看守の娘

山田わと

文字の大きさ
67 / 92

Echo61:ふたりの夜

しおりを挟む
 食卓を片づけ終え、木の器や匙を棚に戻すと、塔の中は再び静けさを取り戻した。
 寝支度をしようと衣を取り出したとき、アリセルはふと動きを止めた。
 この部屋には、仕切りも屏風もなく、わずかな私的な空間すらないのだと、改めて気づかされたのだ。
 ロウソクの明かりの中にルネの姿がある。
 椅子に腰かけて、図鑑に目を落としているだけなのに、その存在を意識すればするほど、どうやって着替えればよいのか戸惑いが募った。

 一緒に暮らすということは、こういう事なのだろう。

 分かっていたつもりでも、いざ目の前に迫ると落ち着かない。
 背を向ければいいのか、布で隠せばよいのか、それとも彼が眠るまで待つべきなのか。
 思案しながら固まっていると、ルネが不思議そうに視線をよこした。
「どうしたの?」
 問われて、手にしていた衣を胸もとで握りしめる。
「その……。着替えたくて……」
 言い終えた後で、さらに言葉を足すべきか迷う。
 きょとんとするルネだが、すぐさま気づいたように目を瞬いた。
「あ、そうか。僕、向こうを向いているよ」
 慌てたように椅子を引き、背を向ける。
 その仕草はぎこちなく、それでいて真面目さがにじんでいた。
 淡いミント色のリネンの寝間着に袖を通し、胸元を整える。
 アリセルは身支度を終えると、ほっと小さな息をついた。
「もう大丈夫です」
 その声にルネはゆっくりと振り返った。
 ロウソクの炎に照らされた横顔が一瞬おずおずと揺れ、やがて眩しそうに目を細める。
「アリセル、とっても可愛いよ。よく似合ってる」
「ルネ様、そういう事は気軽に言ったらダメです」
 臆面もなく告げられた言葉に、どうやらルネには、天然の女泣かせの気があるのではないかと疑ってしまう。アリセルは軽く叱るように眉をひそめた。
「どうして?」
「誰にでも言ったら誤解されてしまいます」
「でも、僕はアリセルにしか言わないよ」
 ルネの眼差しは真っ直ぐで、冗談を言っている訳ではないのだと物語っていた。
 どうしたものかと頬に軽く手をあてがってから、アリセルはふっと微笑を浮かべた。 
「そう仰るルネ様の方が、よほど可愛らしいです」
「……あんまり嬉しくない」
 その言葉にルネは少しむくれたように唇を尖らせた。
 そんな表情をする彼を見るのは初めてで、アリセルは思わず笑ってしまう。
 そうしながらも、胸の奥では確かに感じていた。
 自分にとってルネは異性ではなく、年上であるにもかかわらず、どこか弟や子どものように見えてしまう存在なのだと。
 婚約を結ばされたとはいえ、そこに夫婦となるという実感はなく、むしろ庇護すべき相手としてしか心に映らない。
 ふと視線を寝台に移すと、それが一つきりの寝床であることに気づき、結論はすぐに出た。

「ルネ様、私は床に寝ますね」

 そう言って壁際に敷物を取り出し、石の床に広げ始める。
「えっ、アリセルが床に?」
「はい。寝台はルネ様がお使いください」
 ルネは目を丸くし、戸惑いを隠せない様子で彼女を見つめた。
「一緒に寝ないの? 婚約すれば同じ寝台で休むものだって……。デイジーさんにもそう言われたし、君のご両親からも聞いたんだよ」
 無垢な声音には、不満よりも純粋な驚きがこもっていて、彼にとってそれが当然のことなのだと示していた。
 何と答えようかと、アリセルは言葉を探す。
 デイジーも両親も間違ってはいない。
 夫婦になると決めた以上、同じ寝台に入るのは自然なことだと理解していた。
 けれど胸の内との隔たりは大きく、素直に受け入れることはできなかった。
 だからこそ、アリセルは微笑みながら冗談めかして交わすしかなかった。
「私、寝相が悪くて……。きっとルネ様のこと、蹴っ飛ばしてしまいます」
「……そんなの、全然気にしないのに」
 ルネはアリセルを見つめ、それから小さく首を傾げた。
「アリセルは、僕がうまくできないって思っている?」
 不意の言葉に、一瞬、返答を失った。

 うまくできる、できない。

 彼が指しているのは、体を重ねることだとすぐに分かった。
 けれども、それはルネにとっても自分にとっても経験のないことだった。
 彼はデイジーに教育として導かれ、自分は知識を与えられただけ。
 そう思えば、なおさら言葉を選ばざるを得なかった。
「いいえ、そんなことは思っていません。ただ……まだ慣れないことばかりで、少し戸惑っているだけです」
 努めて穏やかに告げると、ルネはしばらくじっと彼女を見つめ、やがて頷いた。
「うん、分かった」
 短くそう言ってから、何か思い直したように顔を上げる。
「でも、僕が床に寝るよ」
「えっ、どうしてですか?」
「だって、女の子を床に寝かせるなんてできないよ」
 当たり前のように答えるルネに、胸の強張りがほどけるのを感じ、アリセルの唇には思わず笑みがこぼれおちる。
「でもルネ様は、尊いご身分の方なんですから」
「そんなこと関係ないよ。女の子を石の床に寝かせて、自分だけ寝台に上がるなんて……絶対に嫌だ」
 ルネはきっぱりと言い切った。無邪気さの裏にのぞく、意外な強情さを見た気がして、アリセルは小さく目を見張る。
「私、本当に気にしませんのに」
「僕が気にするんだよ」
「では、当てっこで決めましょう」
 アリセルは炉のそばに落ちていた薪の小さな破片を拾い、片手に握り込んだ。
「当てっこ?」
 ルネが不思議そうに首を傾げる。
「はい。どちらの手にあるかを当てる遊びです。外した方が床ですよ」
「なるほど……。やってみる」
 アリセルは両手を背に回して何度か入れ替えると、正面に差し出した。
「さあ、どちらでしょう?」
 ルネは真剣に見比べ、迷った末に指を伸ばす。
「……こっち、かな?」
 アリセルが開いた手のひらには、確かに木片が収まっていた。
「当たり! ルネ様は寝台です」
 にこやかに告げると、ルネはためらうように目を伏せたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、僕が寝台にするよ」
 不服さを滲ませながらも従う姿に、アリセルは微笑を洩らした。

 炉の薪をかき寄せると、炎はぱちりと音を立てて小さくなっていく。
 床に敷いた布に身を横たえながら、寝台に目をやった。暗がりの中でも、ルネがこちらを向いている気配が伝わってくる。

「……おやすみなさい、ルネ様」

 小さな声で告げると、短い間を置いて、寝台の方から穏やかな返事が返ってきた。
「おやすみ、アリセル」
 その声を最後に、塔の一室は深い静寂に包まれ、夜がゆっくりと覆っていった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

処理中です...