看守の娘

山田わと

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Echo35:無垢の境界線

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 牢内の奥から、ページをめくる音が静かに響いていた。
 デイジーは本を片手に、ルネのそばに腰を下ろしている。
 今日は学問の時間らしく、いつものように一角が教室と化していた。

 少し離れた場所で、アリセルとユーグは並んで紅茶を飲んでいた。
 アリセルは紅茶を一口含み、ふたりの様子を眺める。

 ルネの背筋は伸びていた。白い指先が紙をめくるたび、眉間にうっすらと皺が寄る。
 ひとつひとつの言葉を、逃すまいとするような眼差しだった。

 デイジーはその横顔を見やりながら、静かな口調で頁を追い、要点を指で示していく。
 ときに言葉を補い、ときに問いを投げかけながら、落ち着いた手つきで教え続けていた。

 その様子に、アリセルはふと目を細める。
 真剣に本に向かうルネには確かな意志があった。
 デイジーの声に耳を傾け、まっすぐに受け取ろうとしている。そしてデイジーもまた、それに応えるように真摯な態度を崩さない。

 こんな時間が、この場所にあるなんて、と何だか不思議な気持ちになった。

 だが、ふと漏れたデイジーの一言に、アリセルの肩はぴくりと強張った。
「さて、今日は少し、夜の心得についてお話ししましょうか」

 ……夜の心得? 

 意味を理解したのは、ほんの少し遅れてからだった。
 アリセルは思わずカップを持ち直し、湯気の立つ茶の表面を凝視する。
「な、なにを教えるって……?」
 問いかけたつもりだったが、声はか細く、自分でも聞き取れないくらいだった。
 そんなアリセルの耳に、続けてデイジーの朗々とした声が届く。

「要は、どうすれば女性を悦ばせられるかってこと。殿方には必要な知識です」

 アリセルは口に含んだ紅茶を慌てて飲み込もうとした。
 だが喉の奥で引っかかり、思わず吹き出してしまう。
「……汚ねぇな」
 隣で寛いでいたユーグはアリセルから距離をとると、布を手渡した。
「せめて飲み込んでから驚けって」
「……あ、ありがと」
 咳の発作で目に涙を浮かべながら、アリセルは布で口元を押さえたまま肩を震わせた。

 ……飲み込む前に、言わないでほしい。

 内心でそう呟きながらも、視線はつい、奥へ向かう。
 デイジーはまったく意に介した様子もなく、まじめな顔で、「たとえば指先。触れ方ひとつで印象は大きく変わるわ」などと、さらりと言ってのける。
 アリセルは真っ赤な顔のまま、助けを求めるような目でユーグを見つめる。
 だが、ユーグは肩をすくめて笑っただけだった。
「そんな目したって、俺は助け舟なんか出さないぞ」
「でも、これって、ほんとに勉強なの……?」
「ちょっと外野! さっきからうるさいわよっ、授業の邪魔しないでっ!」
 デイジーの鋭い一喝に、アリセルはびくりと肩を震わせ、カップを抱え直した。
 その様子を見ながら、デイジーは腕を組み、コツコツと靴音を響かせて近づいてくる。
「アリセル。あんた、うるさいから外に出てなさい」
「でも私はルネ様の看守……」
「口ごたえするの?」
「いえ……」
 ぴしゃりと切り返されて、思わず口をつぐむ。
「この程度で驚かれていたら、やっていけないのよ。ゆくゆくは実践だって学んで頂くのだから」
「じっせん……」
 何を言っているのか理解できず、アリセルはぽかんとした顔でデイジーを見つめたまま固まっていた。やがて、デイジーが溜息をついたかと思うと、手をひらひらと振って指示するような仕草を見せた。
「もういいから、早く外に出て」
 アリセルはカップを抱えたまま、無表情のまま立ち上がった。
 それでも抵抗する言葉は出てこず、なすがまま、まるで夢遊病者のような足取りで扉のほうへ向かっていく。紅茶の香りだけがほんのりと彼女のあとに残った。


