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Echo36:愛と抑圧
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宵闇の静けさが家を包み込んでいた。
扉を閉めると、冷えた空気が背中に残る。
アリセルはそのまま、居間へ向かった。
灯りのともる部屋の中では、ミーシャが刺繍に目を落とし、ジョゼフは椅子にもたれて本を読んでいた。揺れる火の光に照らされて、二人の横顔は穏やかで、どこか安らいでさえ見えた。それなのに、胸の奥にわだかまるものが、言葉となって喉元にせり上がってくる。
「……少し、お話をしてもいい?」
不意に声をかけたアリセルに、ミーシャが顔を上げた。
ジョゼフも静かに娘のほうへ目を向ける。
「デイジーの事なんだけど……。その、ルネ様に、そういう……男性としてのことを、教えるために呼んだの?」
ジョゼフはゆっくりと本を閉じた。
そこには動揺の色はなく、寧ろ初めから想定していたかのように、頷いた。
「ああ。彼には学ぶべきことがあるからな。体のことも、心のことも……誰かと向き合うためには、必要な知識だ」
父の口調は柔らかで、ただ静かに、そうであると告げていた。
アリセルは、きゅっと拳を握りミーシャに目を向けた。
「……私にも……彼女を通して、そういう関係のことを、教えるつもりなの?」
最後まで言い切るのに、思った以上の力が要った。
だが、両親の前で言葉を濁したままにはしておきたくなかった。
聞く以上は、きちんと問わなければ意味がないと、どこかで思っていた。
ミーシャが椅子を離れ、アリセルのそばまで来た。
戸惑いを隠しきれずにいる娘を、そっと見つめる。そして何も言わず、手を取り、両の手で包みこんだ。
「……アリセル。驚かせてしまったわね」
それは、かつて熱に浮かされて眠れなかった晩、耳元で聞いた声と同じ響きだった。
アリセルの眼差しが、わずかに揺れる。
「でもね、これは恥ずかしいことではないのよ。誰かと心を通わせて、身体を重ねること。それは人として自然なことよ」
ミーシャの言葉はゆるやかで、どこか祈りにも似ていた。
娘を傷つけたくないという想いが、その声の隅々に滲んむようで、アリセルの息はつまる。
受け取るべき言葉を目の前に差し出されているのだと感じながらも、それを胸の奥に落とすことができずにいた。
分からないわけではない。だが、なぜという思いが、まだ拭えなかった。
「……私は、まだ何も知らないのに……そんなこと、いきなり……」
囁くようにこぼしたその言葉に、今度はジョゼフが口を開いた。
「だからこそ、だ。知らないままでは、誰かに翻弄されるだけになる。お前が誰かに傷つけられるようなことが、あってほしくないんだ。学ぶことは、守ることでもある」
理を語る父の言葉は、どこまでも穏やかで、淡々としているのに、切実に響いた。
アリセルは視線を落としたまま、じっと黙っていた。
母の手の感触が、指先からじわりと伝わってくる。
「それでも、ルネ様には負担が大きいと思う」
やがて自分でも気づかない程、小さな声が零れ落ちる。
言わずにはいられなかったのだ。胸の奥にずっと引っかかっていた思いが、ようやく言葉の形をとった。
「ルネ様は、近頃やっと話してくれるようになったの。笑ってくれて、食べてくれて、触れても怯えないでくれるようになった。……それなのに……」
アリセルの声は、かすかに掠れていた。
両親の顔を見ることができず、視線は膝のあたりで留まったままだった。
ジョゼフとミーシャは、言葉を返さなかった。
だがその沈黙には戸惑いや否定はなく、ただ娘の言葉を受けとめようとする、深い静けさがあった。そのことがかえって、アリセルの胸を締めつけた。
我儘を言ってしまっているのではないか。そんな思いが首をもたげ、逃げ出したくなるような心細さが募っていく。
