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Echo48:未来を問う
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雲に覆われた空は、うっすらとした光を庭に落としていた。
草の上には薄手の敷物が広げられ、中央に置かれた銀のポットから湯気がゆるやかに立ちのぼっている。
「エリック・ジルベールの暗殺未遂があったんですって」
そう言いながら、デイジーは手にしていた都の報告紙を広げた。
ユーグはどうやら既に知っていたらしく、視線を一瞥だけ投げてカップへ口をつけた。
対して、アリセルとルネにとっては、それが初めて目にする都の報告紙だった。
ふたりは思わず身を寄せ、紙面を覗き込む。
活字の並びは整然としているのに、その行間には見知らぬ都のざわめきや、遠い出来事の響きが潜んでいるように思えた。
一面に書かれていたのは、王政復権派によるエリックの暗殺未遂の事件だった。
「なんだか、最近は騒がしいね」
アリセルは、紙面から目を離さないまま呟いた。
報告によれば、エリックの怪我は命に別状はないという。
曇り空の下、報告紙に刻まれた黒い文字が、アリセルにはどこか遠くの雷鳴のように思えた。
実際の距離は遠くても、その響きはここまで届いている感覚が、じわりと広がっていく。
「まったく、だらしないわね。やるからには、仕留めなければ意味がないわ」
デイジーは指先で紙の端を軽く叩き、溜息をつく。
その瞳は不完全さを退屈そうに測る冷ややかさがあった。
「もし、エリックさんが亡くなったら、次の統治者はどうなるの?」
ルネは首を傾げ、問いかけるようにユーグを見つめた。
青い瞳は真っ直ぐで、子どものような純粋さと、大人びた探るような色とが入り混じっている。
ユーグはカップを口元で止め、肩をすくめるように息を吐く。
「また選挙をやるだけだ」
その言葉にデイジーは報告紙をぱたりと畳んだ。
「選挙ね」
低く笑みを洩らし、視線を遠くへ投げる。
「公平だと信じているのは、投票する側だけよ。あんなもの、事前に誰が椅子に座るか決まっている舞台劇みたいなものだわ。それでも皆、票を投じれば自分が国を動かした気分になれる。可愛らしい幻想じゃなくて?」
「いや、少なくとも決まってはいないな」
ユーグの反応に、デイジーは虚を突かれたように、目を瞬いた。
そんな彼女を見つめて、ユーグは言葉を続ける。
「蓋を開けるまで分からないもんだ。舞台劇ってのは、筋書き通りに進むから舞台劇なんだろ。あれは、もうちょっと足元がぐらついてる」
「……まぁ、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれないわね」
言葉の端に確信めいた重みを乗せて告げるユーグに、デイジーは一瞬だけ視線を逸らし、それから再び彼を見た。彼女は一息ついてから、「でも…」と続ける。
「でも選挙なんて、下々が互いに争うだけの騒ぎよ。本来、国を導くのは生まれながらに責務を負った王族。血筋に裏づけられた誇りと責任こそが、国を安定させる礎なの」
「まるでルネに王になれって言ってるみたいだな」
ユーグが口元にかすかな笑みを浮かべる。
デイジーはカップをそっと置いて、ゆるやかに頷いた。
「ええ、それこそが本来、この国のあるべき在り方ですもの」
「だってさ、ルネはどうだ?」
ユーグに呼びかけられたルネは、一瞬瞬きをし、二人の間に流れる空気を測るように視線を往復させる。
「僕は……」
ルネは言い淀み、軽く俯いた。
膝の上の手がそっと握られ、爪が掌にかすかに食い込む。
「分からない。王がどういうものかも……、僕にはよく分からないんだ。でも、もし僕が王になって、大事な人が、少しでも笑ってくれるのなら。喜んでくれるのなら……僕は、そうなってもいいと思う」
その声音は決して大きくはなかったが、曖昧さの奥に、確かな色を宿していた。
ルネの言葉を、アリセルは胸が詰まる思いで聞いていた。
ルネの言う大事な人とは、恐らく自分のことなのだろう。
彼はまだ世界に触れたばかりで、王や政治のことなど殆ど知らないはずだ。
それでも、自分のためならその座に就いてもいいと言う。その真っすぐさが、無垢な子どものようで、どこか切なさを伴って胸に迫った。
「ルネ様が王になったら、アリセルは王妃ね。もう、迷ってる暇なんてないわ」
デイジーが柔らかく笑った。ユーグは彼女に視線を向ける。