 外に出たアリセルは、近くの柵に身を預けるように寄りかかり、ゆっくりと呼吸を整えた。
 空は高く、雲は気ままに流れている。風がやわらかく吹き抜け、木々の葉をさらさらと揺らしていた。だが、彼女の思考は先程の言葉に囚われたままだった。

 夜の心得。女性を悦ばせる。実践。

 言葉の意味がようやく輪郭を帯び、現実として立ち上がってくる。
 その瞬間、カップがぐらりと傾きかけた。あわてて持ち直しながら、アリセルは声を張り上げた。
「……おかしいと思う!」
「今さら?」
 隣で気の抜けた声が返る。
 アリセルが見遣ると、柵に肘を乗せたユーグは頬杖をつきながら、にやりと笑った。
「あれ? ユーグも追い出されたの?」
「自主的にな。……俺のウブな耳に、あの授業は刺激が強すぎるんでね」
「嘘だあ」
 とぼけた様子で言うユーグに、じとっとした目を向けるアリセルだが、一呼吸置いて、軽く頭を振った。
「……何でデイジーが、ルネ様にそこまで教えるんだろう」
 溜息混じりに、ぽつりと漏らす。まだ信じきれない思いだった。
「いや、だってあいつ、ヘタイラだろ?」
「ヘタ……なにそれ?」
 言葉の響きに眉をひそめるアリセルに、ユーグは口角を上げた。
「教養娼婦」
「きょ……きょうよう、しょうふ……?」
 言い慣れない響きを転がすように、アリセルは唇を動かした。
 口の中に残る妙な言葉の音が気になって、「何それ」と問おうとしたとき、すでにユーグが肩の力も抜けた調子で答えていた。
「寝方を教える女のこと。男にも女にもな」
 さらりと告げられたその一言に、アリセルの喉がひくりと動いた。
 何かを言いかけるより早く、ユーグは怪訝そうな表情を見せた。
「……お前、もしかして、寝方が何かも知らないとか言わないよな?」
「わ、分かってるよ! 知ってるってば、そういうのは……ちゃんと……!」
 息を呑みつつも、アリセルは勢いだけで言い返す。だが耳まで赤くなり、言葉の端が揺れていた。
「だったら閨房教育っていうのも分かってるな?」
「……けい、ぼう……」
 カップをぎゅっと握りしめたまま、アリセルの目が泳ぐ。
「やっぱり分かっていないじゃないか」
「……ちょっと! わ、分かるもん! たぶん……そういう感じの……あれでしょ!?」
「あれって?」
「っ、そういうの! 言わせようとするの、ダメなんだから!」
 慌てて言い放ったアリセルだが、不意にピタリと動きを止めた。

『お前も年頃だし、将来に備えてのことだ。必要な知識や心得は、きちんと身につけておくべきだろう』
『あなたには女性として、これから知っておいてほしいことがたくさんあるわ。……ふさわしい時が来たとき、戸惑わないようにね』

 あの日、両親に言われた言葉が突然、鮮やかに蘇ったのだ。
 デイジーにはアリセルの教育も頼んでいると告げてきた時、ふたりは確かにそう口にしていた。
 違和感はあった。けれど、その時は深く考えなかった。

 ……でも、まさか。

 アリセルの瞳がゆっくりと見開かれる。ひとつ、息を呑む音が洩れた。

 もしかして、その教育はルネだけではなく自分もという事なのだろうか。

 思考がそこまで辿り着いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
 目を大きく見開いたまま絶句するアリセルを、ユーグはちらりと見遣る。
「……どうした。ようやく実感湧いてきたか?」
 飄々とした声に、アリセルは何も返せず、ただ呆然と口を開けていた。カップを抱いた手に、じんわりと汗が滲むのも気づかないまま。
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