看守の娘

山田わと

文字の大きさ
53 / 92

Echo48:未来を問う

しおりを挟む
 雲に覆われた空は、うっすらとした光を庭に落としていた。
 草の上には薄手の敷物が広げられ、中央に置かれた銀のポットから湯気がゆるやかに立ちのぼっている。

「エリック・ジルベールの暗殺未遂があったんですって」

 そう言いながら、デイジーは手にしていた都の報告紙を広げた。
 ユーグはどうやら既に知っていたらしく、視線を一瞥だけ投げてカップへ口をつけた。

 対して、アリセルとルネにとっては、それが初めて目にする都の報告紙だった。

 ふたりは思わず身を寄せ、紙面を覗き込む。
 活字の並びは整然としているのに、その行間には見知らぬ都のざわめきや、遠い出来事の響きが潜んでいるように思えた。
 一面に書かれていたのは、王政復権派によるエリックの暗殺未遂の事件だった。

「なんだか、最近は騒がしいね」

 アリセルは、紙面から目を離さないまま呟いた。
 報告によれば、エリックの怪我は命に別状はないという。
 曇り空の下、報告紙に刻まれた黒い文字が、アリセルにはどこか遠くの雷鳴のように思えた。

 実際の距離は遠くても、その響きはここまで届いている感覚が、じわりと広がっていく。

「まったく、だらしないわね。やるからには、仕留めなければ意味がないわ」
 デイジーは指先で紙の端を軽く叩き、溜息をつく。
 その瞳は不完全さを退屈そうに測る冷ややかさがあった。
「もし、エリックさんが亡くなったら、次の統治者はどうなるの?」
 ルネは首を傾げ、問いかけるようにユーグを見つめた。
 青い瞳は真っ直ぐで、子どものような純粋さと、大人びた探るような色とが入り混じっている。
 ユーグはカップを口元で止め、肩をすくめるように息を吐く。
「また選挙をやるだけだ」
 その言葉にデイジーは報告紙をぱたりと畳んだ。
「選挙ね」
 低く笑みを洩らし、視線を遠くへ投げる。
「公平だと信じているのは、投票する側だけよ。あんなもの、事前に誰が椅子に座るか決まっている舞台劇みたいなものだわ。それでも皆、票を投じれば自分が国を動かした気分になれる。可愛らしい幻想じゃなくて?」
「いや、少なくとも決まってはいないな」
 ユーグの反応に、デイジーは虚を突かれたように、目を瞬いた。
 そんな彼女を見つめて、ユーグは言葉を続ける。
「蓋を開けるまで分からないもんだ。舞台劇ってのは、筋書き通りに進むから舞台劇なんだろ。あれは、もうちょっと足元がぐらついてる」
「……まぁ、あなたがそう言うなら、そうなのかもしれないわね」
 言葉の端に確信めいた重みを乗せて告げるユーグに、デイジーは一瞬だけ視線を逸らし、それから再び彼を見た。彼女は一息ついてから、「でも…」と続ける。

「でも選挙なんて、下々が互いに争うだけの騒ぎよ。本来、国を導くのは生まれながらに責務を負った王族。血筋に裏づけられた誇りと責任こそが、国を安定させる礎なの」

「まるでルネに王になれって言ってるみたいだな」
 ユーグが口元にかすかな笑みを浮かべる。
 デイジーはカップをそっと置いて、ゆるやかに頷いた。
「ええ、それこそが本来、この国のあるべき在り方ですもの」
「だってさ、ルネはどうだ?」
 ユーグに呼びかけられたルネは、一瞬瞬きをし、二人の間に流れる空気を測るように視線を往復させる。
「僕は……」
 ルネは言い淀み、軽く俯いた。
 膝の上の手がそっと握られ、爪が掌にかすかに食い込む。
「分からない。王がどういうものかも……、僕にはよく分からないんだ。でも、もし僕が王になって、大事な人が、少しでも笑ってくれるのなら。喜んでくれるのなら……僕は、そうなってもいいと思う」
 その声音は決して大きくはなかったが、曖昧さの奥に、確かな色を宿していた。

 ルネの言葉を、アリセルは胸が詰まる思いで聞いていた。

 ルネの言う大事な人とは、恐らく自分のことなのだろう。
 彼はまだ世界に触れたばかりで、王や政治のことなど殆ど知らないはずだ。
 それでも、自分のためならその座に就いてもいいと言う。その真っすぐさが、無垢な子どものようで、どこか切なさを伴って胸に迫った。

「ルネ様が王になったら、アリセルは王妃ね。もう、迷ってる暇なんてないわ」

 デイジーが柔らかく笑った。ユーグは彼女に視線を向ける。
「ずいぶん筋書きがはっきりしてるじゃないか。王がいて、王妃がいて……それで、その先は?」
「その先……?」
「王が即位すれば、取り巻きも変わる。法も制度も全部、王の意志で決まるようになる。そうなれば、昔みたいに王が国を治める形に戻る訳だ」
「ええ、そうね。私はそうあるべきだと思っているわ」
 デイジーの答えに、ユーグは視線を落としたまま、口元だけをわずかに緩めた。
「だったら、もし今の政権が、それを阻もうとしたら?」
「阻む?」
「王政復権なんて言葉を口にすれば、黙って見ていられない奴らが必ず出てくる。それくらいは分かってるだろ」
 ユーグの声色は柔らかく、まるで他人事のように軽く投げる。
 デイジーはカップを持ち上げ、しばし中の琥珀色を見つめた。
「ええ、そうでしょうね」
「その時はどうするんだ? 成り行きに任せて待つのか、それとも……」
「成り行き任せにはしないわ」
 デイジーは微笑んだまま、指先でカップの縁をなぞる。
「必要なら、動く人は動くものよ」
「ねぇ、なんの話をしているの? 例えばってことだよね。なんだか、さっきから……まるで、本当にそうなるみたいな言い方じゃない」
 思わず口を挟んだアリセルの声には、わずかな緊張と探るような響きが混じっていた。
 その視線は、向かい合う二人の間を行き来する。
 けれど、互いの表情から本心を読み取ることはできない。
「気にするな。ただの国政談義だ」
「ええ、そうよ、未来のことなんて、想像しようと思えばいくらでも語れるでしょう?」
 ふたりの会話の軽やかさとは裏腹に、アリセルの胸には答えの見えない靄が広がっていく。
「ねぇ、アリセルは?」
 不意にルネが口を開いた。
 その声音は穏やかだったが、真っすぐに向けられる視線には揺らぎがなかった。
「君は、どんな未来を……どんな国を望む?」
「私には、国のことなんて分からない。でも今みたいな未来が、ずっと続けば良いと思う」
 アリセルの言葉に、デイジーは薄く笑みを浮かべた。
 だがその笑みは唇の形だけで、目元には冷たい光が宿っている。
「随分と慎ましいこと。欲しいものは今みたいな未来だけ? ……そうやって、手の届くところまで来ても、自分からは取らないのね」
「……私には、もう足りているもの」
 アリセルの声はかすかで、けれどはっきりと響いた。
 欲を否定するというより、すでに胸の中が満たされていて、これ以上を望む余白がなかった。

 彼女の視線は下がったままだったが、その横顔には静けさが漂っていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

処理中です...