看守の娘

山田わと

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Echo33:卓上の正義

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 帰宅すると、家の中から賑やかな話し声が漏れ聞こえてきた。
 ドアの隙間から漂ってくる香ばしい匂いと、立ち動く人々の気配に、アリセルは歩みをゆるめる。

 そうだ。今日は、客人を迎えての会食があるのだった。

 廊下を進んでいくと、奥の部屋から笑い声がひときわ高く響いた。
 普段は静かな家も、この日は華やかで、しかしどこか落ち着かない空気に包まれている。

 ふと視線を向けると、ミーシャが数人の客をもてなしながら、穏やかに会話を交わしていた。

 両親が招くのは、決まって政や学に携わる人々で、話題もまた難解なものが多い。
 アリセルはそうした場に顔を出すことは滅多になく、いつもなら部屋へまっすぐ戻るのが習わしだった。
 だが今日は階段を上がろうとしたところで、背後からジョゼフに声をかけられた。

「アリセル。今日はお前も来なさい」
 アリセルは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
 本音を言えば、夕食をすませたら、すぐにでも横になりたいほどの疲れていた。
 けれど、今日ばかりはそうもいかないらしい。
 そう察した彼女は、少しだけためらいながらも、静かに頷いた。

 部屋の扉を開けると、食卓のまわりには十数名ほどの客人が揃っていた。
 どの顔も見覚えはなく、いずれも父や母と同年代か、あるいは年嵩に見える。

 アリセルが一礼して近づくと、その場の空気がわずかに和らいだ。

 誰もがにこやかに迎え入れ、労うように声をかけてくる。
 父の隣に案内され、控えめに腰を下ろしたところで、一人の婦人が、身を乗り出すようにしてこちらを見つめてきた。

「まあ……なんて気品のあるお嬢さま。佇まいひとつで、育ちの良さがにじみ出ていますわ。まさに、エルヴァン家の誇りですね」

 あまりの賛辞に、アリセルは思わず言葉を失った。
 気品があるのなら、なぜ毎日デイジーに小言を言われるのだろう。
 嬉しさより先に、お世辞ではないかと疑う自分がいて、少しだけ後ろめたくなった。

 そんなアリセルに気付いた様子もなく、居並ぶ客たちは誰も言葉を挟まず、静かに杯を置いたり、手を止めたりしていた。ただその目だけが、柔らかく、アリセルの方へ向けられている。

「アリセル・エルヴァンと申します。皆さまにお目にかかれて光栄です。どうぞよろしくお願いいたします」

 ひと呼吸置いての挨拶に、場がほのかに華いだ。
 あちこちで「美しくて立派なお嬢様ね」「ご両親の育て方がうかがえる」といった声があがり、数人の客が軽く拍手を送る。
 その音に誘われるように、周囲にもぱらぱらと手を叩く音が広がっていった。

 だが、アリセルの胸には、ぼんやりとした違和感が残った。

 気品がある、立派だ、育ちが良い。
 挨拶一つで、そう口々に褒められるのは、自分ではない誰かを語られているような気がしてくる。

 ふと、「マナーも作法もなっていない田舎娘」と吐き捨てたデイジーの顔が脳裏をよぎった。
 あの時は悔しさばかりが先に立ったが、今思えば、その言葉のほうがまだ現実に即していて、自分の輪郭にしっくりくる気がした。

「アリセルお嬢様は、今、ルネ・サントレール様の看守補佐を務めておられるとか。ご様子はいかがですかな?」
 長卓の向こうから声をかけてきたのは、銀の混じる髪を撫でつけた壮年の男性だった。
 抑えた口調ではあったが、言葉の端に関心が見て取れた。
 アリセルは思考を引き戻し、姿勢を正した。
「はい。お身体の調子は、最初の頃に比べればずいぶんとお元気になられました」
「それは何よりです。……おそばに、あなたのような方がいらっしゃれば、彼のご心持ちも和らぐことでしょう」
「……恐縮です」
 アリセルは静かに頭を下げた。
 男性は頷き、少し間を置いてから、杯に口をつけるように言った。
「いずれのことを思えば……仲睦まじいのは、望ましいことでございますな」
 その一言のあと、男はそれ以上何も言わなかった。
 特段意味深な顔をするわけでもなく、ただ穏やかに酒を味わっている。

