看守の娘

山田わと

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幕間Ⅳ

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 部屋の空気は、ひんやりと冷たかった。

 壁も床も灰色の石で覆われており、窓ひとつない空間には、天井から淡い灯りが降り注ぎ、ぼんやりと辺りを照らしていた。

 余計なものは置かれておらず、机と椅子がひとつずつ、向かい合っている。

 その椅子に、男は腰をかけていた。
 背筋をかすかに丸め、膝の上で手を組んでいた。
 指先は汗ばんでおり、爪の下に食い込むほどの力がこもっている。

 動かないようにしているのは、そのほうが安全だと、本能がそう判断しているからだった。

 向かいにいるのは、統領エリック・ジルベールだ。

 彼はただ静かに、書類に目を落としている。
 その膝の上には、漆黒の猫が丸くなっていた。尾を気まぐれに揺らしながら、ぴたりと身を寄せている。

「ルネ・サントレール君の前任看守として、わざわざ来てもらって感謝している」

 エリックの声が、男、ルネの前任看守の耳に届いた。
 抑えられた音量で、語調も穏やかだったのに、部屋の隅々にまで澄んだ水のように染みわたっていく。ただそれだけのことで、背骨の内側に冷たいものが這い、前任看守は思わず頷いていた。

「君の件については、もう少し後で判断しようと思っていた。けれど、健気な少女のありようを目にした後では、少しばかり確認しておきたくなってね」

 ゆるやかに顔を上げたエリックの目が、冬の空のような冷たさと深さを宿していた。
 前任看守は、その視線に射抜かれたように、呼吸を忘れた。

「単刀直入に訊こう。君は看守だった。その任にともなう責任と裁量を持った者として、あの少年の生活と安全を預かっていた。にもかかわらず、実際の証言とを照らし合わせると、そこにあるのは看守ではなく、加害者の姿だ。それを君自身はどう考えている?」
 室内の空気が、一瞬で硬くなったように思えた。
 前任看守の喉がごくりと動き、湿りのない声がかすかに漏れる。
「……あの頃は、誰もがそうだったんです。王家への憎しみは、空気みたいに当たり前で。口に出さなくても、皆、同じ気持ちだった。……だから、あの子が、王の血を引いているなら……それなりの扱いを受けるのも、当然だと……そのときは、本気で、そう思っていて……」
 しどろもどろな言葉が、途切れ、また繋がる。
 自分でも、その言い訳がどれほど苦しいものかはわかっていた。
 それでも、何か言葉を出さなければ、黙っていることのほうがよほど恐ろしく思えた。

 エリックは、書類に視線を落とし、しばし無言だった。

 やがて、わずかに声を落として口を開く。
「私は政権を引き継いだとき、彼の身の安全は保障されるべきだと明言した。王子という肩書きはもうない。だからこそ、罪人として扱うことも、英雄として崇めることも許さないと、そうも伝えてあるはずだ。……君の上司に、直接ね」
 前任看守の喉が、かすかに鳴った。
 顔を上げようとするが、どうしても視線が定まらない。
 手のひらにじんわりと汗が滲むのを感じながら、声を絞り出すように言葉を継いだ。
「……そのお言葉……私は、本当に、存じ上げておりませんでした。たしかに……たしかに、私はジョゼフ様から直接、指示を受けておりましたが……そのような方針が、政権から明言されていたとは……一度も……」
 エリックは、わずかに視線を持ち上げた。
 書類の上で組んだ指が、音もなくほどかれる。
「つまり、伝えられるべきことが、伝えられなかった。政権の方針は明文化され、通達されていた。だが、君には届いていない。……君の上司、ジョゼフ・エルヴァンからも、一言も」
 言葉が途切れると、まるで音そのものが凍りついたかのように、部屋に深い沈黙が落ちた。
 前任看守は、眉根を寄せたまま微動だにできず、両膝の上に置いた手が、震えるのを止められなかった。
 その様子を、エリックは何も言わずに見ていた。
 彼の眼差しには怒気もなければ情けもない。ただ、透きとおる湖面のような静けさがあった。

