看守の娘

山田わと

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Echo39:崩壊の起点

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 帰宅したアリセルの手には、ゲンチアナの花が一輪あった。

 野に咲いていたゲンチアナは、摘んでしまうのが躊躇われるほどに美しかった。
 けれど、それでも手放せなかった。だから一輪だけ、根を傷めぬように、そっと掬い取ったのだ。 

 自宅の庭の隅で、柔らかな土が広がる一角に膝をつく。

 手で土を掘り、くぼみをつくると、持ち帰ったばかりの花を、傷つけないように、そっと植えた。
 根が土に馴染むよう、指で土を寄せて、ぎゅっと押さえる。
 その手を膝の上で軽く払って、顔を上げると、風が吹き抜けていった。

 夕暮れの香りと一緒に、花のかすかな匂いがかすめた。

 その時だった。家の中から、突き刺さるような女の悲鳴が上がった。
 アリセルは肩を震わせて動きを止める。声の主は母ではない。
 だが、聞き覚えのある声だった。何が起きたのか。
 胸の鼓動を抑えるようにして、家の中へと足を向けた。


 扉を開けた瞬間、目にした光景にアリセルは息を呑んだ。
 部屋の中では、デイジーがミーシャにしがみつくようにして泣いていたのだ。
 肩を震わせ、嗚咽をこらえる気配もない。ザクロ色の髪は乱れ、頬には幾筋もの涙の跡が濡れて光っている。
 ミーシャはその髪を撫で、何かを囁いている。だが、慰めの言葉は届いていないようだった。
 傍らのジョゼフは、いつになく沈痛な面持ちで立っていた。
 表情は硬く、拳は握られている。その姿が、ただ事ではないと告げていた。
 アリセルには、何が起きているのか分からなかった。分からないまま、声をかける。

「……何があったの?」
「……デイジー嬢の兄が、殺された」
 ジョゼフが答えた。
 その言葉は、ゆっくりと、だが確かな重みで耳に落ちてきた。アリセルは思わず息を呑む。
「誰に……?」
「統領、エリック・ジルベールによってだ」
 アリセルは思わずジョゼフの顔を見たが、その眼差しには揺るぎがなかった。
「どうして……」
「彼は、王政復権派だった」
 聞き慣れない言葉に、アリセルは瞬きをした。
「……王政、復権……?」
 問い返すと、ジョゼフはわずかに視線を下ろし、言葉を選ぶようにして答えた。
「かつての王政を取り戻そうとする一派だ。今の政権とは、立場を異にしていた」
「立場を異にするだけで……殺されてしまうの?」
 アリセルは息を呑んだ。
 法や裁きの手続きを経ることもなく、人はただ思想だけで命を奪われるのか。

 そんな筈はないと思いたかった。

 だが目の前には、泣き崩れるデイジーと、それを支える両親の姿がある。
 それが何よりの答えだった。デイジーを慰めながら、ミーシャは顔を上げた。
 その頬にも、ひとすじ、涙の跡が光っていた。けれどその目には、別の熱が宿っている。悲しみだけではない、もっと深く、鋭い怒りだった。

「……こんなやり方が、許されていいはずがないわ」

 静かな声だった。けれどその低さは、炎のような確かさを帯びていた。
「法があろうと理があろうと、命を奪うのなら、それに見合う立場でなければならないわ。それを、たった一声の命令で済ませるなんて、それは、単なる殺人よ!」
 その言葉に、部屋の空気がひりつくように張り詰める。
 だが程なくして、落ち着いた声がそれをやわらげた。
「……ミーシャ」
 ジョゼフだった。彼はそっと声をかけながら、ゆっくりと首を振る。
 その声音に咎めるような響きはなく、むしろ落ち着きを取り戻させようとするような、柔らかな力があった。
「怒るのは当然だ。ただ、いまは……」
 そこで言葉を切る。だが彼の目は、静かにミーシャを見つめていた。
 沈痛の中に、確かな意志があった。

「……君の言う通りだよ。人の命を裁くというのは、どんなに高い理想を掲げていても、自らの立場を省みずにそれを行えば、ただの暴力にしかならない」

 それは、怒りではなかった。燃え上がるような激情ではなく、冷たい炎のように、静かに、けれど揺るぎなく胸に灯る信念のようだった。
 アリセルはそっと俯いた。
 穏やかに見えたエリックを、両親も客人たちもそろって批判していた事を思い出したのだ。

 自分が会った彼と、皆が言う彼とはまるで違っていて、どちらが本当なのか分からなかった。

 しかしデイジーの兄が殺されたという事実がある以上、やはり周囲のほうが正しかった。
 胸の奥のざわめきは、自分の無知さを、改めて思い知らされたからだった。
 そのとき、デイジーがかすかに顔を上げ、涙に濡れた声でつぶやく。

「……何を信じて、あの人は兄様を裁いたの……? 兄様が、どれだけのものを背負って生きていたか……何も知らないくせにっ……」

 震える指先が、ミーシャの服を強く握る。
「どんな正義を語ったところで、分不相応な手に人の命なんて扱えるはずないわっ……!」
 その声には、悲しみと怒りがないまぜになっていた。
 絞り出すような言葉だったが、その奥にある痛みの深さが、かえって胸を刺す。

 アリセルはデイジーに一歩だけ近づいた。

 何か言おうとして、背中に手を伸ばしかける。けれど指先は空を彷徨い、触れることはできなかった。慰めの言葉が出なかったわけではない。ただ、自分の声では届かないと分かってしまったのだ。

 不意に、扉が控えめに叩かれた。姿を現したのはユーグだった。

「お呼びだと聞きました」
 低く抑えた声が部屋に落ちる。
 ミーシャが、抱きしめていたデイジーをそっと支え直すようにしながら、頷いた。
「ええ……ひとりでは、とても……。お願いできるかしら、ユーグ君」
 ミーシャの声は、どこか頼るような柔らかさを含んでいた。その言葉に、ユーグは進み出る。
 デイジーはまだ顔を伏せたまま、嗚咽をこらえていたが、彼の気配に気づいたのか、わずかに肩を揺らした。
「デイジー、帰るぞ。立てるか」
 ユーグの声音には、宥めるような静けさがあった。
 デイジーは何も答えず、ただミーシャに支えられながら身を起こす。
 ユーグが腕を差し出すと、彼女はその胸元へ、しがみつくように倒れ込んだ。

 顔を彼の胸にうずめ、腕を回し、全身を預けている。

 泣き疲れた身体にはもう力が入っておらず、重さも、気持ちも、すべてを投げ出しているようだった。
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