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1章
03 逢魔が時
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会社に辞表を出して6日。
20代後半にして人生設計の再検討中。
自宅である古い賃貸マンションの一室、デスクの前で私はため息を吐いた。
◇◆◇◆◇◆
一週間前、台風が過ぎたあの朝、あの子供は消えてしまった。
私が目が覚めたとき、まだ早朝だったが既に夜は明け、風は強いものの雨は止んでいた。
あの子はだんだん警戒を解いてくれたものの、元々警戒していた。目が覚めて自分で逃げたのだろうか。
不審人物がここに入ってきて無理に連れ去ったなら、流石に近くにいた私も起きそうだけど絶対とは言えない。ちょっと外へ出たところで連れ去られた?自分で逃げたとしても……あんな子供が逃げなきゃいけない状況からして尋常じゃない。まともな大人や機関の保護が必要だ。
近所を探し回ったが見つからない。私はあの子の名前すら知らない。
出勤時間になってしまい職場に電話して事情を話し有給をとる旨上司に伝えた。警察や保護に関係しそうな機関に相談するためだ。今日出席予定だった会議は代理をできる同僚の名前を挙げた。
しかし、『そんなことで仕事を休むなんて無責任だ』『自分の子供でもないのに口実だろう』と言われ、目の前が真っ赤になった。
そんなこと?
事件性があるかもしれない、今命がかかってるかもしれない。
それより優先する『仕事』がこの世にどれだけある?
少なくとも私含めその会社に、そこまでの仕事は何一つ存在しませんが?
そして血縁以外の人間には指一本動かさない人間しかこの世に居ちゃいけない前提か?歪んだ世界観だな!
昨日の台風の時もそうだった。台風は毎年来るものだし何日も前から規模まで分かってた。上層部が予め采配していれば、無意味に職場に残され帰宅難民の危機にさらされ、長時間電車に閉じ込められることはなかった。
会社や社会は突発的に天候や人員にアクシデントが発生しても、それを見込んでフォローし柔軟に変化できるシステムを構築する必要がある。それが人が群れを作る理由の一つだからだ。互いが互いの保険となる。
実際私も普通に同僚のフォローをしてきたし、私が名前を挙げた同僚もそうするだろう。
しかし『仕事を最優先にする素晴らしい自分』『それは他者を犠牲にする免罪符になる』という、俺の価値観が崩壊することに感情的な拒絶反応を起こす、終身雇用制度の呪い爺がここにいた。
上層部の無能で起こっているシステムの欠陥を、末端が人権や倫理を無視して無限に仕事を優先しないのが悪いと叩けば誤魔化せる時代はとうに終わっている。
「とにかく今日は出勤できませんし、先程の説明の通りにすれば最低限支障はない筈です。それでも有給が認められないなら無断欠勤扱いで結構です」
そんなことは言ってない、と今度は猫撫で声になり、『女は機嫌を取らなきゃいけなくて面倒』幻想にシフトチェンジしたらしく、中身のない上から目線の言葉遊びを繰り返したり、珍妙な設定の俺話を続ける中年男に、お前は中二病かとうんざりした。
今回に限らずこの会社の上層部は無数にこうした問題があり散々私達は指摘したが、自分達が楽な今の体制直す気はないらしい。もうこの人達は見限ろう。
半ば強引に電話を切って頭を切り替える。時間が惜しい。
警察にまず電話し、更に警察署へ言って説明した。その時になって、写真を取り忘れたことに気付き臍を噛む思いだった。その後、目撃情報とかがないかとネットで探し、保護してる可能性がありそうな機関に連絡したり。
ーーしかしあの子は見つからなかった。
翌日職場へ出向き、正式に辞表を提出し、ついでに会社の数々の問題についてぶちまけた。
あースッキリした。
一時の感情で自棄になったのではない。就職以来ずっと貯めてきた不満が、一定量に達して形になった。
例えるなら、駱駝の背に無理に大量に藁を積み続けて、最後の一本の藁が駱駝の背骨を折ってしまう説話とか。乙女ゲーで好感度が一定量になるとイベントが始まるとか。ちょっと違うか。
同じ仕事をしている同僚が複数いるので引き継ぎはすぐ済んだ。同僚達は名残惜しんでくれた。
上層部への不満を抱え、私達の代で内側から変えられたらいいねと一緒に飲みながら話したのに戦線離脱してごめん、と私が謝ると、羽南が謝ることじゃないよ、と次々手が伸びてきて頭を撫でられた。
皆のオカンとして親しまれる女の先輩は悟ったような寂しげな笑顔で『逃げられる人から逃げた方がいい』と言った。40代の働く女性で今より修羅な時代から生きてきて、なおその言葉を言った深さと重みを感じた。
