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Echo61:ふたりの夜
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食卓を片づけ終え、木の器や匙を棚に戻すと、塔の中は再び静けさを取り戻した。
寝支度をしようと衣を取り出したとき、アリセルはふと動きを止めた。
この部屋には、仕切りも屏風もなく、わずかな私的な空間すらないのだと、改めて気づかされたのだ。
ロウソクの明かりの中にルネの姿がある。
椅子に腰かけて、図鑑に目を落としているだけなのに、その存在を意識すればするほど、どうやって着替えればよいのか戸惑いが募った。
一緒に暮らすということは、こういう事なのだろう。
分かっていたつもりでも、いざ目の前に迫ると落ち着かない。
背を向ければいいのか、布で隠せばよいのか、それとも彼が眠るまで待つべきなのか。
思案しながら固まっていると、ルネが不思議そうに視線をよこした。
「どうしたの?」
問われて、手にしていた衣を胸もとで握りしめる。
「その……。着替えたくて……」
言い終えた後で、さらに言葉を足すべきか迷う。
きょとんとするルネだが、すぐさま気づいたように目を瞬いた。
「あ、そうか。僕、向こうを向いているよ」
慌てたように椅子を引き、背を向ける。
その仕草はぎこちなく、それでいて真面目さがにじんでいた。
淡いミント色のリネンの寝間着に袖を通し、胸元を整える。
アリセルは身支度を終えると、ほっと小さな息をついた。
「もう大丈夫です」
その声にルネはゆっくりと振り返った。
ロウソクの炎に照らされた横顔が一瞬おずおずと揺れ、やがて眩しそうに目を細める。
「アリセル、とっても可愛いよ。よく似合ってる」
「ルネ様、そういう事は気軽に言ったらダメです」
臆面もなく告げられた言葉に、どうやらルネには、天然の女泣かせの気があるのではないかと疑ってしまう。アリセルは軽く叱るように眉をひそめた。
「どうして?」
「誰にでも言ったら誤解されてしまいます」
「でも、僕はアリセルにしか言わないよ」
ルネの眼差しは真っ直ぐで、冗談を言っている訳ではないのだと物語っていた。
どうしたものかと頬に軽く手をあてがってから、アリセルはふっと微笑を浮かべた。
「そう仰るルネ様の方が、よほど可愛らしいです」
「……あんまり嬉しくない」
その言葉にルネは少しむくれたように唇を尖らせた。
そんな表情をする彼を見るのは初めてで、アリセルは思わず笑ってしまう。
そうしながらも、胸の奥では確かに感じていた。
自分にとってルネは異性ではなく、年上であるにもかかわらず、どこか弟や子どものように見えてしまう存在なのだと。
婚約を結ばされたとはいえ、そこに夫婦となるという実感はなく、むしろ庇護すべき相手としてしか心に映らない。
ふと視線を寝台に移すと、それが一つきりの寝床であることに気づき、結論はすぐに出た。
「ルネ様、私は床に寝ますね」
そう言って壁際に敷物を取り出し、石の床に広げ始める。
「えっ、アリセルが床に?」
「はい。寝台はルネ様がお使いください」
ルネは目を丸くし、戸惑いを隠せない様子で彼女を見つめた。
「一緒に寝ないの? 婚約すれば同じ寝台で休むものだって……。デイジーさんにもそう言われたし、君のご両親からも聞いたんだよ」
無垢な声音には、不満よりも純粋な驚きがこもっていて、彼にとってそれが当然のことなのだと示していた。
何と答えようかと、アリセルは言葉を探す。
デイジーも両親も間違ってはいない。
夫婦になると決めた以上、同じ寝台に入るのは自然なことだと理解していた。
けれど胸の内との隔たりは大きく、素直に受け入れることはできなかった。
だからこそ、アリセルは微笑みながら冗談めかして交わすしかなかった。
「私、寝相が悪くて……。きっとルネ様のこと、蹴っ飛ばしてしまいます」
「……そんなの、全然気にしないのに」
ルネはアリセルを見つめ、それから小さく首を傾げた。
「アリセルは、僕がうまくできないって思っている?」
不意の言葉に、一瞬、返答を失った。
うまくできる、できない。
彼が指しているのは、体を重ねることだとすぐに分かった。
けれども、それはルネにとっても自分にとっても経験のないことだった。