 アリセルは、どこか釈然としない思いを覚えた。いずれとは、何のことだろうか……。

 仲が良ければいい、とは確かにそうかもしれない。
 でも、それがどうして、わざわざ言葉にするようなことなのだろうか。
 軽く首を傾げかけて、やめた。
 考えても答えは出そうになかったし、何より、この場で問い返すのも憚られる。

 ただ漠然と、何か大切なことを自分だけが聞き逃しているような、そんな感覚だけが残った。

 男の言葉が静かに消えると、それを合図にしたかのように、場の空気が少しずつ動き始めた。

「ところで、エリック・ジルベールの件は……」

 ふと別の客が切り出す。年配の婦人が眉をひそめながら盃を置いた。

「聞く耳をお持ちでないのは、もはや周知の事実でしょう。あれほど人の話に無関心な方も珍しいですわ」
 その声音は穏やかだが、言葉は刃のように冷たい。
「話どころか、人そのものに興味がない。意見も感情も、最初から存在していないものとして扱っておられる」
 斜向かいの男が肩をすくめる。
「それでいて、公平や理性を掲げておられるのですから始末が悪い。己の正しさに酔っているだけだ」
「ええ、まさに。美学という名の独善に溺れておられる。もはや孤独も当然でしょうな」
 笑いが起きたが、愉快さは含まれていない。どこか乾いた響きだった。
「己こそが絶対に正しい。その思い込みが、骨の髄まで染みている。忠言など通じるはずもありませんよ」
「仰るとおり。正論さえ敵とみなす。もはや議論ではない、裁定です」
「民のためという建前も、あの御方にとっては飾り物でしょうな。己の正当性を演出する道具にすぎない」
 卓の上には、静かにグラスの音が重なっていた。
 誰も声を荒げはしないが、その分、冷ややかさが色濃く残る。
「人望などという言葉が、あの方に似合うと? 民が口を閉ざしているのは、忠誠ではなく絶望です」
「それを愛されているから従うと本気で思っている。浅はかを通り越して、もはや異常だ」
「違う意見はすべて排除し、己を映す鏡しか手元に置かぬ。統治者を気取るには、いささか薄っぺらすぎる」
 盃を持ち上げた男が、最後に小さく笑った。
「中身が伴わぬ器など、ただの空洞です。……それを玉座に据えたまま、どこまで持ちこたえられるか見ものですな」
 言葉の応酬が続くあいだ、アリセルはただ黙って、盃の中の液面を見つめていた。
 ほんのかすかに揺れて光を映すその色は、熟れた果実の琥珀だ。
 ゆっくりと傾ければ、硝子の内側をとろみのある縁がなぞっていく。
 それを目で追っているふりをしながら、どこかこの場に居合わせている実感だけが、すこしずつ失われていくのを感じていた。

 冷笑と断定が積み重なる調子に、胸の奥に小さなこわばりが走る。

 エリック・ジルベールとは一度会ったことがある。
 市場で黒猫を抱き上げ、穏やかに微笑んでいたあの男。
 目の前で語られている人物像とはあまりに違いすぎて、どちらが本当なのか、わからなくなる。

 けれどアリセルが出会ったのは、ほんの一刻にすぎなかった。

 それだけで彼の何かを知った気になっていたのだとすれば。
 あの静かな笑みの奥に、本当に誰の声も届かぬような高慢が潜んでいたのだとしたら。

 正しいのは、自分ではなく、この人たちなのだろうか。
 政の場に身を置き、言葉を交わし、直に痛みを知った者たちの声のほうが。
 思えば、父も母も、今この場所にいる客と同じようなことを言っていた。

 分からないまま、アリセルは静かに盃を持ち上げた。
 熟れた果実の香りが微かに立ちのぼり、胸の奥に、ゆっくりと沈んでいく。
 思考はまとまらず、ただ波のように、行きつ戻りつをくり返すばかりだった。
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