「アリセル、おいで……」
しばらく沈黙が続いたあと、ジョゼフがそっと声をかけた。
椅子に腰かけたまま、両腕をやわらかく広げている。
その姿に、アリセルは静かに足を運び、父の胸元に身を預けた。
ジョゼフの腕が、ためらいなく娘の肩を包む。
その手には重さも圧もなく、ただそこに「在る」ことで支えるような温もりがあった。
アリセルはそっとまぶたを伏せた。
ジョゼフは、アリセルの背に片手をあてたまま、深く静かな声音で告げる。
「お前がそう言ってくれることを、ありがたく思う。ルネ様の痛みを見ようとしてくれていることも。だが、それでも私たちは手を差し伸べるべきだと思っている。あの方はいまだ迷いの中にあり、他者と触れ合うことすら戸惑っている。だからこそ、自分の心と身体に向き合うための導きが必要なんだ。何も知らぬままでは、踏み出すことも、誰かと通じ合うこともできない。あの方には、支えが要る。これから共に歩く相手が、ちゃんと寄り添えるように。そうあってほしいんだ」
アリセルは言葉を返せなかった。
心のどこかで、その言葉に頷いている自分がいるのを感じながら、それでも受け入れきれない部分も残っていた。
そんな様子を見て取ったのか、ミーシャが静かに手を伸ばし、娘の頭にそっと触れた。
「デイジー嬢があの方に触れるのは、単に快楽を与えるためではないのよ。あの方が自分の身体と心に向き合えるようになるため。そして……それはあなたにとっても同じことよ」
「……私にも?」
「ええ」
ミーシャの声が柔らかくなる。
「あなたは、いずれ誰かの隣に立つことになる。……きちんと備えておけば、あなたも、あなたの隣にいる人も、きっと心を通わせて歩いていけるわ」
その言葉に、アリセルの瞼がほんのわずかに震えた。
心を通わすというのは、そんなにも難しいことなのだろうか。
言葉を交わし、笑い合い、時をともに過ごし、自然に愛が芽生えて、やがて結ばれる―。
それだけでは、足りないのだろうか。
ふと胸に浮かんだその問いは、言葉にならないまま、やがて静かに沈んでいった。
扉を閉めると、冷えた空気が背中に残る。
アリセルはそのまま、居間へ向かった。
灯りのともる部屋の中では、ミーシャが刺繍に目を落とし、ジョゼフは椅子にもたれて本を読んでいた。揺れる火の光に照らされて、二人の横顔は穏やかで、どこか安らいでさえ見えた。それなのに、胸の奥にわだかまるものが、言葉となって喉元にせり上がってくる。
「……少し、お話をしてもいい?」
不意に声をかけたアリセルに、ミーシャが顔を上げた。
ジョゼフも静かに娘のほうへ目を向ける。
「デイジーの事なんだけど……。その、ルネ様に、そういう……男性としてのことを、教えるために呼んだの?」
ジョゼフはゆっくりと本を閉じた。
そこには動揺の色はなく、寧ろ初めから想定していたかのように、頷いた。
「ああ。彼には学ぶべきことがあるからな。体のことも、心のことも……誰かと向き合うためには、必要な知識だ」
父の口調は柔らかで、ただ静かに、そうであると告げていた。
アリセルは、きゅっと拳を握りミーシャに目を向けた。
「……私にも……彼女を通して、そういう関係のことを、教えるつもりなの?」
最後まで言い切るのに、思った以上の力が要った。
だが、両親の前で言葉を濁したままにはしておきたくなかった。
聞く以上は、きちんと問わなければ意味がないと、どこかで思っていた。
ミーシャが椅子を離れ、アリセルのそばまで来た。
戸惑いを隠しきれずにいる娘を、そっと見つめる。そして何も言わず、手を取り、両の手で包みこんだ。
「……アリセル。驚かせてしまったわね」
それは、かつて熱に浮かされて眠れなかった晩、耳元で聞いた声と同じ響きだった。
アリセルの眼差しが、わずかに揺れる。
「でもね、これは恥ずかしいことではないのよ。誰かと心を通わせて、身体を重ねること。それは人として自然なことよ」
ミーシャの言葉はゆるやかで、どこか祈りにも似ていた。
