気まずくなり、にわかに目を泳がせた。
そんな様を見て、ニースとベクターは目を合わせてから言う。
「ちょうどいい時間です。食事にしましょう」
シェイドは例のトラックが爆発したという報告を受け、現場に飛んでいった。
すでに現場は警察が封鎖していて、彼は遠巻きに観察することを強いられた。
「もう警察が? 早すぎる……」
部下が言う。が、シェイドは答えず双眼鏡の向こうの光景を睨みつけていた。
文字通りの血眼になって、死体を確かめる。
暴徒の十数体と、社員の一体。それ以外には見当たらない。
見当たらないだけで、もうすでに――。
そう思った直後、警官の一人が大型のトラベルケースを手にして、道の脇から戻ってきた。
シェイドは呟く。
「――防爆ケースが開いている」
「まさか、爆発の拍子に……?」
「いや……それはありえない。おそらく、かれらの他に誰かいたんだろう」
「その誰かが通報を?」
「……だろうな……」
シェイドの、双眼鏡を持つ指に力が入った。
ニースたちは糧食プレートの保護フィルムを剥がす。
複数の仕切りに盛り付けられた合成食品が姿を表し、食事の時間が始まった。
隣のリトと、向かいのベクターも同じメニューだ。
案の定、リトは初めて見るであろう、かろうじて食べ物と認識できる何かに戸惑っている様子であった。
「すまないね。本来ならもっと気の利いた料理を出したかったんだけど」
「いえ……いいんです。こうやってごはんを出してもらえるだけでも……」
三人は合掌してから、食事に手をつける。
するとリトの表情に明るい変化が生じた。
「おいしい……!」
「それはよかった」ベクターが微笑み、糧食に目を落とす。「わたしが所属してるガンベクターズギルドからの配給食なんだ。コスト最優先で見た目はこんなのだけど、味と栄養にはかなり気を遣ってるのさ」
「ガンベクター……? 聞き覚えが……」
リトが首を傾げると、ニースが答えた。
「銃を持った運送業者です。世界中に瘴霧が蔓延して、今までのように気軽に外を出歩けなくなった時代に登場した職業……。けれどその質はピンキリで……あなたを誘拐したであろうガンベクターはたぶん盗賊と呼んだほうが適切かもしれませんね」
「時代の変化を痛感するよ」
と、ベクター。
「わたしがきみらくらいのトシだったころは、銃なんて持てなかったし、今ほど個人的自衛権の重要性を叫ばれてもいなかった」
「そうなんですか? ……あの……失礼かもですが……ベクターさんはおいくつ……」
「この顔……若く見えるかい? うれしいね」
ベクターは笑ってみせた。するとニースが、
「私の「ニース」という呼び名は、英語で「姪」を意味するんです。そう言えば、察しがつきますか?」
と言い、ベクターがこう続けた。
「彼女の母はわたしの妹なのさ。このコが幼い頃、瘴霧を吸い込んで狂暴になってしまった人々に襲われて……だから、今もわたしと一緒にいてくれてる」
「そうだったんですね……」
「……それが理由とは言いませんが」ニースはリトの目を見る。「なおのこと、お母さんと引き離されたあなたを放っておけなかった。――きっと、あなたを親御さんのところへ帰してあげます。安心してくださいね」
「――ありがとうございます」
リトは目を潤ませながら微笑んだ。
それからニースとベクターはリトが風呂に入っている間に、空き部屋に寝具と着替えを用意する。服はベクターが警察に行った帰りに見繕ったものだ。
風呂上がりのリトを案内し、他の用事をこなし、入浴を終えてニースもまた就寝準備に入ろうとしていた。
「血清」を打ちながら彼女は思う。
今日の夕方まではいつもと変わらない一日と思っていたのに……。
天井を仰いでニースは深く息を吸い、すこし溜めてから吐き出した。
あの子はいったい何者だろう。
どうしてあんなところに入れられていたのだろう。
あの子の両親はどんな人だろう。
リトに関する思いが、ニースの頭の中をめぐる。
ふと気になって、彼女はリトの部屋をそっと覗き込んだ。
リトは小さな灯りの下で、すうすうと寝息を立てている。
かわいらしい寝顔に、ニースは思わず微笑んだ。
すると、彼は寝返りを打ち、それからかすかな声で、
「お母さん……」
と呟く。
ただの寝言だろうが、淋しげで、胸を締めつけられる一言だった。
ニースは切ない眼差しをリトにやり、それから彼の寝るベッドに腰かける。
お母さんか……。
彼女は幼いころの、色あせてしまった記憶の中だけにいる両親に思いを馳せる。
あれから長い時間が経った。もし生きているのなら、もう一度会いたいという気持ちはあるが、現在に至るまでメッセージのひとつも無い。生存は絶望的だろう。
彼女はリトが感じているはずの寂寥を、自分に重ね合わせた。
ニースは彼のすぐ横に寝転がり、頭をやさしく撫でる。
いつしか、そのまま眠りに落ちていた。
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