看守の娘

山田わと

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Echo42:幸せの形

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 まだ朝靄の残る中、アリセルとユーグは並んで塔へと向かっていた。

 ユーグはいつも通りの歩幅で先を行き、アリセルはその少し後ろを黙って歩いていた。
 風が肌を撫でるたびに、昨日の言葉が胸の奥に痛みを残したまま蘇る。

 それは夢ではなかった。何度確かめても、否応なく現実としてそこにある。

 塔の姿が間近になった頃、アリセルはふと歩を止めた。
 足元に視線を落としたまま、胸の内からすくい上げるようにして、ゆっくりと言葉を口にする。

「……昨日、聞いたの。私の婚約相手……ルネ様なんだって」

 空気がわずかに動いた。
 ユーグは立ち止まり、肩越しに彼女を振り返る。
 その目元に驚きの色はなかった。ただ、少しだけ視線を下げるようにして、穏やかに言葉を返す。

「ああ、そうじゃないかとは思ってたよ」

 アリセルは顔を上げなかった。
 手先がかすかに震えていた。それが朝の冷たさによるものか、それとも胸に触れた感情のせいなのか、自分でも分からなかった。
 暫くの沈黙の後、震えそうになる声を励ましながら、アリセルは言葉を続ける。

「でも、すぐには決められないって、お父様とお母様に言ったの」

 言い終えたあとも、しばらくアリセルは目を伏せたままだった。
 自分の声が、自分のものではないように感じられる。空気の冷たさが、胸の奥まで染みてくる。
 ユーグは何も言わずに彼女に向き直り、そっと手を伸ばした。
 温かな掌が、静かにアリセルの頭へと置かれる。

「……偉かったな」

 たったそれだけの言葉だった。
 だがその一言が、アリセルの中に積もっていたものを、音もなく崩していった。
 視界が滲んだと気づいたときには、もう涙を止めることができなかった。
「……私……酷いこと、したかもしれない……」
 小さく震える声が、唇のすき間から漏れた。
「お父様とお母様を……悲しませてしまった……私のせいで……。あの顔、見たくなかった。言った瞬間、ずっと、胸が苦しくて……私のことを、考えてくれていたのに……っ」
 堰を切ったように溢れ出す声は、かすれ、途切れ、言葉として形をなさなかった。
 喉の奥が熱く、呼吸すらままならない。涙はとめどなく頬を伝い、視界を濁らせていく。

 突然、背中にぬくもりが重なった。

 瞬きする間に腕が回され、そのまま、ユーグの両腕の中へ引き寄せられていた。
 抱きしめられていると気づくまでに、ほんのわずか、思考が追いつかなかった。
 アリセルは息をのんだ。胸の奥で何かが跳ねる。抱きしめられたのは、初めてだった。
 今まで、彼に抱きつきそうになった時は、いつも拒まれてきたのに。

 どうして今は、こんなふうに、腕を回してくれるのだろう。

 混乱と戸惑いの中で、それでも心のどこかが、どうしようもなく震えていた。
「アリセル……。お前が両親のことを、どんなに大事に想っているか、よく分かる。だから俺のこと、恨んでもいいけどさ」
 ユーグはそう前置きしてから、片腕を背に回し、もう一方の手で彼女の後頭部をそっと支える。
 まるで壊れ物を扱うかのように抱きしめられて、喉がきゅっと詰まるのを感じた。
「あのふたりは、優しさを盾にして、お前の自由を奪ってる。注がれてきたのは、愛じゃない。……従わせるための呪いだ」
「……っ、違うわ!」
 震える声が、思わず喉を突いてこぼれる。
 アリセルはそのまま両腕を突っぱねるようにして、ユーグの胸元を押し返していた。
「そんなはずない……!」
 言葉の先にあるものを否定したい気持ちが、せき立てるように口をついて出た。
 息がうまく続かない。けれど止まらなかった。

「あの人たちは、私を守ってくれたの。優しかった、ずっとずっと……私のことを……大切にしてくれた」

 口にしたはずの言葉が、自分の中に残る痛みによって、どこか空しく響く。
 それを感じ取ったのか、ユーグはほんの少しだけ困ったように目を細めた。
 そして無言のまま、再びアリセルの背に腕を回した。拒絶も追及もせず、ただ、羽毛のようにやわらかく、抱きしめる。

「お前を見ていると、自分を見ているような気分になるんだ」

 そっと告げられたその声に、いつもの飄々とした軽さはなかった。
 抑えた口調で、静かに紡がれる言葉は、ただの慰めではない。
 ユーグが自分のことを話す。
 それがどれほど稀なことか、アリセルは知っていた。

「俺の親は、常に正しい人だった。間違いなんて、一度もなかった。親が言うことは、筋が通ってて、理にかなってて、何もかも正しい。だから、逆らう理由がなかったんだ。正しいことを選べば、それでいいと思ってた」

 ユーグの両親については、処刑されたとしか聞いていなかった。
 過去のことを多く語る人ではなかったし、こちらから尋ねたこともない。

 だが今、こうして自ら語る彼の言葉に、アリセルは自然と耳を傾けていた。
 
 まるで、触れてはならないと思っていた扉が、不意に、ゆっくりと開かれていくようだった。
「だけど、正しいってことが、必ずしも幸せに繋がるとは限らない。それと同じで、親の想いに応えることが、お前の幸せになるかどうかも……別の話だ」
 アリセルは、彼の腕の中で身じろぎもせず、じっとその言葉を受け止めていた。
 ユーグの語る幸せは、耳には届いているのに、心の奥にはまだ届かない気がした。

 これまでの自分にとって、幸せとは両親の幸せだった。
 愛してくれる人が笑ってくれれば、それだけで嬉しかった。
 ずっと、そう信じて、生きてきたのだ。

 アリセルが複雑な面持ちで黙り込むと、ユーグは静かに笑った。
 濡れた頬に手を伸ばし、その涙を拭ってから、言葉を紡ぐ。

「理解なんて、急がなくていい。時間がいるんだ、こういうのは」
 その言葉にアリセルは、こくんと頷いた。
 ユーグは、彼女の頭にそっと手を置き、もう泣いていないなと確かめるように撫でる。アリセルは黙ったまま受け入れていた。

 だが、ほんの少し間を置いて、ぽつりと口を開く。

「ユーグ、私には抱きついたらダメって言ってたのに、私のこと抱きしめた」

 照れ隠しと、少しの甘えが混ざった言葉だった。
 ユーグは一瞬だけ虚を突かれたように目を瞬かせた。だがすぐに、口元に笑みが浮かぶ。

「よし、戻ってきたな、その調子だ」

 からかうような声音に、アリセルは眉をひそめた。
 けれど、それ以上は何も言わず、足元の草を静かに踏んで歩き出す。数歩ほど進んだところで、背に視線を感じながら、短く呟いた。

「……ありがとう」

 呼吸が浅くなるのを感じて、それでも言葉を吐き出した。
 それは涙になってしまう前に、ぎりぎりのところで形にした、一言だった。
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