「話せば変わる人や会社も存在するけど、DV男やモラハラのように認知が歪んでて一生変わらない相手もいて、そういうのは皆で見限って力を削いでいくしかない。羽南の件で会社が変わることを祈るよ。そうでなきゃ私達も後を追うかもね」
オカン先輩は諦めと覚悟を含んだような太い笑みを浮かべて言った。
急遽開いてくれたお別れランチ会では『労働基準監督署と自治体の無料弁護士相談と、まずはどっちが言うのがいいと思うー?』と盛り上がっていた。この同僚達と出会えた私は幸せ者だ、と涙で視界がぼやけた。
数日後、同僚からSNSでメッセージが来た。
『皆で会社を集団訴訟することにしたよ~ん!(^^)b 弁護士と証拠固めしてるからまだ部外秘ね。公開になったら拡散とクラウドファウンディング協力頼むね!』
まだ未公開という口座へ、自分のネット銀行口座から些少ながら振込をした。
同僚達の未来に幸多かれと願った。
あの子が消えて一週間。警察等からあの子が見つかったという連絡がないか待ったり、自分でも探したり。全く足取りは掴めず、忽然と消えてしまったかのようだった。
第三者の私への情報提供は制限されているんだろうか。そうであってほしい。私に知らされないだけで本当は無事保護されていてほしい。
ーー私にできることはもう手詰まりだった。私の手が届く範囲の外になってしまった。
そしてそろそろ、20代後半で無職になった事実にも向き合わなければならない。これからの人生設計を立て直す必要がある。
重いため息をついてタブレットを立ち上げた。
家計簿アプリやネット銀行口座に並ぶ数字は芳しくない。会社を辞めたことに全く後悔はないが、当分海外旅行は無理そうだ。
マグカップの中の大分冷めたコーヒーの残りを流し込み、口の中と心の苦味を飲み下す。
学生時代に世界史に興味を持って以来、私は世界を旅するのが何よりの楽しみになった。行ったことのない様々な国、多様な文化、建築物、自然ーーそこに積み重ねられた重厚な時間。その空間を共有できる奇跡。なんと甘美なことか!
勿論、裕福とは言い難い庶民な一会社員。
一泊2000円のドミトリー(大部屋)に泊まる貧乏旅行で、普段の服はリユースショップで昼食は手弁当の節約生活。今時はバックパッカーであってもそこまで節約せずメリハリつけて楽しむ人は多いのだが、私はひたすら旅に注ぎ込むタイプ。
ワーキングホリデーで海外で働きながら旅しながら生活することも今までも何度も考えたけど、終身雇用制度が未だ根強い日本では、一度手にした会社員という職を失うという選択の不可逆性に恐怖感が今まであった。
…でももう辞めたし、ひょっとして、今こそ思い切る時ではないか?とふと思い至る。
人生一度きり。ワーホリは年齢制限もある。
…よし、ワーキングホリデー、やってみよう!
必要な情報をどんどん検索し始める。そしてふと手が止まる。
ワーホリを始める前に、疲れた自分を癒すことを兼ねてどこかへ数日旅をしておきたいかもしれない。
ワーホリ中は働くだけじゃなくて観光したり自由度が高いけど、現在程の完全なのフリーとは少し違う。
旅行サイトへ移動し行き先を検討し始めーーふいに画面にノイズが走った。
「……ハナ」
突然、背後から低い声がした。
ビクリと滑稽なほど肩が跳ね、勢いよく振り向いた先には誰もいない。
当然だ。私は一人暮らしで、部屋の中には自分しかいない。
いつの間にか日が傾き、部屋の中は夕暮れの陽が陰影を作っていた。アナログの壁時計がカチコチと音を立て空間の静寂を埋めていく。
背中に氷を入れられたような感覚に体を凍りつかせたまま目だけで辺りを伺うが何も変わったことはない。
気のせいかと息を吐いたところに、ザザッとラジオの雑音のような音が走り、また「…ハナ…」と声がした。
音のした方に目を向けると、腰の高さのカラーボックスの上に乗せたスマホがあった。
恐る恐る手に取り確認したが、電源は入っていない。充電しようと思ってそのままにしていたのだ。
「ザザッ……ハナ……」
思わず放り出したスマホは床のラグの上に落ちた。
落ち着け自分。
昔は違法に強い無線が横行していて、音響機器や建材などに共鳴して増幅され人の耳に聞こえたことがあったと、怪奇現象を説明する本で読んだ。
今はどうか知らないが、スマホにも電波の受信装置やスピーカーが入っているから、そういう現象が起こるのかもしれない。
「ハナ……聞こえますか…?」
私は瞠目した。日本語ではない。訛りがあって聞き取りづらいけれど、これは…英語?
