看守の娘

山田わと

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Echo59:鍵とナイフ

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 朝の柔らかな光が部屋の窓から差し込んでいた。
 澄んだ空気の中で、ミーシャは娘の椅子の後ろに立ち、歌を口ずさむような調子で櫛を滑らせていった。
「今日もきれいな髪ね」
 そう言ってアリセルの髪を持ち上げ、光に透かして眺める。
 一本一本が光を受け、淡く輝いて見えるのが嬉しいらしく、満足げに頷いた。
 アリセルは椅子に腰かけ、少し俯きながら静かにその手の動きを受けていた。

 以前、デイジーに指摘されたとおり、アリセルは自分の髪をほとんど手入れしていなかった。

 けれども近頃は、母がよく櫛を入れてくれる。
 櫛の歯に落とした香油が木にしみこみ、草花の匂いが淡く漂う。髪に櫛が通るたび、油は房を包み、日に日に艶を増していた。

 ミーシャは髪を撫でるように整え、左右の乱れを確認してから、柔らかく指を通した。

「少し巻いてもいいかしら。きっと似合うわ」
 やがて髪は丁寧に梳き整えられ、肩に柔らかな曲線を描いた。
 ミーシャは櫛を手から離し、娘の頬へと視線を移す。
「アリセル、とても綺麗よ」
「ありがとう」
 アリセルはそっと微笑んで応じた。
 少し前なら、母に髪を整えてもらえることを喜んでいたはずなのに、今は胸の内に何の揺らぎも生まれない。
 その動かない自分の心を、アリセルはどこか後ろめたく感じていた。
 しかしミーシャはそんな娘の心情に気付いた様子もなく、言葉を続ける。

「この髪なら、きっとルネ様もお喜びになるわ」
 その声には晴れやかな確信がこもっていた。
 アリセルはその言葉を耳にしながらも、ただぼんやりと視線を落とすだけだった。
 微笑みだけを形の上で返しつつ、心はどこか遠くに置き去りにされたままだ。

 そのとき、扉が開き、ジョゼフが入ってきた。

 娘の姿を見とめると、彼はわずかに目を細め、低く満ち足りた声を洩らした。
「美しいな、アリセル。すっかり娘らしくなった」
 向けられた褒め言葉を、アリセルはただ黙って受けとめる。ジョゼフは歩み寄り、言う。
「ルネ様と婚約を結んだのだから、これからは塔で暮らす日を設けるといい」
「ここには帰ってきちゃだめなの?」
 アリセルの胸に戸惑いが広がり、思わず声がこぼれた。
 ジョゼフは首を横に振り、静かに言い聞かせるように答える。
「そういうことじゃない。お前の家はここだ。ただ、日に何度かはあそこで暮らし、ルネ様と時を共にするんだ。それが妻となるための備えでもあり、看守の役目にもなる」
 その声音には優しさがあったが、決定を覆す余地はどこにも感じられなかった。
 アリセルの胸の内には言葉にしづらい重さが残った。
 だが、これも自分のためを思ってのことだと、心の中で言い聞かせて、小さく頷いた。
「……分かったわ」
 その返事は穏やかに響いたものの、奥に広がる空白は埋まらぬまま、静かに沈んでいた。


 その後、アリセルは用意された荷を抱えていた。
 包みの中には着替えや寝間着、裁縫道具、木の匙や小鍋、乾いた豆や粉などの食材が詰められている。
 出立の間際、ジョゼフは重い鉄の鍵を差し出した。

「塔の出入りはお前の責任になる。ルネ様のそばにあることが、お前の務めだ」

 冷たさの伝わる鍵の重みを両手で受けとめ、アリセルは頷いた。
 次にジョゼフが手渡したのは、果物や紐を切るのに丁度良い小ぶりのナイフだった。
「これも持っていくと良い。日々の務めの中で細かく使うことも多いだろう。手元にあればきっと重宝するはずだ」
 ナイフの刃の根元には小さな三日月が刻まれ、木の柄を留める鋲は星のかたちをしている。
 飾り気のない日用品にすぎないのに、不思議と目に残る意匠だった。
「料理にも使いやすそう」
 アリセルの言葉に、ジョゼフはわずかに口元をゆるめ、娘の頭にそっと手を置いた。

 両親に見送られ、家を後にする。
 外へ出れば、朝露を宿した草むらが道の両脇に揺れていた。

 風に押されるように緑がさわめき、裾を濡らす。

 踏み分け道をたどるにつれ、塔の姿が徐々に近づいてくる。
 灰色の石壁は朝の光を受けても冷たく沈み、ただ無言で立っていた。

 毎日目にする光景なのに、ここで生活を始めるのだと思うと、いつもと違って見えた。
 アリセルは荷を抱え直し、草の香りに包まれながら歩を進めた。


 螺旋階段を登り切った扉の向こうに、ルネがいた。
 彼はアリセルの姿を見とめると、顔をぱっと明るくし、子どものように駆け寄ってきた。

「アリセル! 本当に来てくれたんだね!」
 弾む声と輝く瞳は、閉ざされた塔の冷えをたちまち和らげるようだった。
 アリセルは荷を抱えたまま立ち、にっこりと笑んで応えた。
「はい。今日から、お願いします」
「君と一緒にいられるなんて夢みたいだよ」
 ルネの顔に溢れる笑みは、彼の孤独を物語っているようで、胸が小さく傷んだ。
 もし一緒にいることで、ルネが寂しくならないのならば、それは良い事なのかもしれないと、そんな事を漠然と考えながら、アリセルは足を踏み入れた。

 持ってきた荷をほどき、ユーグが作った棚に道具を一つずつ並べていく。
 暮らしに欠かせないものを置くたびに、冷えた石の部屋に少しずつ温もりが加わっていくように思われた。
 その様子をルネはじっと見つめていた。瞳を丸くし、布に包まれた丸い小物を指さした。
「それは何?」
「針山です。服を繕うときに針を刺しておくの」
「じゃあ、こっちは?」
「灯りを点すための蝋燭の芯。油に浸して火をつけるんです
 問いかけのたびに、青い瞳が輝きを増していく様子に、アリセルの表情も柔らかくなっていく。
 棚に道具を並べ終えてから、ふとルネに視線を向けた。
「ねえ、ルネ様。今晩は一緒にお料理してみませんか? 
 ルネはぱちりと瞬き、思わずといった風に聞き返した。
「……料理? 僕が?」
 驚きの色がにじんだが、すぐさま顔がぱっと明るくなった。
「うん! やってみたい。うまくできるか分からないけど、でも、やってみたい!
 その笑顔は隠しようもなく嬉しさに満ちていて、アリセルもつられて笑う。

 塔の冷たい石の空気の中に、確かな温もりが広がった気がした。
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