看守の娘

山田わと

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Echo40:告白

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 デイジーの兄が亡くなってから三日間、彼女は姿を見せなかった。

 会っていいのかどうか、それさえ分からない中、それでも家まで行ってみようとアリセルは思った。
 石畳を歩く足取りは自然とゆるやかになり、籠の中の温もりを気にするように何度も布の端を撫でてしまう。籠の中身は、朝のうちに焼いたパンとリンゴの蒸し焼きだった。
 家が近づくにつれて、胸の奥が静かに波打つ。
 デイジーは、受け取ってくれるだろうか。
 それとも、そっとしておいてほしかっただろうか。考えても仕方のない事ばかり、頭に浮かぶ。

 やがて彼女の家へと辿り着いた。

 小さく息を吸い、胸の内を静めてから、扉を叩いた。
 返事はなかった。
 それでももう一度叩こうとした、その時。扉が音もなくひらき、デイジーが姿を現した。

 髪は整えられておらず、目元にはくっきりとした隈が浮かんでいる。
 薄い寝巻のまま、無言で立ち尽くしている姿は、いつもの凛とした彼女とはまるで別人のようだった。
 アリセルは言葉を見失い、手にした籠をぎこちなく持ち直す。
 視線が泳ぎ、ようやく声になったのは、ほんのかすれた囁きだった。

「……これ、よかったら……」

 中身を見せようと、そっと布をめくる。
 パンと、甘く香るリンゴの蒸し焼き。気の利いた言葉のひとつも添えられないまま、ただ手渡そうとしたそのとき。

「……入りなさい」

 低い声音が、それを遮った。
 デイジーは扉に手をかけた姿勢を崩さずにいる。拒まれてはいない。それが分かると、アリセルは小さく頭を下げ、籠を抱えたまま足を踏み入れた。

 デイジーの家の内装は、洗練されていた。
 上品な彫刻が施された家具に、窓辺に揺れる透き通ったレースのカーテン。
 置かれた調度のすべてに、育ちと趣味の良さが滲んでいる。
 だが、その整った美しさの中に、確かな乱れがあった。
 テーブルの上には、空きかけの酒瓶と倒れたグラスがあり、乾いた染みが卓に広がり、周囲にはいくつかの栓が転がっていた。
 床に散乱する本や、クッション、脱ぎ捨てられたままの靴。鏡台の引き出しは中途半端に開き、中の小物が床に落ちている。
 まるで何かに衝き動かされて探し物をし、途中で力尽きたような、あるいは衝動的にすべてを放り出したような、そんな痕跡だった。

 何かを口にすべきだと分かっていながら、何を言えばいいのか分からなかった。

 アリセルは手にした籠を抱えたまま、立ち尽くす。
 そんな彼女に、デイジーはちらりと視線を向けた。
 無表情のまま歩み寄ると、籠を受け取り、何も言わずにテーブルの上へ置く。

「そこに座りなさい」

 拒絶でも、歓迎でもない。
 感情の色を剥ぎ取ったその声に、アリセルはただ静かに頷き、ソファへ身を預けた。
 どこに視線を置けばいいのか分からず、落ち着かない手元を膝の上で重ねる。

 デイジーは戸棚へ向かい、小さな瓶とグラスを二つ取り出す。

 コルクを抜き、琥珀色の液体を注いだ。
 ひとつを自分の前に、もうひとつをアリセルの前に。置かれた瞬間、香りがふわりと立ちのぼった。果実酒だろうか、甘さの奥に強いアルコールの気配があった。
 ソファの向かい側の椅子にデイジーは座り、グラスを煽った。
「ねえ、アリセル」
 唐突に、鋭く呼びかける声が落ちた。
 アリセルが顔を上げると、デイジーは酒の入ったグラスをゆっくりと揺らしていた。
「……あんた、幸せでしょ」
「え……?」
「え? じゃないわよ。そうやって、ぬくぬくと、守られて、生きてきたんでしょ。何も失わずに、何も壊さずに」
 語調は鋭く、逃げ場を与えない。アリセルは戸惑いながら、慎重に言葉を探す。
「……そう、かも知れない。でも、どうしてそんな風に言うの?」
 デイジーはその言葉を、短く鼻で笑った。
「腹が立つからに決まっているじゃない! あんたがもっと賢くて、聡くて、立場を弁えていたなら、全てうまく行ったのに!」
 グラスがひときわ大きな音を立てて机に戻された。
 揺れた液体の表面が、ふつふつと煮えるように見えた。
 デイジーの怒りの矛先が見えず、アリセルはただ困惑して、声を失った。
 その静けさの中で、不意に、乾いた笑い声がこぼれた。

 ひとつ、ふたつ。抑えもせず、胸の奥から這い出すような笑いだった。

 デイジーは顔を伏せ、肩を小さく震わせながら笑っていた。
 けれどその表情に愉悦の色はなく、目元だけがひどく冷えていた。

「知ってる? アリセル。どうせ、あんたのお優しいご両親様は、教えていないのだろうから私が言ってあげるけど。あんたの結婚相手、ルネ王子なのよ!」
 アリセルは、座ったまま微動だにできなかった。

 理由も分からぬ怒りの中で告げられた、ルネという名。結婚相手は、彼なのだと。

 どこかで、うすうす感じていた。
 けれど、気づかぬふりをしてきた。見ないようにしてきた。
 それを今、デイジーの口から、はっきりと言葉にされてしまった。
 輪郭を与えられたその現実は、事実として、否応なく目の前に突きつけられたのだった。

 何も言えずに項垂れるアリセルに、デイジーは酒を継ぎ足して、一気に煽った。

「……なんで、あんたなのよ」
 吐き出すように言う。
「成婚の準備まで整ってるっていうのに、あんた達ってば身体のこと何一つ知らないんだから。だから、どうすれば入るか、どうすれば濡れるか、私が手取り足取り教えてやってるのよ、優しすぎて泣けるでしょ? でもね、ほんとバカみたい! もし私があんたの立場だったら、そんなまどろっこしいことなんてせずに、とっくに身体差し出して、腹に子の一つも抱えてるわ、それで全部済んだのよ、誰も失わずに済んだのよ!」
 次々に浴びせかけられる言葉の勢いは、酔いの影響もあるのだと分かっていても、アリセルは抗えなかった。膝の上に乗せられた拳に、きゅっと力が入る。
「そんな場所に、そんな立場にいるくせに。手にしているものの重さも意味も分からないまま、黙って突っ立ってるだけ。甘やかされて、守られて、いいご身分ね。あんたは生まれてきただけで、全部与えられてるし望まれている。だったらせめて、黙って従ってりゃいいのよ!」
 デイジーはグラスを置いて、ふと双眸を細めた。
「……だから、あんたのことは最初から気に食わなかったの」
 短く息を吐くように、吐き出す。
「大嫌い」
 どこまでも優しく、甘い口調で囁かれたその言葉は、呪いのように落ちていった。
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