看守の娘

山田わと

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Echo34:霞都

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 塔の裏手、クルミの木の下に敷物が広げられていた。
 午後の光が葉の間から零れ、地面にゆるやかな影を落としている。

 布の上には、アリセルが拵えた料理がいくつか並べられていた。

 朝に焼いた野菜パイ、香草をまぶしたじゃがいも、干し果物入りの小さなパン。
 素朴な器には、酢漬けの果実と蜂蜜の瓶も添えられていた。
 その傍らには、陶器の水差しが置かれている。中には、陰干しした花々を煎じた茶が注がれている。乾いたラベンダーと、バラの花びら、ほんのひとつまみのミント。
 色はかすかに薫る紅茶色で、光を透かすと、ほのかに桃色がかって見えた。

「それでね、エリック・ジルベールさんのこと、みんな良く思っていないみたいだったの」

 カップに茶を注ぎながら、アリセルは小さく吐息をもらした。
 先日の客人たちとの会合を思い返すたび、胸の奥に薄い靄がかかったような感覚が広がる。
 口に出しかけたその時、向かいに座っていたデイジーが、嘲るように鼻で笑った。
「それはそうでしょう。エリック・ジルベールなんて家名も、紋章も、誰も聞いたことがないんだし。由緒がないぶん、声ばかりが大きくなるのよ」
「前にね、私、一度だけエリックさんに会ったことあるの。……聞いていた話より普通で、優しそうな人だった」
「それは、あんたの目が節穴だからよ。うわべだけ見て、本心には気づこうとしないんだもの」
「……そうなの、かなぁ。ところでデイジー…」
「なに?」
「さっきから思ってたんだけど。……ちょっと近くないっ!?」
 アリセルは身を乗り出すようにして、ユーグとデイジーを見た。
 ユーグの隣に座った彼女は、まるで当然のように身体を寄せていた。
 上半身を軽く預けるようにしていて、膝に手まで添えている。 
「そうかしら?」
 デイジーは、妖艶な笑みを見せながら首を傾げる。
「別に、何もしてないわよ」
「……してないけど、してるの! 距離が!」
 アリセルはむくれたように頬を膨らませた。

 あの日、付き合っても付き合わなくてもどちらでも良いとユーグに言われたデイジーだが、結局付き合うことにしたらしい。
 それについてはアリセルも異論はないが、目の前でべたべたされると心が騒ぐ。
 アリセルは、ぷいと視線を逸らした。頬は、どこか悔しげに軽く膨らんでいる。

 そのとき、パンをかじっていたルネが、ぽつんと呟いた。

「エリックさんは、酷い人なの……?」
「ええ、それはもう。家柄もない小賢しい男が、威張り散らすしか能がないなんて、見ていて反吐が出ますわ。あんなのが統治するなんて、国の恥よ」
「でも、彼は民意で選ばれたんでしょう?」
 ルネの問いかけは、真っ直ぐで、そこには悪意も色もなかった。
 ただ疑問として発された言葉が、静かに空気を揺らす。そしてそれは、アリセル自身の問いでもあった。

 民に選ばれたのなら、それは正しいことなのではないか。
 出自ではなく、声と意志で決まるのが、今の世のあり方ではないのか。

 そう信じたい気持ちは、確かにあった。
 けれど、あの夜の会話が脳裏をよぎる。
 誰もが当然のように口にしていた、家柄、血筋、立場。政に携わる人々の言葉のほうが、やはり正しいのだろうか。自分のほうこそ、何かを見誤っているのだろうか。

 思考の糸がほどけて、絡まり、どこから手をつければいいのか分からなくなる。

 胸の奥に、答えの見えない迷いが、静かに積もっていった。
「ええ、民意。血筋も教養もない癖に、声だけは大きい連中が、せいぜい耳障りのいい言葉に踊らされただけでしょう?」
 デイジーは、吐き捨てるように言い放った。
 ルネはしばらく黙っていたが、パンを持った手を膝の上に置き、ふと視線を上げる。
 その眼差しがユーグをとらえた。
「ユーグは、どう思う?」
 問いかけられたユーグは、口元だけで笑った。
「俺は、血筋も教養もない側の人間だからさ。……まあ、口を挟む立場でもない気がしてな」
 その言葉尻を遮るように、デイジーが勢いよく身を乗り出す。
 両手でユーグの手を包み込むように握り締め、強く言い放った。
「私と特別な関係がある時点で、あなたは卑しい側じゃないのよ! 私の名には誇りがあるのだから、あなたも同じよ!」
「なるほどな。じゃあ俺の出自も今は由緒つきって訳か」
 口元に微笑を浮かべながら、ユーグは、デイジーの両手に包まれていた自分の手の上に、空いた手を重ねる。そして艶やかな笑みを浮かべると、「助かるよ」と告げた。
 甘さと諧謔のあいだを揺れながら、どこか演技めいた彼に、しかしデイジーは耳まで赤く染めていた。アリセルは二人に胡乱な眼差しを向ける。

「それに……ルネ様。あなたは民意によって、投獄されたのですから」

 デイジーの声の調子はわずかに揺れていた。
 まだ頬に赤みを残したまま、気を取り直すように、言葉を紡いだ。
「血筋も学もない者が群れをなせば、ただの獣です。彼らが、どれほど無慈悲か。あなたは、その痛みを一番よくご存じのはずです」
 ルネの視線がふと逸れ、無意識のように腕をなぞった。
 袖口からのぞいた皮膚には、いくつもの傷跡が刻まれている。
 時が経っても消えない傷は、どれほどの苦しみを伴ったのか。アリセルは口を閉ざしたまま、その様子を見つめた。
「……そう言えば、今の都でも飢えや病に苦しむ人がいて、略奪なんかも起きてるって……。それって、みんな獣だから、なのかな……」
 ぽつりと落とされたアリセルの言葉に、空気が微かにずれた。
 デイジーは目を瞬いたまま、ほんの一瞬、動きを止めた。
 カップに伸ばしかけていた指先が、宙でぴたりと止まり、形よく整えられた眉が、かすかに寄る。
「そうなの? ユーグ」
 アリセルの言葉を受けて、ルネは都から戻ってきたばかりのユーグを見つめる。
 彼はカップを口元に運び、ひと口だけ飲んでから、肩の力を抜くように軽く首を傾けた。
「いや、それは少し違うな。街は整備されてるし、治安も悪くない。飢えや略奪なんて、今じゃ過去の遺物だよ」
「……そうなの? でも、お父様とお母様は……。都では、今も大変だって……」
 アリセルは、ぱちぱちと瞬きをした。
 ことさら疑っているわけではないが、両親の言葉とユーグの言葉が噛み合わず、思考が追いついていないだけだった。眉を寄せたまま、視線だけが小さく動く。

「え? じゃあ、あれって……違うの? ……なんで?」

 零れ落ちた言葉は、問いというより自分への確認のようだった。
「おふたりとも、きっと最悪を想定しておけっていうおつもりだったのよ。娘を守るためなら、少しぐらい話を盛るものだわ」
「でも、なぜ、そんな……」
「真実っていうより、心に留めておきなさいってことよ。都に行けば、見る目も試される。きっとおふたりは、そういう訓えをくださったのよ」
 デイジーは、冷たく断ち切るような口調で言った。
 アリセルは小さく息を呑むと、そのまま言葉を失った。
 
 納得しきれたわけではない。しかし反論できるほどの確かさも持ち合わせてはいなかった。
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