みじかいもの

栂嵜ここみ

文字の大きさ
2 / 2

シリアルキラーの恋心

しおりを挟む
 曖昧模糊。
 泡沫のように朧気で、綿毛のように儚い記憶。夢か現かも分からなくなるまで擦り切れて色褪せた記憶。
 だが、それでも。
 あの日彼は確かに恋をしたのだ。

 ルートヴィッヒ・クロウリーには何物にも代え難い記憶がある。
 それは子供の頃の朧気な記憶で、一体いつ頃のどこでの出来事だったのかも今となっては思い出せない程風化してしまっていたが、しかしそれでも彼にとって大切であることに変わりはなかった。
 いつかどこかの光景。薄紅色の木漏れ日が煌めく情景。その中で『彼女』は笑っていた。名前も知らなければ顔も覚えていない娘。だがその白雪のような銀髪と彼女が確かに笑顔だったということだけは間違いなく記憶している。
 記憶の中のルートヴィッヒはそんな娘に花を一枝差し出した。薄紅色をした異国の花。年上の彼女に格好付けようと子供心に考えた、気障ったい贈り物だった。
 それを娘は大事そうに受け取って笑うのだ。

「――、――」

 彼女は何か言って……恐らく礼だろうが……空いた手でルートヴィッヒの頬を撫でる。ひんやりと冷えた手が肌を滑る感触が酷く心地よくて、彼は目を細めて娘を見上げた。見返す娘の顔に浮かぶのは柔らかな微笑。それを見ているだけで彼の胸はどうしようもなく高鳴った。

 これが、これだけが彼の最も大切な記憶の全て。想いを遂げたわけでもなければ想いを告げたわけでもない、ただ贈り物をし触れ合っただけのほんの些細な出来事。だがそれは彼の殺伐とした人生の中で最も美しく穏やかな一時だった。
 褪せてなお輝く思い出。彼は何度もそれを写真のように手に取っては眺める。何度となく垣間見る優しく美しい人。思い出す度に恋い焦がれるルートヴィッヒの想い人。記憶というものは須く都合良く美化されるものだと分かっていて、それでも彼は記憶に縋った。そうせざるを得ないほどに世間一般的に見て彼の現実は非情であった。
 現実という毒の海の中で磨り減った精神が、錆び付いた心が『彼女』を求める。彼女の微笑みを見るその一時が彼の朧げな心を支えていた。

「――?」

 ふと、茶化すような口振りで記憶の中の彼女が何かを尋ねる。先程とも違うどこか悪戯っぽい笑み。それもまた魅力的で。幼いルートヴィッヒは彼女の言葉に笑顔で頷く。
 そして、

 ――水音が、遮った。
 ポタ、ポタ、と。水が滴り落ちる音がする。音の出所は近い。ルートヴィッヒがその音に気付いた途端、愛おしい褪せた世界は彼の手をすり抜けて急速に遠ざかっていった。
 ああ、またか。と。感じ慣れた落胆と共にゆっくりと肺の中の空気を吐き出す。そうして彼は回帰の海に沈んでいた意識を掬い上げた。
 真っ先に気になったのは縁取られた狭い視界だった。何か厚みのある固いものに顔を覆われている。普段の伊達眼鏡とも違う狭まった視界が夜の闇を彼の脳により暗く認識させていた。
 一体何が己の視界を狭めているのか確かめるべく手で顔に触れようとして、ようやく自分が片腕で何かを抱きかかえていることに気付く。柔らかく重みのある『何か』。その感覚に軽い既視感を覚えるがそれが何だったか思い出せない。
 ……本当に、何をしていたのだったか。ぼんやりと靄のかかった頭のままで彼は空いた手を顔へと伸ばした。そして手袋越しに指が触れた固く冷たい陶器の感触にようやっと完全に意識が浮上する。

