みじかいもの

栂嵜ここみ

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ふみをよむこと

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 貴方に恋を、しておりました。
 そんな言葉から始まる文を呉藍クレノアイはどうにも捨てられずにいた。女やもめで早云十年。すっかり黄ばんだこの紙切れは、尻尾五本分の頭の出来の妖狐に、とうに失った良人の大きな固い掌が己の細い金の髪を撫で梳かすような白日の夢を見せるのである。
 呉藍は暇を見つけては懐に入れたそれを取り出し眺めた。酒に酔うのと同じくらい、或いはそれ以上に頻繁に。そらで言えるほど何度も読み返した文面に目を走らせては慣れた手付きで再び仕舞う。その一連の仕草は習慣となって久しいものだ。

「薬師、手空きか?」

 今日も今日とて文を眺め変わらぬ午後を過ごしていた呉藍は不意に降ってきた声に顔を上げた。獣の耳をピンと欹て声の主を探し視線を彷徨わせる。目の前の薬箪笥からぐるりと巡って部屋を見回せば、障子越しに一つ、珍客の影があった。律儀に障子の向こうで返事を待っているらしい人影は呉藍よりずっと大柄で、頭に一本長い角を生やしている。見覚えのあるそれに彼女はそっと目を細めた。

「百武殿か」

 確認するように問えば応と短い返答。

「貴方が来るとは珍しい。誰ぞ病でも?」
「いや野暮用の帰りでな、通りすがりに寄ってみただけだ。邪魔していいか?」

 断りを入れる声にどうぞとこちらも短い返事を一つ。障子を開けた男……百武丸モモタケマルは挨拶替わりに軽く手を挙げるとどかりと無遠慮に縁側へ腰を下ろした。相変わらず礼儀がなっているのかいないのかわからない男だ。ついつい嘆息を漏らすが当の本人は素知らぬ顔で部屋の中を見回した。

「此処を閉めてちゃ商売上がったりなんじゃねぇの」

 爪紅の塗られた骨張った指が軽く障子の桟を叩く。

「薬師の商売なぞ開けても開けなくても一緒さ。本当に薬が必要な客は自分で開けて尋ねてくる」
「そんなモンか」
「そんなものだよ」

 ふぅんと気のない返事をして百武丸は自慢の竜尾を揺らした。開け放たれた障子から差し込む陽の光が艶やかな黒金色の鱗を滑る。その煌めきに思わず目を奪われれば尾は逃げるように呉藍から遠ざかった。

「……やらんぞ? 自然に剥がれる分には良いが故意に鱗を剥がすのは流石に堪える」
「失敬な。私がそんな粗相をする女に見えるか?」
「初対面で角を見て薬の材料にしたいとのたまった女狐がいてな」
「さて何のことだったか」
「頰被りめ」

 わざとらしくとぼける呉藍に百武丸は呆れた様な顔をして袖口から煙管を取り出した。男の鋭い金の目が手に持ったそれの先からゆるりと呉藍に向いて、火を寄越せと言外に語っている。
 呉藍は「煙は嫌いだ」とそっぽを向いてそれを拒んだ。格上相手に取るには大層不遜な態度であったが、百武丸は怒る素振りもなく肩を竦めると渋々と煙管を袖に仕舞い込んだ。

「しかしまぁ、酒の席以外で会うのは本当に久しぶりだな。ちっとは外に出た方がいいんじゃねぇの」
「別に引き篭もってる訳じゃないさ。誰かさんがここに立ち寄らなくなっただけだろう」

 まるで隠遁者か何かのような言い草に少し憮然とした声音で反論すれば、百武丸はからりと愉快げに笑ってみせる。

龍人俺らにゃ薬は無用の品だからなぁ」
「用が無くても来てただろう、昔は」
「暇人みたく言ってくれるな。これでも結構忙しいんだぜ?  何せ喧嘩っ早い妖怪クソガキ共を仲裁せにゃならんからな」

 当事者を片っ端から伸して場を収めるのは仲裁ではなく喧嘩両成敗とか鉄拳制裁とか言うんじゃないのか、という言葉は口には出さなかった。恐らく言わなくても分かっているだろう。ニヤリと歯を見せ笑う百武丸に呉藍は言葉の代わりに生温い視線を送りながら、少し渋めの茶を出そうと心に決めて茶筒の蓋を緩める。
 その時ふと、視線を外して百武丸は呟いた。

「……まぁ確かに昔はよく来てたな。アイツが死んで、売る喧嘩もなくなっちまった」

 さっきまでと打って変わって静かな声が一瞬の沈黙に嫌に響いた。
 アイツ。そう呼ばれた彼の人のーー夫の顔が呉藍の頭を過ぎり、急須に伸ばした手を止める。そのまま数秒。結んだ唇を弛めて、閉じて。行く先に惑って浮いたままの掌で、宙を掴んで緩く握る。脳裏に浮かぶ伴侶は笑顔だった。幾つも傷痕の残る己の顔に『貴女に釣り合わない』と要らぬ恥じらいを抱いていた彼の人は、せめて笑みくらいは和らいで見える様にと、眉を下げて情けない顔で笑うのだ。
 呉藍は浅く小さく息を吐き、ともすれば溢れ返る思い出を振り切って目を瞬かせる。百武丸はそんな彼女に一瞥すらくれず、何てことのないように欠伸を一つすると外から差し込む暖かな陽気に心地よさげに目を細めた。

「……あれが買っていた覚えはないが」
「そりゃかわいそうに。おっかねぇ細君に財布の紐握らってたからなぁ」
「失礼、茶ではなく漢方を御所望だったか。とびきり効くのを用意しよう」
「待て待て俺が悪かった、悪かったからやめろ。苦いのは敵わん」