「ザザッ……嵐の日、子供を助けてくださったハナという女性を探しています……聞こえますか?…」
SNSの『あなたの心に…話しかけています…』ネタや電波系という言葉が一瞬のうちに心を駆け抜けたが、そんなのは一瞬で、すぐに聞き返した。
「あの子は無事ですか?」
傷つき怯え嵐の中でただ体を固くしていた子供。この声の主はあの子を知っている。
「ハナですか?」
弾んだ声が返ってきた。突然雑音が減ってクリアになった。会話が成立したことでチューニング精度が上がったとか?。名乗るのは不安があったがこのままでは埒があかない。
「はい、羽南です。あの子は無事か教えてください」
「無事保護されました。命の恩人です。本当にありがとうございました。あの朝、突然そちらの世界から弾かれてこちらに戻ってしまいご挨拶すらできず、ずっとお礼を申し上げたくて貴女を探していました」
……『そちらの世界』? そしてお礼を謎の無線交信(?)で伝える意味が分からない。
声は若そうな男性のもので、温かそうな情がこもった声音だった。ーーしかし、あの子は虐待されていたのだ。この怪しすぎる男が犯人だとしたら?
「あの女の子の声を聞かせてください」
腹に力を入れ、毅然とした声を心掛けて言った。
「え…」
「私も一度保護した以上、最後まで無事を見届ける責務があります。あの女の子を出してください」
困惑したような雰囲気が伝わってきた。
そして突然、スマホの近くに40cm四方程の画面が現れた。
画面の中、褐色の肌の綺麗な顔立ちの青年が瞠目し、黒髪の間に覗く金色の目が私を捉えていた。
20代後半にして人生設計の再検討中。
自宅である古い賃貸マンションの一室、デスクの前で私はため息を吐いた。
◇◆◇◆◇◆
一週間前、台風が過ぎたあの朝、あの子供は消えてしまった。
私が目が覚めたとき、まだ早朝だったが既に夜は明け、風は強いものの雨は止んでいた。
あの子はだんだん警戒を解いてくれたものの、元々警戒していた。目が覚めて自分で逃げたのだろうか。
不審人物がここに入ってきて無理に連れ去ったなら、流石に近くにいた私も起きそうだけど絶対とは言えない。ちょっと外へ出たところで連れ去られた?自分で逃げたとしても……あんな子供が逃げなきゃいけない状況からして尋常じゃない。まともな大人や機関の保護が必要だ。
近所を探し回ったが見つからない。私はあの子の名前すら知らない。
出勤時間になってしまい職場に電話して事情を話し有給をとる旨上司に伝えた。警察や保護に関係しそうな機関に相談するためだ。今日出席予定だった会議は代理をできる同僚の名前を挙げた。
しかし、『そんなことで仕事を休むなんて無責任だ』『自分の子供でもないのに口実だろう』と言われ、目の前が真っ赤になった。
そんなこと?
事件性があるかもしれない、今命がかかってるかもしれない。
それより優先する『仕事』がこの世にどれだけある?
少なくとも私含めその会社に、そこまでの仕事は何一つ存在しませんが?
そして血縁以外の人間には指一本動かさない人間しかこの世に居ちゃいけない前提か?歪んだ世界観だな!