娘を傷つけたくないという想いが、その声の隅々に滲んむようで、アリセルの息はつまる。
受け取るべき言葉を目の前に差し出されているのだと感じながらも、それを胸の奥に落とすことができずにいた。
分からないわけではない。だが、なぜという思いが、まだ拭えなかった。
「……私は、まだ何も知らないのに……そんなこと、いきなり……」
囁くようにこぼしたその言葉に、今度はジョゼフが口を開いた。
「だからこそ、だ。知らないままでは、誰かに翻弄されるだけになる。お前が誰かに傷つけられるようなことが、あってほしくないんだ。学ぶことは、守ることでもある」
理を語る父の言葉は、どこまでも穏やかで、淡々としているのに、切実に響いた。
アリセルは視線を落としたまま、じっと黙っていた。
母の手の感触が、指先からじわりと伝わってくる。
「それでも、ルネ様には負担が大きいと思う」
やがて自分でも気づかない程、小さな声が零れ落ちる。
言わずにはいられなかったのだ。胸の奥にずっと引っかかっていた思いが、ようやく言葉の形をとった。
「ルネ様は、近頃やっと話してくれるようになったの。笑ってくれて、食べてくれて、触れても怯えないでくれるようになった。……それなのに……」
アリセルの声は、かすかに掠れていた。
両親の顔を見ることができず、視線は膝のあたりで留まったままだった。
ジョゼフとミーシャは、言葉を返さなかった。
だがその沈黙には戸惑いや否定はなく、ただ娘の言葉を受けとめようとする、深い静けさがあった。そのことがかえって、アリセルの胸を締めつけた。
我儘を言ってしまっているのではないか。そんな思いが首をもたげ、逃げ出したくなるような心細さが募っていく。
「アリセル、おいで……」
しばらく沈黙が続いたあと、ジョゼフがそっと声をかけた。
椅子に腰かけたまま、両腕をやわらかく広げている。
その姿に、アリセルは静かに足を運び、父の胸元に身を預けた。
ジョゼフの腕が、ためらいなく娘の肩を包む。
その手には重さも圧もなく、ただそこに「在る」ことで支えるような温もりがあった。
アリセルはそっとまぶたを伏せた。
ジョゼフは、アリセルの背に片手をあてたまま、深く静かな声音で告げる。
「お前がそう言ってくれることを、ありがたく思う。ルネ様の痛みを見ようとしてくれていることも。だが、それでも私たちは手を差し伸べるべきだと思っている。あの方はいまだ迷いの中にあり、他者と触れ合うことすら戸惑っている。だからこそ、自分の心と身体に向き合うための導きが必要なんだ。何も知らぬままでは、踏み出すことも、誰かと通じ合うこともできない。あの方には、支えが要る。これから共に歩く相手が、ちゃんと寄り添えるように。そうあってほしいんだ」
アリセルは言葉を返せなかった。
心のどこかで、その言葉に頷いている自分がいるのを感じながら、それでも受け入れきれない部分も残っていた。
そんな様子を見て取ったのか、ミーシャが静かに手を伸ばし、娘の頭にそっと触れた。
「デイジー嬢があの方に触れるのは、単に快楽を与えるためではないのよ。あの方が自分の身体と心に向き合えるようになるため。そして……それはあなたにとっても同じことよ」
「……私にも?」
「ええ」
ミーシャの声が柔らかくなる。
「あなたは、いずれ誰かの隣に立つことになる。……きちんと備えておけば、あなたも、あなたの隣にいる人も、きっと心を通わせて歩いていけるわ」
その言葉に、アリセルの瞼がほんのわずかに震えた。
心を通わすというのは、そんなにも難しいことなのだろうか。
言葉を交わし、笑い合い、時をともに過ごし、自然に愛が芽生えて、やがて結ばれる―。
それだけでは、足りないのだろうか。
ふと胸に浮かんだその問いは、言葉にならないまま、やがて静かに沈んでいった。
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