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幕間Ⅵ
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温室の中に、軽やかな足音が響いた。
腰まで届く長い髪を揺らしながら、ロザリーは息を弾ませてエリックのもとへ駆け寄る。
彼の肩から左手にかけて、白い包帯が巻かれているのを目にした途端、彼女の顔色はみるみる蒼ざめた。
「エリック……!」
ロザリーはエリックの胸元を掴み、深く項垂れた。その手は微かに震えている。
「心配いらないよ、ロザリー」
対してエリックの声は穏やかそのものだ。
足元は黒猫のノクスがロザリーを心配するように、彼女の足元に身をすり寄せて、「にゃあ」と小さく鳴いた。ロザリーは深く項垂れたまま首を左右に振る。
「誰がやったの? 誰があなたに傷を負わせたの?」
白い唇から震える声が零れだす。
エリックはロザリーの頭に手を置いた。
「さぁ、僕を目障りに思う連中は、たくさんいるからね」
とぼけたような受け答えに、ロザリーはぎりっと奥歯を噛み締めた。「許せないわ……」と、かすれるような呟きが、空気に溶けて消えていく。
「あなたを傷つけた奴らは、私が許さないっ。みんな地の果てまで追い詰めて殺してやる。皮も肉も削ぎ落して、声が枯れるまで泣かせてやるんだから」
ロザリーの感情に呼応するかのように、ノクスは毛並みを僅かに逆立てて唸る。
すると、そこに初老の男が音もなくやってきた。
彼は長年エリックに仕える執事のバロンだった。
灰色の髪をきちんと撫でつけ、深く刻まれた皺の奥には、揺らぎのない眼差しが宿っている。
背筋はまっすぐに伸び、控える立ち姿からも、仕えてきた年月の重みが感じられた。
彼はエリックとロザリーの前で、胸に手をあてがい一礼する。
「ロザリー様、ご機嫌いかがですかな?」
「いい訳ないでしょうっ!」
幼い子どものように唇を尖らせるロザリーに、「それは然り」とバロンは頷いた。
彼は視線をロザリーからエリックに向ける。
「よろしいのですか、エリック様。あなたは誰も手にかけてはいない。マレ家の長男は自害しただけなのに民は、あなたがそうしたと信じている。王政復権派が火をつけた噂に、今回の事件。このままでは、あなたの立場どころか命まで危うくなります」
「奴らの尻尾を掴むためには、それくらいのリスクはとらないとね」
軽く笑うエリックだが、その笑みは口元にだけ浮かび、瞳の奥には揺るぎない計算の光が宿っていた。
「バロン、ロザリー。聞いてくれるかい。しばらくの間、僕はこの世からいなくなったことにしてみようと思う」
耳に届いた言葉の意味をすぐには飲み込めず、バロンは息を呑み、ロザリーは目を大きく見開いた。
「いなくなる、とは?」
バロンが問い返す。その声には緊張が滲んでいた。
「標的が消えたと知れば、潜んでいた連中は必ず動く。慌てて都を目指すだろう。そうなれば、顔ぶれも動きも一度に洗い出せる」
語り口は淡々としていたが、その奥には、仕掛けを終えた狩人のような気配があった。
バロンは深く息を吐き、皺の寄った眉間に手をあてがう。
「……そんなことが、本当にうまくいくとお考えですか」
問いかけは低く抑えられていたが、その奥には不安と苛立ちが入り混じっている。
エリックは肩をわずかに竦め、口元に淡い笑みを残したまま答えた。
「さあ、やってみなければ分からないな」
バロンは一瞬ためらい、次の言葉を探すように視線を落とした。
「では、その時が来たら、ノクス様にもお戻りいただくおつもりなのですか」
「いや、あの子は賢い子だ。その時が来れば、自分から戻ってくるよ」
エリックは迷いのない声音で言い切り、ロザリーの髪にそっと触れた。そ
の様子を見つめていたバロンだが、小さく吐息をつき、視線を僅かに伏せる。
「……エリック様、私は以前、ほんの短い間ですが、こっそりノクス様のご様子を見に行ったことがあります。彼は、私がこれまでお側で拝見してきたどの時よりも、穏やかで、幸せそうでした。まるで長く探していた場所を見つけたかのように、表情が柔らかく、目の奥に光が宿っていたのです」