昨日の台風の時もそうだった。台風は毎年来るものだし何日も前から規模まで分かってた。上層部が予め采配していれば、無意味に職場に残され帰宅難民の危機にさらされ、長時間電車に閉じ込められることはなかった。
会社や社会は突発的に天候や人員にアクシデントが発生しても、それを見込んでフォローし柔軟に変化できるシステムを構築する必要がある。それが人が群れを作る理由の一つだからだ。互いが互いの保険となる。
実際私も普通に同僚のフォローをしてきたし、私が名前を挙げた同僚もそうするだろう。
しかし『仕事を最優先にする素晴らしい自分』『それは他者を犠牲にする免罪符になる』という、俺の価値観が崩壊することに感情的な拒絶反応を起こす、終身雇用制度の呪い爺がここにいた。
上層部の無能で起こっているシステムの欠陥を、末端が人権や倫理を無視して無限に仕事を優先しないのが悪いと叩けば誤魔化せる時代はとうに終わっている。
「とにかく今日は出勤できませんし、先程の説明の通りにすれば最低限支障はない筈です。それでも有給が認められないなら無断欠勤扱いで結構です」
そんなことは言ってない、と今度は猫撫で声になり、『女は機嫌を取らなきゃいけなくて面倒』幻想にシフトチェンジしたらしく、中身のない上から目線の言葉遊びを繰り返したり、珍妙な設定の俺話を続ける中年男に、お前は中二病かとうんざりした。
今回に限らずこの会社の上層部は無数にこうした問題があり散々私達は指摘したが、自分達が楽な今の体制直す気はないらしい。もうこの人達は見限ろう。
半ば強引に電話を切って頭を切り替える。時間が惜しい。
警察にまず電話し、更に警察署へ言って説明した。その時になって、写真を取り忘れたことに気付き臍を噛む思いだった。その後、目撃情報とかがないかとネットで探し、保護してる可能性がありそうな機関に連絡したり。
ーーしかしあの子は見つからなかった。
翌日職場へ出向き、正式に辞表を提出し、ついでに会社の数々の問題についてぶちまけた。
あースッキリした。
一時の感情で自棄になったのではない。就職以来ずっと貯めてきた不満が、一定量に達して形になった。
例えるなら、駱駝の背に無理に大量に藁を積み続けて、最後の一本の藁が駱駝の背骨を折ってしまう説話とか。乙女ゲーで好感度が一定量になるとイベントが始まるとか。ちょっと違うか。
同じ仕事をしている同僚が複数いるので引き継ぎはすぐ済んだ。同僚達は名残惜しんでくれた。
上層部への不満を抱え、私達の代で内側から変えられたらいいねと一緒に飲みながら話したのに戦線離脱してごめん、と私が謝ると、羽南が謝ることじゃないよ、と次々手が伸びてきて頭を撫でられた。
皆のオカンとして親しまれる女の先輩は悟ったような寂しげな笑顔で『逃げられる人から逃げた方がいい』と言った。40代の働く女性で今より修羅な時代から生きてきて、なおその言葉を言った深さと重みを感じた。
「話せば変わる人や会社も存在するけど、DV男やモラハラのように認知が歪んでて一生変わらない相手もいて、そういうのは皆で見限って力を削いでいくしかない。羽南の件で会社が変わることを祈るよ。そうでなきゃ私達も後を追うかもね」
オカン先輩は諦めと覚悟を含んだような太い笑みを浮かべて言った。
急遽開いてくれたお別れランチ会では『労働基準監督署と自治体の無料弁護士相談と、まずはどっちが言うのがいいと思うー?』と盛り上がっていた。この同僚達と出会えた私は幸せ者だ、と涙で視界がぼやけた。
数日後、同僚からSNSでメッセージが来た。
『皆で会社を集団訴訟することにしたよ~ん!(^^)b 弁護士と証拠固めしてるからまだ部外秘ね。公開になったら拡散とクラウドファウンディング協力頼むね!』
まだ未公開という口座へ、自分のネット銀行口座から些少ながら振込をした。
同僚達の未来に幸多かれと願った。
あの子が消えて一週間。警察等からあの子が見つかったという連絡がないか待ったり、自分でも探したり。全く足取りは掴めず、忽然と消えてしまったかのようだった。
第三者の私への情報提供は制限されているんだろうか。そうであってほしい。私に知らされないだけで本当は無事保護されていてほしい。
ーー私にできることはもう手詰まりだった。私の手が届く範囲の外になってしまった。
そしてそろそろ、20代後半で無職になった事実にも向き合わなければならない。これからの人生設計を立て直す必要がある。
重いため息をついてタブレットを立ち上げた。
家計簿アプリやネット銀行口座に並ぶ数字は芳しくない。会社を辞めたことに全く後悔はないが、当分海外旅行は無理そうだ。
マグカップの中の大分冷めたコーヒーの残りを流し込み、口の中と心の苦味を飲み下す。
学生時代に世界史に興味を持って以来、私は世界を旅するのが何よりの楽しみになった。行ったことのない様々な国、多様な文化、建築物、自然ーーそこに積み重ねられた重厚な時間。その空間を共有できる奇跡。なんと甘美なことか!
