看守の娘

山田わと

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Echo49:綻び

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 秋祭りの日の夕刻、村は黄金色の光に包まれていた。
 石畳の通り沿いには木組みの屋台が並び、香ばしく焼けた肉や香草入りのパン、菓子の匂いなどが夕風に混じって漂ってくる。
 どこからともなく弦楽器の軽やかな調べと、金属の鈴が打ち鳴らされる音が響き、広場へと人々を誘っていた。

 広場の中央にあるのは豊穣の祭壇だ。

 黄金色の小麦や熟れた果物が山のように積まれ、その脇には銀の飾りを施された黒馬が静かに控えていた。馬を見つけた途端、アリセルは表情を綻ばせた。

「あっ、ユーグの馬だ!」
「正確には俺のじゃないけどな」
 その軽い返しに、アリセルはくすりと笑いながらも、黒馬から目を離せなくなった。

 あの日、馬に乗せてもらった時の感覚がよみがえる。

 大きな背に抱き上げられ、風を切って進んだときの胸の高鳴りと、背後から感じた温もりを思い出す。
 今、祭壇の脇に立つ黒馬は、艶やかな毛並みを光にきらめかせ、堂々と首を掲げている。
 その姿を見ていると、自分まで誇らしくなるような気がした。
「まあ! あの時、私がユーグに乗せて貰った馬ね。あの時は本当に風が気持ち良かったわ。ねえアリセル、知ってる? ユーグの腕に抱かれて走ると、景色まで色づいて見えるのよ」
「知ってるよ!」
 自慢するような口振りのデイジーに、アリセルは胸を張って答えた。
 予想外の返しだったのか、デイジーの眉がぴくりと動く。
 そんな彼女にアリセルは、にやりと笑ってみせた。
「私だって乗せてもらったもん」
「なんですって!? どうして、あんたも乗せて貰ったのよっ……!?」
「ほら、喧嘩しない」
 ユーグの手が二人の間に割り込むように伸びた。
 片方の掌がデイジーの頭に、もう片方がアリセルの頭に置かれる。
 まるで子どもを宥めるような仕草に、二人とも反射的に口をつぐむ。

 ちょうどその時、ジョゼフとミーシャに連れられてルネが現れた。

 高く詰められた襟の白い上着に身を包んだ彼は、人々の中でもひときわ目を引く。その姿はまさに王子の名に相応しい気品を漂わせていた。

 広場に集まった村人たちは、足を止め、ちらちらと彼を盗み見る。

 目が合いそうになると慌てて視線を逸らしながらも、その姿をもう一度確かめずにはいられなかった。
 彼の姿を認め、アリセルは思いを馳せた。
 かつて、傷だらけになり、汚濁にまみれて声も失い、蹲っていた姿とは程遠い。
 今は背筋をまっすぐに伸ばし、白い衣を纏って群衆の中に立っている。
 その姿は陽光を受けて輝き、どこか遠い存在のようにさえ見えた。
 彼はもう、過去の鎖ではなく、自分の足で立っている。
 そんな姿を見届けられることが、アリセルには何より嬉しかった。

「ジョゼフ様、ミーシャ様。それにルネ様、ごきげんよう」
「どうも、こんばんは」
 デイジーがスカートを摘み優雅に膝を折る横で、ユーグは軽く会釈をする。
「こんばんは、ふたりとも。今日は天気も良くて、秋祭り日和だな」
「今日は、何組の夫婦がここで誓うんでしょうね」
 ジョゼフの言葉に繋げて、ミーシャが祭壇を見遣る。
 母の言葉は暗に自分に投げかけられているようで、居心地の悪さを感じながら、アリセルはルネに微笑みかけた。
「ルネ様、とってもお似合いです」
 ルネは恥ずかしそうに笑ってから、周囲を見渡す。
「僕がこの場所にいられるなんて、なんだか夢を見ているみたい」
 ルネはわずかに目を細め、穏やかな笑みを添えて答えた。
 彼の声音は、秋の夕暮れの光のように柔らかかった。
 だがその余韻は、すぐに押し寄せた賑わいにかき消される。両親に連れられてきた客人たちが集まり、ルネを中心に円を描くように取り囲んだのだ。

「まあ、初めまして、ルネ様。なんて凛々しいお姿」
「白い上着がよくお似合いで……青い瞳はまるで宝石のよう」
「お噂通りのお美しいお方だ」
 口々に褒めそやす声が絶え間なく重なり合い、ひとつひとつの言葉が華やかな輪の中に降り注ぐ。
 その中心に立つルネは、困惑した様子を見せながらも、穏やかな笑みを崩さず、ゆるやかに応えていた。

 その周りでは、ジョゼフとミーシャが客人たちと笑顔で言葉を交わし、デイジーもまた華やかに談笑している。

 歓談の輪と笑い声が広がる横で、ユーグはそっとアリセルの元へ歩み寄った。
「なんか大勢いるけど、お前の両親の知り合い?」
「うちによく来るお客さん」
 ユーグの問いかけに、アリセルは固い表情で答えた。
 ルネを取り囲む客人の中には、婚約について考える時間が欲しいと答えたアリセルを窘めた婦人も老紳士の姿もある。
「私とルネ様の婚約のお披露目、本当は今夜ここでやる予定だったんだって」
「へぇ……」
 ユーグは口の片端だけで笑った。
 目元には悪戯を思いついた時のような光が宿り、その笑みは人の心をかき乱すような露悪的なものだった。アリセルはそっと眉をひそめる。
「ユーグ悪い顔してる」
「悪い顔なのは元からだ」
「そういう意味じゃないもの。……何か企んでいるでしょ」
「ああ、幕引きには丁度良い舞台だと思ってな」
 ユーグの言葉の意味が分からず、アリセルは首を傾げた。
 すると彼はアリセルの右手をすくい上げ、指先を掌に包み込み、中指にはめられた木の指輪にそっと触れる。
「アリセル、ありがとう」
「……何が?」
 礼を言われるような覚えがなく、アリセルは面食らった。

 不意に、ユーグの口元がわずかに上がった。
 それは一寸前の露悪的なものではなく、笑顔の形をしていながら、影を帯びている。まるでひとしずくの痛みが滲み出すような笑みは、鬱血した傷からあふれる血を思わせ、アリセルは思わず呼吸を止めた。こんな顔のユーグを見るのは初めてだった。

 どうしようもなく心を奪われ、胸がざわめき、無性に痛む。

 ふと、頬をかすめる温かい感触があったが、それが何なのかを考える余裕もなかった。
 ただ、目の前の彼の表情に囚われたまま、言葉がこぼれる。

「ユーグ……なんで泣いているの……?」

 泣いているのは自分なのに、その問いは彼へ向かっていた。
 ユーグは少し困ったように笑ってから、アリセルの手を口元に引き寄せる。
 そして、まるでそこに刻まれた想いを確かめるかのように、指輪の上へ唇を寄せた。

 触れたのは一瞬。

 それでもその温もりには、彼が初めて見せた、胸の奥を裂くような哀切と、どうしようもなく痛ましい愛情が滲んでいるようだった。
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