看守の娘

山田わと

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Echo46:見知らぬ風

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 ルネのもとから早めに帰った昼下がり。
 陽のぬくもりに包まれながらも、アリセルの胸の奥は最近の出来事で冷たく沈んでいた。

 そんな折、ユーグに呼ばれて約束の場所へと向かった。

 足取りは重くはないが、心はまだ晴れきらないままだった。

 村はずれの小川にかかる石橋のたもとでは、苔むした欄干の下を水が細く流れ、午後の陽を受けて静かにきらめいていた。
 周囲には背の高いポプラが並び、風に葉を揺らしている。

 その静けさの中に、ひときわ大きな影があった。
 深い黒光りを放つ毛並みに、しなやかな四肢。
 ユーグの傍らで、陽を浴びながら静かに首を振っているのは、見事な黒馬だった。

 それは以前、都から戻った彼が乗っていた馬だった。

 胸の奥の陰が、ふっと薄くなり、歩みが自然と速まる。沈んでいた視線がゆるやかに持ち上がった。

「その子、どうしたの?」

 アリセルの姿を認めると、ユーグは馬の首を撫でながら、わずかに唇の端を上げた。
「前に乗せてやるって言っただろ? だから連れてきた」
「連れてきたって、都から?」
「ああ……」
「私のために?」
「そうだと言いたい所なんだけどさ。実は今度の秋祭りで必要だって言うから、借りてきたんだ」
「あっ!」
 秋祭り、という言葉にアリセルは思わず声をあげた。
 それは一年の収穫を祝う村最大の行事だった。
 昼は飾りつけをした馬車や台車が村を巡り、広場では競馬や模擬槍試合が行われて賑わう。
 夜になると、広場の中央に豊穣の祭壇が設けられ、穀物や果物が山のように積まれる。
 火の灯った燭台を囲み、人々は来年の実りと家族の健康を祈る。
 祭りは夜更けまで音楽と踊りで続き、村全体が喜びに包まれる一日だった。

 毎年楽しみにしていたのだが、最近はそれどころではなく、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。

「そっか。もう、そんな季節なんだね」
 呟いた声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
 胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
 秋祭りのときの、人々の笑顔、焼きたての菓子や食べ物の匂い、夜闇を照らす炎に音楽。
 そのすべてが、遠ざかっていた日常を手招きしているように思えた。

 ふと視線を向けると、黒馬がユーグの肩に鼻先を押しつけていた。

 まるで子犬のように首を擦り寄せて甘える様子があまりにも微笑ましくて、アリセルは思わず笑みを零す。 
「……触ってもいい?」
 恐る恐る尋ねると、ユーグは軽く頷いた。アリセルはそっと手を伸ばす。黒馬の耳がぴくりと動いたが、すぐにその大きな頭を差し出すように近づけてきた。
 掌に伝わる毛並みは思っていたよりも柔らかく、そして温かい。

「……わぁ」

 自然と息がこぼれる。
 撫でるたび、黒馬の瞳が細まり、穏やかな息が掌にかかる。その反応が嬉しくて、アリセルの頬には久しぶりに心からの笑みが浮かんでいた。
「気に入られたな」
 隣から低く笑う声がして、アリセルは振り返った。
 ユーグは手綱を軽く握りながら、どこか誇らしげにその様子を見ている。
「この子、いつもこんなに人懐こいの?」
「いや、そうでもない。お前だからだろ」
 あっさり言われた言葉に、頬に熱を帯びるのを感じながらも、再び黒馬の首を撫でる。
 不意にユーグが手綱を引き、アリセルの方へ馬を寄せた。
「乗ってみるか?」
「いいの?」
「もちろん。そのつもりでここに来たんだから」
 そう言ってユーグは片膝をつき、手を差し出した。
 その手を取ると、もう片方の腕が膝裏に回され、同時に背中を支えられる。

 次の瞬間、全身が軽々と持ち上がり、ふわりと宙に浮いた。

 視界が揺れ、近くで感じる腕の力強さと安定感に、思わず息が詰まる。
 足先が鞍の横をかすめ、揺れが収まったときには、もう高い位置に腰を下ろしていた。

 馬の背から見下ろす景色は、まるで別の世界のようだった。

 陽光に照らされて輝く川に、その向こうに広がる畑や遠くの丘の緑。
 澄んだ空気が頬を撫で、胸いっぱいに吸い込むたび、清々しさが全身に満ちていく。

 その時、馬がわずかに沈み、背後で衣擦れの音がした。
 鐙を踏む音とともに、軽やかな動きでユーグが鞍を跨ぐ。手綱を取る気配が肩越しに伝わり、背中には確かな体温が寄り添った。

「怖くないか?」

 背後から包み込むように腕が伸び、アリセルを囲い込む位置で手綱が握られた。
「ぜんぜん!」
 胸の奥から自然にこぼれた声は、自分でも驚くほどの弾んでいた。
 頬が熱を帯び、視界まで明るくなるような感覚に満たされる。
 とびきりの笑顔を向けるアリセルに、ユーグの肩がわずかに強張り、視線が一瞬だけ揺れた。
 息を呑む気配が、背後越しにも伝わってくる。
 だがその変化は本当に一瞬で、次の瞬間にはもう、何事もなかったかのように手綱が引かれた。

 蹄の音は最初こそ穏やかだったが、やがて一定のリズムを刻みながら速さを増していった。

 身体が前へと押し出されるような感覚に、胸の鼓動も次第に高鳴っていく。
 頬を打つ風は冷たく、それでいて心地よい。

「なんだか飛んでいるみたい!」

 思わず零れた言葉は、風にさらわれそうなほど軽かった。
 だが、背後からしっかりと囲むように伸ばされた腕の存在が、その声ごと包み込むように受け止める。手綱を操るたび触れる体温が、速度の増す景色とは対照的に、静かな安心を胸に広げていった。

「行きたい所はあるか?」

 背後から問いかけられて、アリセルは小さく息を呑む。

 本音を言えば、このままずっと遠くまで行ってしまいたい気分だった。
 両親のことも、婚約の話も、全てを置き去りにして。
 何もかも投げ出して、ただこの風を連れて、見知らぬ土地へ辿り着きたかった。
 だが、その願いはあまりにも子どもじみていて口にする事などできない。

 かわりに口をついたのは、「丘の向こう」と、ささやかな願いだった。
 そこに何があるのかは知らない。
 ただ、遠くから見える柔らかな稜線の先を、自分の目で確かめてみたかった。

 理由などなくても、あの向こうにはきっと、まだ見ぬ景色と風が待っている。
 そう思うだけで、胸の奥が軽くなる気がしたのだった。
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