看守の娘

山田わと

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Echo37:沈めた問い

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 昼下がりの塔には、しんとした静けさが満ちていた。
 細い窓から差し込む光が、床に斜線を描いている。
 どこかから鳥の声が遠くかすかに聞こえ、空気にはわずかな石の匂いが漂っていた。

 アリセルは棚の近くに腰を下ろし、開いたままの本を膝に置いていた。

 けれど目はそこに留まっておらず、ぼんやりと視線だけが宙をさまよっている。

「……アリセル?」

 ルネはアリセルの隣に座り込んだ。
 やわらかい声音の中に漂うのは、案じるような気配だった。
 アリセルは驚いたように瞬きし、慌てて小さく笑ってみせた。
「ごめんなさい。なんだか、ぼんやりしてたみたい」
 ルネは首を傾げるようにして、彼女の顔を覗き込んでくる。
 その瞳の青さと、眼差しの真っ直ぐさに、胸の奥がわずかに詰まったように感じられた。
「最近、変だよ。元気ないし、なんだか遠くにいるみたいで……」
 ルネの言葉に、アリセルは目を伏せた。
 否定することもできたけれど、咄嗟に返せるほど、自分の中は整っていなかった。

「……うん、そうかもしれない」

 そう認めると、胸の奥に少しだけ空気が通った気がした。
「なんでもないって言えば嘘になるけど、でも……ちゃんと話せるほど、まだうまく言葉にできなくて。色々な事があって、少し混乱しているんだと思います」
 自分でも、曖昧すぎる返答だと思った。だが今はこれが精一杯だった。

 ユーグとデイジーが付き合うとなったこと。
 客人たちが口にした政治の話。
 自分の身分を前提にした教育のこと。そしてルネに施される教育のこと。

 どれもが、自分の知らない所で決まっていて、手の届かない所で進んでいた。
 目の前で起きているはずなのに、まるで別の場所の出来事のようで、ただその渦の中にいるだけの感覚が、時折、息を苦しくさせた。

 ルネはすぐに返事をせず、少しだけ黙っていた。

 その沈黙が、なぜか居心地の悪いものには感じられなかった。
 やがて、彼はぽつりと呟くように言った。

「僕は、アリセルにはいつも笑っていて欲しいと思う」
 その言葉にアリセルは、はっとして顔を上げた。
「でも、無理に笑わなくてもいいよ。ちゃんと、待ってるから。話せるようになるまで」
 アリセルは何も言えなくなって、ほんの少しだけ、彼の方へ体を傾けた。
「ありがとうございます、ルネ様」
 名前を呼ぶ声は、かすかに掠れていた。
 ルネがためらうように、そっとアリセルの手に触れる。アリセルはその温もりを受け止めるように、きゅっと握り返した。握られた手を見つめたままルネは言葉を継ぐ。

「……この前、ジョゼフさんが来てね。デイジーさんのことで話があったんだ」
 ルネはいつになく真剣な表情をしていた。言葉を選ぶように、慎重に続ける。
「教わることは、ちゃんと意味があるって。大切な人と向き合うために、知っておかなきゃいけないことだって。……きっと、近いうちに必要になるからって」
 少し言い淀んだあと、彼はまっすぐアリセルの目を見て、静かに言った。
「僕にとっても、アリセルにとっても。……不安がないわけじゃない。でもちゃんとしないといけないんだと思う」
 アリセルはふと、息を浅く吸った。
 言われたことの意味が、すぐには理解できなかったわけではない。

 ただ、その言葉の奥にあるものを、知ってはいけないものとして、本能のように拒んでいた。

 この所、周囲で起きているいくつもの出来事。
 デイジーが呼ばれた理由、ユーグに向けられた両親の視線、教えの内容。

 すべてが、同じ方角を向いている気がした。

 だが、それを結びつけてしまうのが怖かった。
 もしもそれが、未来の形をもう決められてしまっているものだとしたら。
 自分の意志が入り込む余地のない、最初から用意された道筋だとしたら。

「それって、どういう……」

 そう聞きかけて、唇だけが動いた。
 けれど声は出なかった。問いかければ、きっとはっきりしてしまう。
 曖昧なままのほうが、ずっと楽だと思ってしまった。

 アリセルは視線を落としたまま、そっと手をほどいた。
 静かな動作だったが、離れた指先にかすかな迷いがにじむ。
 ぬくもりが名残のように残っていて、言葉にしない選択を、自分自身が確認しているようだった。

 そのまま立ち上がり、棚に置かれた布張りの本に手を伸ばす。
 表紙をなぞる指が少しだけ震えたが、それを見せないように笑みを浮かべた。

「……ルネ様。このお話、好きでしたよね」

 声は静かだったが、語尾にはわずかな明るさが添えられていた。
 返事を求めているわけではなかった。ただ、空気をそっと移し替えるように、言葉を置いた。
「良ければ、このあいだの続きを。きっと、面白い場面に入るところです」
 アリセルは本を開き、ルネの隣に再び腰を下ろすと、膝の上に本を広げた。
 視線を落とし、小さく息を整えてから、口を開いた。

「籠の中の光はやさしく、食べものは甘く、温かかったのです。「外は嵐と影、牙と爪」そう教えられて、小鳥は目を閉じました。囲いは小鳥を守る世界でした」

 声音は穏やかで、淡々としていた。
 感情を込めすぎず、かといって平板にもならないよう、ひとつひとつの語を丁寧に整えていく。

 言葉を紡ぎながら、自分の中のわだかまりを遠ざけようとしていた。

 ルネは動かず、黙って耳を傾けている。

「ある日、風が吹いてきました。籠のすき間から、軽やかに差しこみ、小鳥は羽を揺らしたのです。風は冷たくも熱くもない、知らない匂いをまとっています。小鳥はまぶたを、羽根を、心をひらきました」

 ちらりと横をうかがうと、ルネは俯き、じっと本の頁を見ていた。
 長いまつ毛の影が頬に落ちている。
 表情は読めなかったが、膝の上の手がそっと指を丸めていた。アリセルは頁をめくった。

「小鳥は気がつきました。こわい話は、「鍵」の言葉だったのだと。その翼が知っていたのは、最初から風のかたちだったと。羽ばたきが、世界をこえ、籠にはもう影もありません。うたが、光が、自由が、風とともに踊っています」

 そのとき、不意に、ルネの声が静かに割り込んだ。

「……アリセルの声、落ち着くね」
 読み上げていた言葉が、ぴたりと止まったが、アリセルは本から目を離さなかった。
「ずっと聴いていたくなる。……そう思っただけ」
 それきり、ルネは何も言わなかった。
 ただ膝の上で手を組み直し、目を伏せたまま、続きを待っているようだった。

 アリセルは再び頁に目を落とした。

 朗読を再開するまでに、ほんのひと呼吸、間があったが、その声は崩れなかった。
 揺れていたのは、胸の内側だけだった。
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