 綺麗に笑顔を作って立ち上がろうとする呉藍を百武丸が焦った様子で引き止める。並大抵の毒や酒など物ともしない偉丈夫は存外甘党だ。慌てて減らず口を引っ込めた彼に「分かればよろしい」と鼻を鳴らして腰を落ち着ける。安心したとばかり胸を撫で下ろす姿に少しばかり溜飲が下がるのを感じて、まぁ、渋めの茶は取りやめてやる事にした。
 掴み損なった急須を今度こそ手元に引き寄せてお湯を注ぎ、茶葉を蒸らす。そうして開いた茶葉の芳しい香りが注ぎ口から漏れ出でて鼻翼を擽るようになるまで、どちらも口を開かなかった。

「どうぞ」

 並べた湯呑に茶を注ぎ彼の傍らに一つを置いた。百武丸は軽く礼を言って湯呑を手に取ると一口飲んで息を吐く。呉藍はその隣に座り、自分の湯呑に口を付けた。

「……あれは、良い男だったなぁ」

 ぽつりと、感慨深く百武丸は零した。

「龍をも恐れず、しかし驕らず。通る名こそなかったが、実のある男だった」

 龍は猛者を好む。それは龍人である百武丸にも例外ではなく、彼は件の男をいたく気に入っていた。
 呉藍の夫はかつて妖狩りを生業としていた人間であった。貧しい故郷の為、己の生活の為にと刀を携え身の丈より大きな妖を狩る。木っ端者は言うまでもなく、時に格上の相手とも臆さず渡り合うその実力は長らく同族から離れて暮らしていた呉藍の耳にさえ届いた程だ。
 そんな男がこの妖狐の夫となったのは、ただ偏に、男が恋に落ちたからだった。
 一目惚れだと、嫁になってくれと。そう言って押しかけて来た日には大層驚いたし拒みもしたものだけれど。それでも足繁く通っては求愛する彼に絆されてしまったのだから己も大概な数奇者だったのだろうと呉藍は思う。

「叶うなら一度、本気のあれと相撃ちたかったが……お前に取られちまったな」

 どこか悔しそうに目を細めた百武丸を一瞥し、肩を竦める。彼が言っているのは呉藍が男の番となる時に交わした約束のことだ。
 『無益な殺生をせぬ事』。
 『どうしてもという時以外、得物を決して持たぬ事』。
 それが出来るなら番になってやろうと、男に彼女なりの無理難題を強いたつもりだった。
 ところが彼女の予想に反して男は誠実に約束を守り頑として刀を握らなかった。それどころか彼女の前で商売道具かたなを折ってさえ見せたのだ。郷を捨て縁も捨て、これまで培ってきた全てを擲ってまで手に入れる。それほどの価値を男はこの女狐の伴侶となることに見出していたらしかった。
 元の棲家を離れ今のこの町に居を構えることになったのはその約束より後の事。対面も早々に男の正体を嗅ぎとった百武丸にしてみれば、骨のある輩が来たと思えば既に骨抜きにされた後だというのだからさぞ拍子抜けだったことだろう。
 ……まぁ、そんな義理堅いところもまた好ましく思っていたようで、移り住むにあたって何かと便宜を図ってくれた訳だが。

「人間ってのは、儚いモンだ」

 しみじみと、実感の込められた呟きに呉藍は百武丸の横顔を盗み見た。緩く細められたその目は何処か遠くを見ているようで。だからだろうか、口端を上げた笑みはどこか自嘲じみて見えた。
 呉藍より大層長生きなこの龍人は昔の話をあまりしたがらない。何時だって何でもないように粗野に豪気に振る舞うのが百武丸という男であったし、そこが美点だと少なくとも呉藍は思っていた。
 だからこの龍人がこうやって達観したような顔をしてみせるのは、呉藍にとって全くの予想外だった。考えてみれば長生きな分だけ出会いも別れも人一倍多く経験しているのだから、思う所があったとて何らおかしな事ではないはずなのに、この男が感傷に浸る姿だけはどうにも想像し難かった。

「……そうだな」

 動揺を呑み込んだ呉藍の口から代わりに出てきたのは短い肯定だった。

「強く儚く――その癖、不器用な人だった」

 そうして服の上からそっと懐に手を添わせ、目を閉じる。
 かの男が短い人の一生で書き残した文は結局これ一枚だった。あんなに熱烈に求婚しに来た癖に恋文一枚書くのに何日どころか何年も費やして、その上それを渡すまでも長かったのだ。書いていることを分かっていながら中々手渡されないそれに、どれだけやきもきと待たされたことか。
 彼の人が病で命を落とすまで、二十余年。男の伴侶として生きた日々は人にとっては長くとも妖狐にとっては短い道程であったが、それでもその時間の尊さはきっと同じだったと信じている。

「いつだってこっちを好きなだけ振りまわして先にいなくなっちまうんだから、全く、人間ってのは厄介だ」
「それでも好きな癖に」
「応とも」

 悪びれもせず笑ってみせる百武丸に、呉藍もまた笑う。
 いつだって置いて行かれる長生きなわれらに出来ることは、精々忘れないで居てやることくらいだ。
 たとえこの手紙を失ったとしても、……いつか違う誰かと共に歩むことになったとしても。不器用な男が己の傍らに居たことを覚えておくことぐらい許されるはずだから。

 貴方を愛しています。 
 そんな言葉で締め括られた文を、彼女は今日も飽きもせず眺めるのだ。
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