彼はデイジーに教育として導かれ、自分は知識を与えられただけ。
そう思えば、なおさら言葉を選ばざるを得なかった。
「いいえ、そんなことは思っていません。ただ……まだ慣れないことばかりで、少し戸惑っているだけです」
努めて穏やかに告げると、ルネはしばらくじっと彼女を見つめ、やがて頷いた。
「うん、分かった」
短くそう言ってから、何か思い直したように顔を上げる。
「でも、僕が床に寝るよ」
「えっ、どうしてですか?」
「だって、女の子を床に寝かせるなんてできないよ」
当たり前のように答えるルネに、胸の強張りがほどけるのを感じ、アリセルの唇には思わず笑みがこぼれおちる。
「でもルネ様は、尊いご身分の方なんですから」
「そんなこと関係ないよ。女の子を石の床に寝かせて、自分だけ寝台に上がるなんて……絶対に嫌だ」
ルネはきっぱりと言い切った。無邪気さの裏にのぞく、意外な強情さを見た気がして、アリセルは小さく目を見張る。
「私、本当に気にしませんのに」
「僕が気にするんだよ」
「では、当てっこで決めましょう」
アリセルは炉のそばに落ちていた薪の小さな破片を拾い、片手に握り込んだ。
「当てっこ?」
ルネが不思議そうに首を傾げる。
「はい。どちらの手にあるかを当てる遊びです。外した方が床ですよ」
「なるほど……。やってみる」
アリセルは両手を背に回して何度か入れ替えると、正面に差し出した。
「さあ、どちらでしょう?」
ルネは真剣に見比べ、迷った末に指を伸ばす。
「……こっち、かな?」
アリセルが開いた手のひらには、確かに木片が収まっていた。
「当たり! ルネ様は寝台です」
にこやかに告げると、ルネはためらうように目を伏せたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、僕が寝台にするよ」
不服さを滲ませながらも従う姿に、アリセルは微笑を洩らした。
炉の薪をかき寄せると、炎はぱちりと音を立てて小さくなっていく。
床に敷いた布に身を横たえながら、寝台に目をやった。暗がりの中でも、ルネがこちらを向いている気配が伝わってくる。
「……おやすみなさい、ルネ様」
小さな声で告げると、短い間を置いて、寝台の方から穏やかな返事が返ってきた。
「おやすみ、アリセル」
その声を最後に、塔の一室は深い静寂に包まれ、夜がゆっくりと覆っていった。
寝支度をしようと衣を取り出したとき、アリセルはふと動きを止めた。
この部屋には、仕切りも屏風もなく、わずかな私的な空間すらないのだと、改めて気づかされたのだ。
ロウソクの明かりの中にルネの姿がある。
椅子に腰かけて、図鑑に目を落としているだけなのに、その存在を意識すればするほど、どうやって着替えればよいのか戸惑いが募った。
一緒に暮らすということは、こういう事なのだろう。
分かっていたつもりでも、いざ目の前に迫ると落ち着かない。
背を向ければいいのか、布で隠せばよいのか、それとも彼が眠るまで待つべきなのか。
思案しながら固まっていると、ルネが不思議そうに視線をよこした。
「どうしたの?」
問われて、手にしていた衣を胸もとで握りしめる。
「その……。着替えたくて……」
言い終えた後で、さらに言葉を足すべきか迷う。
きょとんとするルネだが、すぐさま気づいたように目を瞬いた。
「あ、そうか。僕、向こうを向いているよ」
慌てたように椅子を引き、背を向ける。
その仕草はぎこちなく、それでいて真面目さがにじんでいた。
淡いミント色のリネンの寝間着に袖を通し、胸元を整える。
アリセルは身支度を終えると、ほっと小さな息をついた。
「もう大丈夫です」
その声にルネはゆっくりと振り返った。
ロウソクの炎に照らされた横顔が一瞬おずおずと揺れ、やがて眩しそうに目を細める。
「アリセル、とっても可愛いよ。よく似合ってる」
「ルネ様、そういう事は気軽に言ったらダメです」
臆面もなく告げられた言葉に、どうやらルネには、天然の女泣かせの気があるのではないかと疑ってしまう。アリセルは軽く叱るように眉をひそめた。
「どうして?」
「誰にでも言ったら誤解されてしまいます」
「でも、僕はアリセルにしか言わないよ」
ルネの眼差しは真っ直ぐで、冗談を言っている訳ではないのだと物語っていた。
どうしたものかと頬に軽く手をあてがってから、アリセルはふっと微笑を浮かべた。
「そう仰るルネ様の方が、よほど可愛らしいです」
