看守の娘

山田わと

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Echo41:祈りと服従

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 いつの間にか、陽はすっかり落ちていた。
 空には色を失くした雲がかかり、風も止んで、庭はしんと静まり返っていた。

 アリセルは、庭先の片隅に咲くゲンチアナを、ただ呆然と見つめていた。
 青紫の花は、夕闇の中でもなお、その色をかすかに残して揺れている。

 いつからここに立っていたのか分からない。気づけば、家に帰ってきていた。
 帰ってきて、思考を止めたまま、立ち尽くしていた。

 デイジーの家を出てから、何ひとつ考えることができなかった。
 彼女の言葉も、視線も、焼けついたように胸の奥でただ疼いているのに、どこにもそれを処理する言葉が浮かばない。

「アリセル」

 突然、ジョゼフの声が鼓膜を震わせた。
 だがアリセルは、何も答えられず、ただ、ゲンチアナの花から視線を戻せずにいた。

 家の中に入り、ソファに腰を下ろすと、ミーシャがそっとカップを手渡してくれた。
 湯気を立てる温かなミルクには、微かに香辛料の香りが漂っている。
 肩からは、柔らかなケープが掛けられた。ふんわりと体を包むその重みが、徐々に現実へと引き戻していく。

「何があった……?」

 ジョゼフが問いかける。その声は穏やかで、重みのない優しさがあった。
 アリセルは視線をカップに落とし、ぽつりと声をこぼした。

「……聞いてしまったの。……婚約のこと……」

 言いながら、胸の奥がざわりと波立つ。自分が動揺している理由すら、まだうまく整理できない。
「……ルネ様と、私の……話を……」
 すると隣から、そっと手が伸びてきた。
 ミーシャが、アリセルの手元のカップをやさしく引き取り、卓の上に置く。
 そして、アリセルの肩に腕をまわし、引き寄せた。
「本当は、まだ話すつもりはなかったの。でも……あなたが聞いてしまったのなら、もう隠せないわね」
 ミーシャの声には、どこか迷いがあった。だがそれ以上に、静かな決意が滲んでいた。
「私たちは、あなたに……誰かと一緒に歩んでいく未来を、考え始めていたの。その人が、きっとあなたを大切にしてくれるだろうって、そう思える相手だったから……」
 アリセルは目を伏せたまま、何も言わなかった。
 ただ、心のどこかが遠く、ぼんやりとしたままだった。

「無理に納得してほしいわけじゃないの。すぐに答えを出してほしいとも思っていないわ。でも、親として……あなたの幸せを、きちんと形にしてあげたいと思ったの。今までも、これからも」

 向かいにいたジョゼフが、少しだけ身を乗り出すようにして口を開いた。
「分かりにくい形で知ることになってしまって、すまなかった。……でも、これは急に決めたことではないんだ。ゆっくり、少しずつ話していくつもりだった。……お前の気持ちを置き去りにするつもりはないよ」
 しばらく、沈黙が部屋を満たしていた。
 アリセルは、膝の上で手を組んだまま、うつむいていた。
 言葉にするまでに、心の奥を何度もなぞらなければならなかった。ようやく、小さな声が落ちる。

「……分かってはいたの。いつか、お父さまとお母さまが決めた人と結ばれるんだって……そうなるものだって」

 それは昔から教えられてきたことだったし、特別な反発があったわけではない。
 それが当然だと、どこかで思い込んできたのだ。 
「でも……どうして、ルネ様だったの?」
 その問いに、しばしの沈黙が落ちた。
 ジョゼフとミーシャが目を交わす気配が、室内の空気をほんのわずかに揺らした。
 先に口を開いたのはミーシャだった。
 言葉を選ぶように、ゆっくりとした調子で語り出す。