バロンの声には、感慨とわずかな逡巡が入り混じっていた。
自分の名を呼ばれたと思ったのか、黒猫は顔をあげて、じっとバロンを見つめる。
「そうだね。あの子は、役目を忘れそうになってしまった。最初は仮面をかぶって、すべて計算の上で接していたはずなのに、気づけば、その仮面の裏側まで揺らされていた。本気になってしまったんだ」
「ノクス様は本当にお戻りになるでしょうか。ご自分の幸せを見つけてしまわれたのではありませんか」
バロンの言葉に、エリックはゆるやかに口元をほころばせた。
肩の力を抜いたその笑みは、全てを見通している者だけが浮かべられるものだった。
「たとえ、幸せをその手で壊すことになろうとも、あの子はロザリーを置き去りにはできない。あの子にとって、それは生き方そのものを裏切ることになるからね。……そうだろ、ロザリー」
話について行けなかったのか、不思議そうな顔をしていたロザリーだが、呼びかけられて瞬きをする。小さく首を傾げてから口を開く。
「ノクスはとっても賢いもの。賢くて優しくて、大事な大事な私とあなたの子だわ」
「君を守るために、ノクスは大事なものを壊さないといけないんだよ。それについてはどう思う?」
「当然のことよ」
エリックの言葉を受けてロザリーは微笑んだ。
その笑みには、揺るぎない確信と甘やかな支配が混じっている。
「だって私はノクスのお母さんだもの。子どもは、お母さんのために、すべてを捨てて、すべてを失うことができる。壊すことも、燃やすことも、命だって惜しまないのよ」
苛烈な言葉とは裏腹に、その瞳は慈母のような優しい輝くを帯びていた。
痛ましげに視線を落とすバロンの横で、エリックはひょいっと黒猫を片手で抱き上げた。
「ロザリー、君はあの家の両親によく似ている。ノクスも血の呪縛から逃げることはできない。だから、あの子は彼女に惹かれてしまったんだろうね」
エリックに喉を撫でられ、ノクスは機嫌よくゴロゴロと喉を鳴らした。
温室にはその低く柔らかな音が満ち、陽光に温められた湿った空気と花々の香りが静かに漂っている。
葉の隙間からこぼれる光が、毛並みと包帯を交互に照らし、やがて時の流れまでもゆるやかに溶かしていった。
腰まで届く長い髪を揺らしながら、ロザリーは息を弾ませてエリックのもとへ駆け寄る。
彼の肩から左手にかけて、白い包帯が巻かれているのを目にした途端、彼女の顔色はみるみる蒼ざめた。
「エリック……!」
ロザリーはエリックの胸元を掴み、深く項垂れた。その手は微かに震えている。
「心配いらないよ、ロザリー」
対してエリックの声は穏やかそのものだ。
足元は黒猫のノクスがロザリーを心配するように、彼女の足元に身をすり寄せて、「にゃあ」と小さく鳴いた。ロザリーは深く項垂れたまま首を左右に振る。
「誰がやったの? 誰があなたに傷を負わせたの?」
白い唇から震える声が零れだす。
エリックはロザリーの頭に手を置いた。
「さぁ、僕を目障りに思う連中は、たくさんいるからね」
とぼけたような受け答えに、ロザリーはぎりっと奥歯を噛み締めた。「許せないわ……」と、かすれるような呟きが、空気に溶けて消えていく。
「あなたを傷つけた奴らは、私が許さないっ。みんな地の果てまで追い詰めて殺してやる。皮も肉も削ぎ落して、声が枯れるまで泣かせてやるんだから」
ロザリーの感情に呼応するかのように、ノクスは毛並みを僅かに逆立てて唸る。
すると、そこに初老の男が音もなくやってきた。
彼は長年エリックに仕える執事のバロンだった。
灰色の髪をきちんと撫でつけ、深く刻まれた皺の奥には、揺らぎのない眼差しが宿っている。
背筋はまっすぐに伸び、控える立ち姿からも、仕えてきた年月の重みが感じられた。
彼はエリックとロザリーの前で、胸に手をあてがい一礼する。
「ロザリー様、ご機嫌いかがですかな?」
「いい訳ないでしょうっ!」
幼い子どものように唇を尖らせるロザリーに、「それは然り」とバロンは頷いた。
彼は視線をロザリーからエリックに向ける。