「……あんまり嬉しくない」
その言葉にルネは少しむくれたように唇を尖らせた。
そんな表情をする彼を見るのは初めてで、アリセルは思わず笑ってしまう。
そうしながらも、胸の奥では確かに感じていた。
自分にとってルネは異性ではなく、年上であるにもかかわらず、どこか弟や子どものように見えてしまう存在なのだと。
婚約を結ばされたとはいえ、そこに夫婦となるという実感はなく、むしろ庇護すべき相手としてしか心に映らない。
ふと視線を寝台に移すと、それが一つきりの寝床であることに気づき、結論はすぐに出た。
「ルネ様、私は床に寝ますね」
そう言って壁際に敷物を取り出し、石の床に広げ始める。
「えっ、アリセルが床に?」
「はい。寝台はルネ様がお使いください」
ルネは目を丸くし、戸惑いを隠せない様子で彼女を見つめた。
「一緒に寝ないの? 婚約すれば同じ寝台で休むものだって……。デイジーさんにもそう言われたし、君のご両親からも聞いたんだよ」
無垢な声音には、不満よりも純粋な驚きがこもっていて、彼にとってそれが当然のことなのだと示していた。
何と答えようかと、アリセルは言葉を探す。
デイジーも両親も間違ってはいない。
夫婦になると決めた以上、同じ寝台に入るのは自然なことだと理解していた。
けれど胸の内との隔たりは大きく、素直に受け入れることはできなかった。
だからこそ、アリセルは微笑みながら冗談めかして交わすしかなかった。
「私、寝相が悪くて……。きっとルネ様のこと、蹴っ飛ばしてしまいます」
「……そんなの、全然気にしないのに」
ルネはアリセルを見つめ、それから小さく首を傾げた。
「アリセルは、僕がうまくできないって思っている?」
不意の言葉に、一瞬、返答を失った。
うまくできる、できない。
彼が指しているのは、体を重ねることだとすぐに分かった。
けれども、それはルネにとっても自分にとっても経験のないことだった。
彼はデイジーに教育として導かれ、自分は知識を与えられただけ。
そう思えば、なおさら言葉を選ばざるを得なかった。
「いいえ、そんなことは思っていません。ただ……まだ慣れないことばかりで、少し戸惑っているだけです」
努めて穏やかに告げると、ルネはしばらくじっと彼女を見つめ、やがて頷いた。
「うん、分かった」
短くそう言ってから、何か思い直したように顔を上げる。
「でも、僕が床に寝るよ」
「えっ、どうしてですか?」
「だって、女の子を床に寝かせるなんてできないよ」
当たり前のように答えるルネに、胸の強張りがほどけるのを感じ、アリセルの唇には思わず笑みがこぼれおちる。
「でもルネ様は、尊いご身分の方なんですから」
「そんなこと関係ないよ。女の子を石の床に寝かせて、自分だけ寝台に上がるなんて……絶対に嫌だ」
ルネはきっぱりと言い切った。無邪気さの裏にのぞく、意外な強情さを見た気がして、アリセルは小さく目を見張る。
「私、本当に気にしませんのに」
「僕が気にするんだよ」
「では、当てっこで決めましょう」
アリセルは炉のそばに落ちていた薪の小さな破片を拾い、片手に握り込んだ。
「当てっこ?」
ルネが不思議そうに首を傾げる。
「はい。どちらの手にあるかを当てる遊びです。外した方が床ですよ」
「なるほど……。やってみる」
アリセルは両手を背に回して何度か入れ替えると、正面に差し出した。
「さあ、どちらでしょう?」
ルネは真剣に見比べ、迷った末に指を伸ばす。
「……こっち、かな?」
アリセルが開いた手のひらには、確かに木片が収まっていた。
「当たり! ルネ様は寝台です」
にこやかに告げると、ルネはためらうように目を伏せたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、僕が寝台にするよ」
不服さを滲ませながらも従う姿に、アリセルは微笑を洩らした。
炉の薪をかき寄せると、炎はぱちりと音を立てて小さくなっていく。
床に敷いた布に身を横たえながら、寝台に目をやった。暗がりの中でも、ルネがこちらを向いている気配が伝わってくる。
「……おやすみなさい、ルネ様」
小さな声で告げると、短い間を置いて、寝台の方から穏やかな返事が返ってきた。
「おやすみ、アリセル」
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