看守の娘

山田わと

文字の大きさ
48 / 92

Echo43:飾らぬ心で

しおりを挟む
 塔の窓から差し込む光は、柔らかな白を帯びていた。
 ルネは窓辺に立ち、飽くことなく外の景色を眺めていた。
 淡い金の髪が朝風に揺れ、ひと筋、光を受けてきらりと瞬く。
 整った輪郭に、長い睫毛の影が頬に落ちている。彼の視線の先にあるのは、遠く霞む森と、その上を渡る淡い雲だ。

 微かな風が衣の裾を揺らすたび、静かな呼吸までもが景色の一部になったように感じられた。

 絵画の一部を切り取ったような光景に、アリセルは思わず足を止めた。
 息をすることさえ、躊躇われる静けさの中で、ルネがゆるやかに振り返る。

「おはよう、アリセル」

 深い青の瞳には揺るぎない光があり、その気高さが、彼の内に流れる王の血を証しているかのようだった。

「おはようございます、ルネ様」

 アリセルは微笑みを返し、ルネの両手を両の掌で包むようにして繋いだ。
「ユーグは来ないの?」
 首を傾げるルネに、アリセルは穏やかに返した。
「今は外にいます。私とルネ様と、二人で大事なお話をするので」
 不思議そうな顔をするルネを、そっと導き椅子に座らせる。
 彼の前に膝をつき、見上げるようにしてアリセルは口を開いた。
「ルネ様はご存じでしたか。私との婚約のこと」
 問いかけた声は、自分でも分かる程に硬さを帯びていた。
「うん、聞いてた」
 答えるルネの声音は変わらず穏やかで、そこに驚きも迷いもなかった。
「私は昨日、初めて知らされました」
「そうなんだ……。アリセルは、僕との婚約の話、どう思ったの?」
 ルネはほんの少し首をかしげ、青い瞳をまっすぐ向けてくる。
 すぐに言葉を返すことができず、視線が自然と膝へと落ちる。
「……正直、驚きました」
 それは否定でも肯定でもない。ただ、心に浮かんだ最も正確な言葉だった。
「そっか」
 ルネは優しく微笑んだ。
「僕も驚いたよ。でも、すごく嬉しかった」
 その声音は、まるで子どもが大切な贈り物を手にした時のように、屈託なく、濁りがなかった。
「僕はアリセルに救われたんだ。君がいるから、僕は今こうやって生きていられる。だから君が僕のものになってくれるって知った時は、夢みたいに幸せだった」
 無邪気に言葉を重ねるルネを見つめながら、アリセルの胸は小さく疼いた。

 どうして自分に話す前に両親は、それをもう決まったことのようにルネへ告げてしまったのだろう。

 彼らのことだ。
 きっと計り知れない、何か特別な想いがあるのかもしれない。
 もしくは自分が断らないと見越してのことだったのかもしれない。
 しかし、あまりにも酷な事のように思えた。

「ルネ様……。私は昨日、両親に少し時間が欲しいと言いました」

 その言葉に、ルネの双眸がわずかに揺れ、ゆっくりと見開かれていく。
 光を宿していた瞳は、瞬く間に翳りを帯び、驚きと戸惑いが入り混じる。

「……アリセルは、僕のことが嫌い?」
 幼子のように脆い響きだった。
 胸の奥を締めつけられるような痛みが、アリセルを襲う。

 嫌いなはずがない。自分がルネを、どれほど大切に想っているのか、きっと彼は知らないのだろう。
 初めて出会ったあの日から、彼の中に刻まれた痛みを、これ以上増やしたくないと願った。
 二度と傷つけられることのないよう、守りたいと思っていた。

 だが、今、彼の瞳に翳りを落としているのは、ほかでもない自分の言葉だ。
 胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなる。どうしようもなく苦しくて、視線を合わせることさえ躊躇われた。

「ルネ様は、私にとって掛け替えのない大切なお方です。あなたと出会えて良かったと心から思います。でも、私はまだ子どもで、分からないことばかりなんです。……これまで、誰かを異性として好きだと意識したことも、その気持ちを考えたこともなくて……。それを言葉にして答える場面なんてなかったから、自分の心がどこを向いているのかも、まだよく分からなくて」

 正直な言葉だった。
 飾り気もなく、胸の奥にあるそのままを差し出しただけなのに、口にしてみると、ひどく心許ない。
 アリセルは視線を落とした。

「小さい頃から、結婚相手は両親が決めるものだと思っていました。でも、あまりにも急なお話で……ちゃんと考える時間が欲しいんです」

 ルネは、しばらく言葉を探すように沈黙していた。
 やがて、ゆっくりとまぶたを伏せ、それから小さく頷く。
 その仕草は、触れればほどけてしまいそうなほど柔らかな優しさを帯びていた。

「うん、分かった」

 彼の声は穏やかだったが、胸の奥で何かを押しとどめているようでもあった。
 言葉の先に続く思いを、慎重に選び取るように、わずかな間が落ちる。やがてルネの唇がかすかに動き、ためらいを押し出すように言の葉を紡ぎ出す。

「……あのね、アリセル。……君は僕に全てを与えてくれた。だから今度は僕が何かしてあげたいんだ」
「私はルネ様がこうやってお話して下さるだけで、充分な程たくさんのものを頂いています」
「それだけじゃダメなんだ。僕はアリセルに幸せになって欲しい。君には笑っていてほしい。悲しい顔は、させたくない。君が欲しいものは、何でも言ってほしい。宝石でも花でも……君のためなら、僕は全部集められる。そう出来るんだって、教えてくれたから」

 ルネの告白は切実さを帯びて響いた。

 だが、全部集められる、という言葉に、アリセルは小さなひっかかりを覚える。
 叶えられる限り尽くしたいという意味なのだと理解しながらも、妙な違和感を覚えた。

「……アリセルは何が欲しい?」

 不意にルネの双眸に、子どものような煌めきが宿った。
 先程感じた違和を頭の隅に追いやり、アリセルは微笑み返す。
「欲しいものはたくさんあります。薄く焼いた胡桃のクッキーに、レモンの皮のバターケーキ、オレンジピール入りのチョコレート」
「お菓子ばっかりだね」
 菓子の名を並べるアリセルの姿そのものを、大事に抱きとめるような眼差しでルネは笑った。
 その笑顔を尊いものと感じながら、アリセルは言葉を続けた。

「でも、どんなに美味しいお菓子でも、一人で食べるのは寂しいです」

 口にしてから、ふと胸の内に情景が浮かんだ。
 塔の裏庭で、ルネとユーグと共に、湯気の立つお茶と食べ物を分け合うことのできる時間。
 それは多分、一番幸せな時なのだと、そんな思いがじんわり広がる。
「だから、誰かと一緒に食べてほしいんです。……私は、今と変わらない明日が、ずっと続いてほしいと思います」
「それがアリセルの欲しいものなの?」
「はいっ」
 短く返した声は、自分でもわかるほど確かだった。

 欲しいのは、変わらない穏やかな時間。それ以上でも、それ以下でもない。

 ルネの瞳が、何かを思案するように、ひと瞬のあいだで静かに深まった。
 先ほどまでの柔らかな煌めきが、ゆるやかに沈み、奥底に静かな影を落とす。

 その変化はほんの一瞬で、けれどアリセルには、そこに言葉にならない重さが宿ったように見えた。
 何を考えているのかまでは分からない。

 ただ、視線の奥で揺れる光と影が、彼の胸の内を映す湖面のように感じられた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

処理中です...