「ずいぶん筋書きがはっきりしてるじゃないか。王がいて、王妃がいて……それで、その先は?」
「その先……?」
「王が即位すれば、取り巻きも変わる。法も制度も全部、王の意志で決まるようになる。そうなれば、昔みたいに王が国を治める形に戻る訳だ」
「ええ、そうね。私はそうあるべきだと思っているわ」
デイジーの答えに、ユーグは視線を落としたまま、口元だけをわずかに緩めた。
「だったら、もし今の政権が、それを阻もうとしたら?」
「阻む?」
「王政復権なんて言葉を口にすれば、黙って見ていられない奴らが必ず出てくる。それくらいは分かってるだろ」
ユーグの声色は柔らかく、まるで他人事のように軽く投げる。
デイジーはカップを持ち上げ、しばし中の琥珀色を見つめた。
「ええ、そうでしょうね」
「その時はどうするんだ? 成り行きに任せて待つのか、それとも……」
「成り行き任せにはしないわ」
デイジーは微笑んだまま、指先でカップの縁をなぞる。
「必要なら、動く人は動くものよ」
「ねぇ、なんの話をしているの? 例えばってことだよね。なんだか、さっきから……まるで、本当にそうなるみたいな言い方じゃない」
思わず口を挟んだアリセルの声には、わずかな緊張と探るような響きが混じっていた。
その視線は、向かい合う二人の間を行き来する。
けれど、互いの表情から本心を読み取ることはできない。
「気にするな。ただの国政談義だ」
「ええ、そうよ、未来のことなんて、想像しようと思えばいくらでも語れるでしょう?」
ふたりの会話の軽やかさとは裏腹に、アリセルの胸には答えの見えない靄が広がっていく。
「ねぇ、アリセルは?」
不意にルネが口を開いた。
その声音は穏やかだったが、真っすぐに向けられる視線には揺らぎがなかった。
「君は、どんな未来を……どんな国を望む?」
「私には、国のことなんて分からない。でも今みたいな未来が、ずっと続けば良いと思う」
アリセルの言葉に、デイジーは薄く笑みを浮かべた。
だがその笑みは唇の形だけで、目元には冷たい光が宿っている。
「随分と慎ましいこと。欲しいものは今みたいな未来だけ? ……そうやって、手の届くところまで来ても、自分からは取らないのね」
「……私には、もう足りているもの」
アリセルの声はかすかで、けれどはっきりと響いた。
欲を否定するというより、すでに胸の中が満たされていて、これ以上を望む余白がなかった。
彼女の視線は下がったままだったが、その横顔には静けさが漂っていた。
草の上には薄手の敷物が広げられ、中央に置かれた銀のポットから湯気がゆるやかに立ちのぼっている。
「エリック・ジルベールの暗殺未遂があったんですって」
そう言いながら、デイジーは手にしていた都の報告紙を広げた。
ユーグはどうやら既に知っていたらしく、視線を一瞥だけ投げてカップへ口をつけた。
対して、アリセルとルネにとっては、それが初めて目にする都の報告紙だった。
ふたりは思わず身を寄せ、紙面を覗き込む。
活字の並びは整然としているのに、その行間には見知らぬ都のざわめきや、遠い出来事の響きが潜んでいるように思えた。
一面に書かれていたのは、王政復権派によるエリックの暗殺未遂の事件だった。
「なんだか、最近は騒がしいね」
アリセルは、紙面から目を離さないまま呟いた。
報告によれば、エリックの怪我は命に別状はないという。
曇り空の下、報告紙に刻まれた黒い文字が、アリセルにはどこか遠くの雷鳴のように思えた。
実際の距離は遠くても、その響きはここまで届いている感覚が、じわりと広がっていく。
「まったく、だらしないわね。やるからには、仕留めなければ意味がないわ」
デイジーは指先で紙の端を軽く叩き、溜息をつく。
その瞳は不完全さを退屈そうに測る冷ややかさがあった。
「もし、エリックさんが亡くなったら、次の統治者はどうなるの?」
ルネは首を傾げ、問いかけるようにユーグを見つめた。
青い瞳は真っ直ぐで、子どものような純粋さと、大人びた探るような色とが入り混じっている。
ユーグはカップを口元で止め、肩をすくめるように息を吐く。
「また選挙をやるだけだ」
その言葉にデイジーは報告紙をぱたりと畳んだ。
「選挙ね」
低く笑みを洩らし、視線を遠くへ投げる。
「公平だと信じているのは、投票する側だけよ。あんなもの、事前に誰が椅子に座るか決まっている舞台劇みたいなものだわ。それでも皆、票を投じれば自分が国を動かした気分になれる。可愛らしい幻想じゃなくて?」
「いや、少なくとも決まってはいないな」
ユーグの反応に、デイジーは虚を突かれたように、目を瞬いた。