勿論、裕福とは言い難い庶民な一会社員。
一泊2000円のドミトリー(大部屋)に泊まる貧乏旅行で、普段の服はリユースショップで昼食は手弁当の節約生活。今時はバックパッカーであってもそこまで節約せずメリハリつけて楽しむ人は多いのだが、私はひたすら旅に注ぎ込むタイプ。
ワーキングホリデーで海外で働きながら旅しながら生活することも今までも何度も考えたけど、終身雇用制度が未だ根強い日本では、一度手にした会社員という職を失うという選択の不可逆性に恐怖感が今まであった。
…でももう辞めたし、ひょっとして、今こそ思い切る時ではないか?とふと思い至る。
人生一度きり。ワーホリは年齢制限もある。
…よし、ワーキングホリデー、やってみよう!
必要な情報をどんどん検索し始める。そしてふと手が止まる。
ワーホリを始める前に、疲れた自分を癒すことを兼ねてどこかへ数日旅をしておきたいかもしれない。
ワーホリ中は働くだけじゃなくて観光したり自由度が高いけど、現在程の完全なのフリーとは少し違う。
旅行サイトへ移動し行き先を検討し始めーーふいに画面にノイズが走った。
「……ハナ」
突然、背後から低い声がした。
ビクリと滑稽なほど肩が跳ね、勢いよく振り向いた先には誰もいない。
当然だ。私は一人暮らしで、部屋の中には自分しかいない。
いつの間にか日が傾き、部屋の中は夕暮れの陽が陰影を作っていた。アナログの壁時計がカチコチと音を立て空間の静寂を埋めていく。
背中に氷を入れられたような感覚に体を凍りつかせたまま目だけで辺りを伺うが何も変わったことはない。
気のせいかと息を吐いたところに、ザザッとラジオの雑音のような音が走り、また「…ハナ…」と声がした。
音のした方に目を向けると、腰の高さのカラーボックスの上に乗せたスマホがあった。
恐る恐る手に取り確認したが、電源は入っていない。充電しようと思ってそのままにしていたのだ。
「ザザッ……ハナ……」
思わず放り出したスマホは床のラグの上に落ちた。
落ち着け自分。
昔は違法に強い無線が横行していて、音響機器や建材などに共鳴して増幅され人の耳に聞こえたことがあったと、怪奇現象を説明する本で読んだ。
今はどうか知らないが、スマホにも電波の受信装置やスピーカーが入っているから、そういう現象が起こるのかもしれない。
「ハナ……聞こえますか…?」
私は瞠目した。日本語ではない。訛りがあって聞き取りづらいけれど、これは…英語?
「ザザッ……嵐の日、子供を助けてくださったハナという女性を探しています……聞こえますか?…」
SNSの『あなたの心に…話しかけています…』ネタや電波系という言葉が一瞬のうちに心を駆け抜けたが、そんなのは一瞬で、すぐに聞き返した。
「あの子は無事ですか?」
傷つき怯え嵐の中でただ体を固くしていた子供。この声の主はあの子を知っている。
「ハナですか?」
弾んだ声が返ってきた。突然雑音が減ってクリアになった。会話が成立したことでチューニング精度が上がったとか?。名乗るのは不安があったがこのままでは埒があかない。
「はい、羽南です。あの子は無事か教えてください」
「無事保護されました。命の恩人です。本当にありがとうございました。あの朝、突然そちらの世界から弾かれてこちらに戻ってしまいご挨拶すらできず、ずっとお礼を申し上げたくて貴女を探していました」
……『そちらの世界』? そしてお礼を謎の無線交信(?)で伝える意味が分からない。
声は若そうな男性のもので、温かそうな情がこもった声音だった。ーーしかし、あの子は虐待されていたのだ。この怪しすぎる男が犯人だとしたら?
「あの女の子の声を聞かせてください」
腹に力を入れ、毅然とした声を心掛けて言った。
「え…」
「私も一度保護した以上、最後まで無事を見届ける責務があります。あの女の子を出してください」
困惑したような雰囲気が伝わってきた。
そして突然、スマホの近くに40cm四方程の画面が現れた。
画面の中、褐色の肌の綺麗な顔立ちの青年が瞠目し、黒髪の間に覗く金色の目が私を捉えていた。
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