「よろしいのですか、エリック様。あなたは誰も手にかけてはいない。マレ家の長男は自害しただけなのに民は、あなたがそうしたと信じている。王政復権派が火をつけた噂に、今回の事件。このままでは、あなたの立場どころか命まで危うくなります」
「奴らの尻尾を掴むためには、それくらいのリスクはとらないとね」
軽く笑うエリックだが、その笑みは口元にだけ浮かび、瞳の奥には揺るぎない計算の光が宿っていた。
「バロン、ロザリー。聞いてくれるかい。しばらくの間、僕はこの世からいなくなったことにしてみようと思う」
耳に届いた言葉の意味をすぐには飲み込めず、バロンは息を呑み、ロザリーは目を大きく見開いた。
「いなくなる、とは?」
バロンが問い返す。その声には緊張が滲んでいた。
「標的が消えたと知れば、潜んでいた連中は必ず動く。慌てて都を目指すだろう。そうなれば、顔ぶれも動きも一度に洗い出せる」
語り口は淡々としていたが、その奥には、仕掛けを終えた狩人のような気配があった。
バロンは深く息を吐き、皺の寄った眉間に手をあてがう。
「……そんなことが、本当にうまくいくとお考えですか」
問いかけは低く抑えられていたが、その奥には不安と苛立ちが入り混じっている。
エリックは肩をわずかに竦め、口元に淡い笑みを残したまま答えた。
「さあ、やってみなければ分からないな」
バロンは一瞬ためらい、次の言葉を探すように視線を落とした。
「では、その時が来たら、ノクス様にもお戻りいただくおつもりなのですか」
「いや、あの子は賢い子だ。その時が来れば、自分から戻ってくるよ」
エリックは迷いのない声音で言い切り、ロザリーの髪にそっと触れた。そ
の様子を見つめていたバロンだが、小さく吐息をつき、視線を僅かに伏せる。
「……エリック様、私は以前、ほんの短い間ですが、こっそりノクス様のご様子を見に行ったことがあります。彼は、私がこれまでお側で拝見してきたどの時よりも、穏やかで、幸せそうでした。まるで長く探していた場所を見つけたかのように、表情が柔らかく、目の奥に光が宿っていたのです」
バロンの声には、感慨とわずかな逡巡が入り混じっていた。
自分の名を呼ばれたと思ったのか、黒猫は顔をあげて、じっとバロンを見つめる。
「そうだね。あの子は、役目を忘れそうになってしまった。最初は仮面をかぶって、すべて計算の上で接していたはずなのに、気づけば、その仮面の裏側まで揺らされていた。本気になってしまったんだ」
「ノクス様は本当にお戻りになるでしょうか。ご自分の幸せを見つけてしまわれたのではありませんか」
バロンの言葉に、エリックはゆるやかに口元をほころばせた。
肩の力を抜いたその笑みは、全てを見通している者だけが浮かべられるものだった。
「たとえ、幸せをその手で壊すことになろうとも、あの子はロザリーを置き去りにはできない。あの子にとって、それは生き方そのものを裏切ることになるからね。……そうだろ、ロザリー」
話について行けなかったのか、不思議そうな顔をしていたロザリーだが、呼びかけられて瞬きをする。小さく首を傾げてから口を開く。
「ノクスはとっても賢いもの。賢くて優しくて、大事な大事な私とあなたの子だわ」
「君を守るために、ノクスは大事なものを壊さないといけないんだよ。それについてはどう思う?」
「当然のことよ」
エリックの言葉を受けてロザリーは微笑んだ。
その笑みには、揺るぎない確信と甘やかな支配が混じっている。
「だって私はノクスのお母さんだもの。子どもは、お母さんのために、すべてを捨てて、すべてを失うことができる。壊すことも、燃やすことも、命だって惜しまないのよ」
苛烈な言葉とは裏腹に、その瞳は慈母のような優しい輝くを帯びていた。
痛ましげに視線を落とすバロンの横で、エリックはひょいっと黒猫を片手で抱き上げた。
「ロザリー、君はあの家の両親によく似ている。ノクスも血の呪縛から逃げることはできない。だから、あの子は彼女に惹かれてしまったんだろうね」
エリックに喉を撫でられ、ノクスは機嫌よくゴロゴロと喉を鳴らした。
温室にはその低く柔らかな音が満ち、陽光に温められた湿った空気と花々の香りが静かに漂っている。
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