看守の娘

山田わと

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Echo47:逃げ場なき優しさ

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 金色に焼き上げられたクロワッサンから、甘やかな香りが立ちのぼる。
 銀のポットには濃い紅茶が用意され、薄手の陶器にはクリームの浮かんだかぼちゃのスープが注がれていた。
 中央の皿には果実が盛られ、その隣には香草をまとうチーズと、薄く切られた生ハムが花のように並んでいる。

 窓辺から差し込む朝の光が、皿や銀器に柔らかく反射し、食卓を明るく彩る。

 いつもと同じ朝食の風景だ。
 しかし、その輝きの中で交わされる会話は少なく、器の触れ合う音や、パンを裂く小さな音ばかりが耳に残った。

 ジョゼフは黙々とスープを口に運び、ミーシャも穏やかな笑みを浮かべたまま、パンを裂いていた。

 アリセルは匙を持つ手を止め、両親の横顔をそっと見やり、口を開く。

「今度の秋祭りの準備、もう始まっているんだって。ユーグが立派な黒馬を借りてきたの」

 言葉に合わせて、黒馬の背に乗った時のことを思い出す。
 高い視界から見た草原、頬をかすめた風の冷たさ、囲われた腕の中での安心感。それらを思い出し、胸の奥に少しずつ温かさを呼び戻そうとした。
「……秋祭り、か」
 ジョゼフが低い声で告げた後、少し間を置いて続ける。
「ちょうど良い場になるはずだったのだ。私たちの知人も多く集まる。ルネ様にも顔を出していただく手筈だった」
 アリセルは思わず父を見やった。
 ミーシャが微笑を保ったまま、果物を薄く切り分ける。
「皆の前で、あなたの将来を祝っていただけたら、と思っていたのよ」
 ナイフの先で皿の端をそっと示しながら、やわらかい声で付け加える。

 秋祭りの夜には、新しい夫婦を祝う習わしがあった。

 豊穣の祭壇には、黄金色の穀物や熟れた果物が美しく盛られ、その横には繁栄の象徴とされる一頭の飾り馬が控えている。
 夜になると大きな炎がたかれ、その前で二人は互いの手を取り、変わらぬ愛を誓うのだ。
「……お知り合いの方は、大勢いらっしゃるの?」
「ああ、今年は特にな」
「あなた達にお祝いを言いたい方が、たくさんお見えになる予定だったの」
「……ごめんなさい」
 反射的に謝罪の言葉が口をついて出た。
 するとミーシャがすぐに首を振った。
「いいのよ、気にしないで。私たちは大丈夫。あなたの気持ちを一番に考えているから」
 アリセルは頷き、紅茶を口に運んだ。温かさは喉を通っても、息は浅くなるばかりだった。
 最近、謝るたびに繰り返して言われる。

 『大丈夫』
 『あなたの気持ちを置き去りにするつもりはない』
 『あなたが何より大切だから』

 その言葉自体は温かいのに、胸の奥には冷たい輪がはめられていくようで、苦しくなる。
 言われるたび、心のどこかがゆっくりと動きを奪われていく気がした。

 それでも、両親はいつも優しい言葉をかけてくれている。

 だから苦しくなるのは、自分の方がおかしいのだと思った。
 そんな気持ちを抱くこと自体が、恩知らずで、間違っているのだと。

 もう一口紅茶を含み、温かさで胸の奥のこわばりを誤魔化そうとする。
 それでも輪のような感覚は消えず、息の浅さだけが残った。


 卓上の紅茶を飲み干したころ、ジョゼフが椅子から腰を上げた。
 壁際に掛けられた外套へ視線を送り、手に取る。その仕草を見て、アリセルは時刻を悟った。
 彼は隣町で看守の役を務めている。
 朝に家を出て、昼過ぎには戻ってくるのがいつものことだった。

「お父様、途中まで一緒に行ってもいい? 村はずれまでなら、ちょうど塔の方へも向かえるし」
 ジョゼフは手を止め、アリセルの顔を見て頷いた。
 アリセルはほっとして微笑み、席を立った。椅子が床を擦る音が、朝の部屋に柔らかく伸びていった。

 父と肩を並べて歩くのは、久しぶりだった。
 朝の空気は澄みきっていて、道沿いの草が風にそよぎ、露を含んだ葉先が淡く光っている。
 踏みしめるたびに、草の柔らかな感触が足裏に伝わり、低く湿った香りが立ちのぼった。
 アリセルは父の横顔を窺いながら、ようやく声を出した。

「……お父様、ごめんなさい。時間が欲しいなんて、ワガママを言ってしまって」

 ジョゼフはすぐには答えない。草を踏む足音がふたりの間を満たした。
 やがて、その静けさをやさしく破るように、低く穏やかな声が降りてくる。

「お前は、私たちの宝だ。幸せになってほしいと願わない日なんて、一度もなかった」

 朝の光が父の輪郭を縁取り、その影は深く静かに沈んでいる。
 あまりにも温かい響きに、アリセルは胸が詰まりそうになった。
「お前が迷っているなら、私たちは待つつもりだ。だが、時は戻らない。大切な機会を逃すことが、どんな意味を持つか……それも覚えていてほしい」
 その口調には責める色はなく、寄り添うような静けさが漂っていた。
 だが、その静けさは不思議と、否を口にする道を見つけにくくする。
「考えた末に、別の道を選ぶのなら、それもいい。だが、選ぶときは、お前を心から思っている人たちの気持ちを忘れないでくれ」
 足元の草が陽を受けてきらめき、二人の影が緩やかに並んで伸びている。
 アリセルはその影を見つめながら、ゆっくりと頷いた。

 その後は、草を踏む音だけが静かに続いた。

 木立の間を柔らかな朝の光が抜け、道の上に淡い揺らぎを落とす。
 鳥の声も、今はどこか遠くに聞こえる。ややあって、ジョゼフの声が落ちた。
「アリセル。この婚約をためらっているのは、好きな相手がいるせいなのか?」
 唐突な問いかけに、アリセルは歩みを緩め、思わず父を見上げた。
 「いない」と言えばそれで済むはずなのに、その三文字が唇まで届かない。代わりに、頼りなく揺れる声がこぼれた。
「……わからないの」
「もし、その相手が……」
 ジョゼフは一拍置き、言葉を選ぶように口を開いた。
「ユーグ君ならば、あの子にはデイジー嬢がいる。人の隣にいる者を奪うというのは、どれほど罪深く、愚かなことか、お前なら分かるはずだ」
「奪うなんて、そんな……」
 奪うつもりなど、初めからない。
 それでも胸の奥に、かすかな影が差した。彼は本当にデイジーのものなのだろうか、と。

 ユーグは誰にでも親しみやすく、人を惹きつける笑みを見せるが、その奥には決して触れられない場所がある。
 そこに近づこうとすれば、形を変えて遠ざかってしまう。
 だから、もし好きになったとしても、きっと自分のものにはならない。
 デイジーのものでも、他の誰のものでもない。
 手を伸ばせば届きそうで、その距離はいつもわずかに開いている。
 捕らえようとすれば、指の間から零れ落ちる水のように、気づけば遠くへ行ってしまうだろう。

 そんな予感が、ひそやかに胸を締めつけた。
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