「……あぁ、」

 そうか、と続く筈の言葉を飲み込んで彼は己の格好を思い出した。陶器製の仮面に山高帽とマフラー。足先まで覆う黒いマントの下には同じく黒いスーツを纏っている。まるで舞台上の怪人のような出で立ちは、その通り怪人を意識したものだ。
 そんな自分の姿を思い出したとほぼ同時に覚醒した頭は彼の直前の記憶も掘り起こしていた。胸に抱いている『それ』の正体が何かを思い出し顔ごと俯いて下を見下ろす。
 ルートヴィッヒが抱えていたもの。それは銀髪の女だった。
 ……女だったもの、だった。
 下半身が無い。まるで刃物で一刀両断したかのように綺麗に女の体は真っ二つに切り取られている。にも関わらず何故か出血は少なかった。仮に誰かが下から覗き込んだなら血に邪魔されずその断面を見ることが出来ただろう。切り口から流れ出した少量の血液がポタポタと零れて小さな血溜まりを作っている。水音はそこからしていたらしい。
 ルートヴィッヒの腕に抱かれる女の目は完全に瞳孔が開き切り、だらりと垂れ下がった腕は青白く生気を失っている。死んでいる。そうと理解して尚、腕に抱いた遺体を眺めるルートヴィッヒの心境は至極冷静だった。
 思い出した記憶の通りならほんの数分前まで夜の街を歩いていたこの女を殺したのは他でもない彼自身なのだろう。だがそのことに何の感情も抱かない。それほどまでに、誰かが死ぬことにも……誰かを殺すことにも慣れきってしまっていた。
 悪魔、亡霊、化け物、狂人。他人が彼を形容する言葉は沢山あるが、最も端的に表すのならば、
 『殺人鬼』。
 その一言に尽きる。
 暫し女の顔を眺めて彼は仮面を外した。ひやりとした外気が頬を撫で目を細める。そして女を支える手指に仮面を挟むと空いた手で女の手を取った。脈も体温もない手。それを躊躇いなく己の頬にあてがう。指を這わせ撫でさせて、直に触れる女の手の感触に僅かな満足と共に真反対の嫌悪を覚えた。

「――違う」

 求めていたものと、違う。感じた違和感を口から吐露して眉根を潜める。
 褪せてなお大切な記憶は褪せていくが故に焦燥を生む。彼女の顔も言葉も、思い出せることが次第に減っていく。このままではいつか記憶は完全に風化し失せてしまうだろう。それが彼には何よりも恐ろしかった。
 色褪せるほどに執着して、執着するほどに恐怖する。墜ちていく負のスパイラルをルートヴィッヒには止めることが出来ない。もう一度触れ合いたい、彼女を記憶に焼き付けたいと、どれだけ哀願しようとも叶わないもどかしさが恋の火のように身を焦がしていく。
 そしていつか彼は己の内で悪魔が囁くのを聞いたのだ。
 『記憶を失うことが怖いなら、消えてしまう前に再び現実にしてしまえばいい』のだと。
 記憶の再現。いや、再演か。
 彼女と同じ銀髪の女に『彼女』の役を当てはめて、彼女が触れてくれたあの日あの時を再び演じて。それが彼の思いついた、消えゆく記憶を無理矢理を繋ぎ止めるためのその場しのぎの応急措置。それが沢山の誰かを犠牲にする行為だと分かっていても構わなかった。
 ルートヴィッヒはそっと天を仰ぎ息を吐く。十何人目かの再演はやはり上手くいかなかった。また慣れた落胆を感じながら、彼は抱いていた女を地面に置き去りにして再び仮面を被り歩き出す。その心の憂いはまだ、晴れない。
 そうして殺人鬼は次なる獲物を求め再び夜の闇に溶けた。


しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。

ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。 彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。 婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。 そして迎えた学園卒業パーティー。 ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。 ガッツポーズを決めるリリアンヌ。 そのままアレックスに飛び込むかと思いきや―― 彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

「お前を愛する事はない」を信じたので

あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」 お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。

義務ですもの。

あんど もあ
ファンタジー
貴族令嬢の義務として親の決めた相手に嫁いだが、夫には愛する人がいた。夫にないがしろにされても、妻として母として嫁としての義務を果たして誠実に生きたヒロインの掴んだ、ちょっと歪んだ幸せとは。

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

【完結短編】ある公爵令嬢の結婚前日

のま
ファンタジー
クラリスはもうすぐ結婚式を控えた公爵令嬢。 ある日から人生が変わっていったことを思い出しながら自宅での最後のお茶会を楽しむ。

蝋燭

悠十
恋愛
教会の鐘が鳴る。 それは、祝福の鐘だ。 今日、世界を救った勇者と、この国の姫が結婚したのだ。 カレンは幸せそうな二人を見て、悲し気に目を伏せた。 彼女は勇者の恋人だった。 あの日、勇者が記憶を失うまでは……

処理中です...