「……あの方は、とても素直で、まっすぐな人よ。心の底に澱がなくて、あなたのような子には、きっと合っていると思ったの」

 アリセルは返事をしなかった。
 視線は膝の上に落ちたまま、ただその言葉を聞いていた。
 続けて、ジョゼフが低く、落ち着いた声で補う。
「誠実で、優しい。何より、お前のことを心から信じてくれている。……それは、誰にでも持てる感情じゃない。お前自身、あの方と過ごす時間の中で、それを感じてきたんじゃないか?」
 アリセルはそっと瞼を伏せた。
 父の言うことは、間違っていなかった。
 ルネは優しい。あたたかく、疑うことを知らない人だ。
 それでも、その優しさが、そのまま答えになるとは思えなかった。

「優しいのは、分かってる……。でも、それは、理由になるの?」

 声に棘はなかった。ただ、ごく小さな疑問が、真ん中に置かれたようだった。
「理由には、ならないかもしれない。でも、きっかけにはなる」
 ミーシャの声は、ほんの少しだけ熱を帯びていた。
「あなたのそばにいて、あなたを必要としてくれる人がいる。……そういう関係から始まっても、いいのじゃないかしら」
 アリセルは口を閉ざした。両親の言葉は、どれも尤もだった。

 確かに彼はアリセルに対して誠実で、優しかった。
 疑いのない無垢な眼差しで、真っ直ぐに向き合ってくれる。それは、嘘ではないと分かっている。

 けれど、ふと心に不安がよぎる。その中に、本当にルネ自身の気持ちはあるのだろうか、と。

 彼は誰とも比べたことがない。
 選ぶ機会も、迷う自由も与えられてこなかった。
 アリセルを必要としているように見えるのは、彼が他を知らないからではないか。

 その一抹の不安が、どうしても拭えなかった。

 それに、アリセルはどこかで気づきはじめていた。
 自分の心が、本当に強く惹かれている相手は、他にいるのではないかと。
 まだ確信はなかった。ただ、その人のことを考えるときだけ、胸の奥の温度が少しだけ変わる。

 触れられていない何かに、そっと呼びかけられているような、そんな感覚があった。

 それらの答えが出ていないまま進んでしまえば、それはルネに対しても、自分に対しても、きっと不幸な結果を招いてしまうと、そんな気がしてならなかった。

「……ごめんなさい」

 ぽつりと落ちたその言葉に、ふたりの親は何も返さなかった。
 アリセルは唇をかすかに噛み、ゆっくりと顔を伏せる。

 ふと、ある言葉が脳裏をかすめた。
 あの日、ゲンチアナの花の前でユーグが言ってくれた、あの言葉。

『親だからって、全部に従う必要はないんだ。嫌なら嫌って、言っていい』   
 
 何も否定せず、ただそのまま受け止めてくれた声が、どうしようもなく優しく感じられた。その響きに背を押されるようにして、口を開いた。
「……お父さまも、お母さまも、私のことを考えてくれているのは分かってる。本当に、感謝してるの」
 アリセルは、小さく息を吸った。喉の奥がつまって、言葉がすこしだけ遅れた。
「……でも、少しだけ時間がほしいの。すぐには決められない。自分の気持ちが、どこにあるのか……ちゃんと、考えたい」
 静かな願いだった。
 やがて、ジョゼフが目を閉じ、わずかに頷いた。
 続けて、ミーシャもゆっくりと肯きながら、アリセルの肩に触れた手をそっと引いた。

 言葉はなかった。だが、ふたりの表情には、静かな落胆の色がにじんでいた。

 その目元には、何かを飲み込んだあとのような陰りがあり、口元は、無理にでも微笑みを整えようとしているように見えた。

 責められてはいない。声を荒げられたわけでもない。

 ただ、悲しみだけが、確かにそこにあった。
 まるで、自分が大切なものを裏切ってしまったかのような、説明のつかない苦しさが胸を満たしていく。
 黙って、微笑みながら頷いてくれたその姿に、深く抉られるようだった。
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