「……教えてくれないかい?」

 不意にエリックが口を開いた。水面に一滴、石を落とすような、静かで深い声だった。
「君に、ルネ君を虐げよと命じたのは、誰だった?」
 問いかけに棘はない。
 ただ、逃げ場のない重さがあった。まるで答えを知っている者が、確認のためだけに問いを発したかのように。
 前任看守は息を呑んだ。
 エリックの眼差しに、糾弾の色はなかった。だが見逃す意志もまた、そこにはなかった。
 喉がひきつり、唾を飲み込む音が自分の耳にも響いた。
 沈黙が長くなればなるほど、言葉を飲み込むこと自体が裏切りのように思えた。
 それでも、何をどこまで言っていいのか、その線引きを探るように、前任看守は口を開いた。
「……最初に、あの方の扱いについて伝えられたのは、文書でした。名前も印もなく、ただ上からの意向として、簡潔な指示が。……ただ、その後……直接、「相応の扱いを」と、一度だけ念を押されたことがあります。……名を口にすることだけは……どうか…どうかお許しください」
 エリックの膝の上に丸まっていた黒猫が、頭をもたげる。
 彼は視線を落とし、そっとその小さな頭を撫でた。
「……そうか」
 それは返答のようでもあり、独り言のようでもあった。
 追及は、そこでいったん、途切れた。前任看守は、ほんのわずかに深い呼吸を取り戻す。

 だが続けられた言葉に、彼はゆっくりと目を見開いた。

「ところで。甚振るのは、楽しかったかい? 嗜虐の衝動は、満たされた?」
 そう問いかけるエリックの声は、先ほどの凪いだ調子とは違い、どこか楽しげな響きを帯びていた。
 まるで世間話でもするかのように、軽く、朗らかに響く。
 けれどその笑みの奥にあるものは、温度のない刃だった。
「顔を歪め、声を上げ、怯える彼を、君はどんなふうに見ていた?」
 前任看守の瞳がかすかに揺れた。返答を用意する暇も与えず、エリックはなおも軽やかに言葉を重ねる。
「命令だったと言ったね。けれど、その命令を君はどう受け取った? 義務として? 仕方なく? それとも、待ち望んでいた?」
 喉の奥で、わずかな呼吸音が洩れた。
 否定も肯定もないまま、それだけが前任看守の反応だった。
「許されたと思ったんだろう。人として越えてはならない線を、越えていいと誰かが言ってくれた。その瞬間、君は自分の中の“それ”を、解き放った。恍惚を正義にすり替え、欲望を役割に変えた。……そうして、あの子を蹂躙して穢した」
 エリックの視線が、ほんのわずかに鋭さを帯びた。
「それでもまだ、命令だったと言うつもりかい?」
 その問いかけは、もはや反論の余地すら与えていなかった。
 笑みと言葉という形を取りながら、理屈の外側から突き刺さる。
 前任看守の胸奥に張り巡らされていた防壁は、ひとつ、またひとつと音もなく綻びはじめていた。

「……私は……そんなつもりじゃ……」

 震え混じりの声が、空気の中にかすれた。
 自分でも、何を否定しようとしているのかわからない。
 視線は揺れ、指先は膝の上で固く握られ、皮膚が白く浮き上がっていた。
「私は、ただ……命令に従って……」
 その言葉は、もう支えにならなかった。
 喉の奥で揺れた声は、自分でも嫌になるほど頼りなかった。エリックの問いが、頭の奥で何度も反響している。

『楽しかったかい? 嗜虐は、満たされたかい?』

 否定できなかった。
 泣き叫ぶ声に、胸が疼いた。
 逃れようとする細い手首を押さえつけたとき、自分の内側が、ぞくりと震えたのを覚えている。

 涙の跡も、ひきつった喘ぎも、震える身体も、命令を超えた刺激だった。

 確かに楽しかったのだ。彼が崩れていくさまに、快感を覚えていた。
 喉の奥で湧いた笑いを、あのとき自分は抑えきれていなかった。
 嗜虐という言葉が、まさに当てはまる。命令に従ったつもりでも、身体はずっと昂っていた。
 前任看守の喉が詰まったように震え、ぎり、と歯が鳴る。
 額に浮いた汗が、こめかみを伝って落ちていった。
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