そんな彼女を見つめて、ユーグは言葉を続ける。
「蓋を開けるまで分からないもんだ。舞台劇ってのは、筋書き通りに進むから舞台劇なんだろ。あれは、もうちょっと足元がぐらついてる」
「……まぁ、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれないわね」
言葉の端に確信めいた重みを乗せて告げるユーグに、デイジーは一瞬だけ視線を逸らし、それから再び彼を見た。彼女は一息ついてから、「でも…」と続ける。
「でも選挙なんて、下々が互いに争うだけの騒ぎよ。本来、国を導くのは生まれながらに責務を負った王族。血筋に裏づけられた誇りと責任こそが、国を安定させる礎なの」
「まるでルネに王になれって言ってるみたいだな」
ユーグが口元にかすかな笑みを浮かべる。
デイジーはカップをそっと置いて、ゆるやかに頷いた。
「ええ、それこそが本来、この国のあるべき在り方ですもの」
「だってさ、ルネはどうだ?」
ユーグに呼びかけられたルネは、一瞬瞬きをし、二人の間に流れる空気を測るように視線を往復させる。
「僕は……」
ルネは言い淀み、軽く俯いた。
膝の上の手がそっと握られ、爪が掌にかすかに食い込む。
「分からない。王がどういうものかも……、僕にはよく分からないんだ。でも、もし僕が王になって、大事な人が、少しでも笑ってくれるのなら。喜んでくれるのなら……僕は、そうなってもいいと思う」
その声音は決して大きくはなかったが、曖昧さの奥に、確かな色を宿していた。
ルネの言葉を、アリセルは胸が詰まる思いで聞いていた。
ルネの言う大事な人とは、恐らく自分のことなのだろう。
彼はまだ世界に触れたばかりで、王や政治のことなど殆ど知らないはずだ。
それでも、自分のためならその座に就いてもいいと言う。その真っすぐさが、無垢な子どものようで、どこか切なさを伴って胸に迫った。
「ルネ様が王になったら、アリセルは王妃ね。もう、迷ってる暇なんてないわ」
デイジーが柔らかく笑った。ユーグは彼女に視線を向ける。
「ずいぶん筋書きがはっきりしてるじゃないか。王がいて、王妃がいて……それで、その先は?」
「その先……?」
「王が即位すれば、取り巻きも変わる。法も制度も全部、王の意志で決まるようになる。そうなれば、昔みたいに王が国を治める形に戻る訳だ」
「ええ、そうね。私はそうあるべきだと思っているわ」
デイジーの答えに、ユーグは視線を落としたまま、口元だけをわずかに緩めた。
「だったら、もし今の政権が、それを阻もうとしたら?」
「阻む?」
「王政復権なんて言葉を口にすれば、黙って見ていられない奴らが必ず出てくる。それくらいは分かってるだろ」
ユーグの声色は柔らかく、まるで他人事のように軽く投げる。
デイジーはカップを持ち上げ、しばし中の琥珀色を見つめた。
「ええ、そうでしょうね」
「その時はどうするんだ? 成り行きに任せて待つのか、それとも……」
「成り行き任せにはしないわ」
デイジーは微笑んだまま、指先でカップの縁をなぞる。
「必要なら、動く人は動くものよ」
「ねぇ、なんの話をしているの? 例えばってことだよね。なんだか、さっきから……まるで、本当にそうなるみたいな言い方じゃない」
思わず口を挟んだアリセルの声には、わずかな緊張と探るような響きが混じっていた。
その視線は、向かい合う二人の間を行き来する。
けれど、互いの表情から本心を読み取ることはできない。
「気にするな。ただの国政談義だ」
「ええ、そうよ、未来のことなんて、想像しようと思えばいくらでも語れるでしょう?」
ふたりの会話の軽やかさとは裏腹に、アリセルの胸には答えの見えない靄が広がっていく。
「ねぇ、アリセルは?」
不意にルネが口を開いた。
その声音は穏やかだったが、真っすぐに向けられる視線には揺らぎがなかった。
「君は、どんな未来を……どんな国を望む?」
「私には、国のことなんて分からない。でも今みたいな未来が、ずっと続けば良いと思う」
アリセルの言葉に、デイジーは薄く笑みを浮かべた。
だがその笑みは唇の形だけで、目元には冷たい光が宿っている。
「随分と慎ましいこと。欲しいものは今みたいな未来だけ? ……そうやって、手の届くところまで来ても、自分からは取らないのね」
「……私には、もう足りているもの」
アリセルの声はかすかで、けれどはっきりと響いた。
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