看守の娘

山田わと

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Echo62:紫の蝶

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 昨夜はほとんど眠れなかった。
 ユーグがいなくなってからというものの、眠りは浅く途切れがちだったが、それ以上にルネがしきりに、うなされるのに気づいたのだ。
 夢の中で何かに怯えるように声をあげ、身体を強ばらせるたび、アリセルは身を起こしてルネの傍に座った。額にかかった髪を払うように指先をそっと滑らせ、静かに撫でると、やがて呼吸は整い、顔から緊張がほどけていった。
 そのたびに、アリセルは胸の奥に安堵と切なさを抱き、再び横になった。

 朝の光が石窓から差し込む頃、小さな食卓に、二人は並んだ。

 朝食は質素だが温かい。

 持ち込んだ黒パンを軽く炙り、干し果実を散らしたポタージュを木椀に分ける。陶器の杯には、香ばしく煮出した麦湯が注がれていた。
 ルネは匙を口に運ぶごとに、目を細める。
 終始嬉しそうで、湯気の向こうから笑みがこぼれていた。
「一緒に食べるのって……いいね」
 その一言に、アリセルは微笑み返して、パンを割った。口に運んでから、昨晩の事を思い出して、そっと眉をひそめる。
「ルネ様。夜、うなされていましたよ」
 抑えめの言葉に、ルネはわずかに肩を揺らし、動きを止める。
 照れたように視線を落とし、しばらくパンを指先で弄んでいた。やがて、ためらうように口を開く。
「悪い夢ばかり見るんだ。……でも、昨日はアリセルがそばにいてくれたから、あまり怖くなかった」
 言葉を終えると同時に、彼は小さく息を吐き、苦笑を浮かべる。
「こんなふうに怯えてばかりで……情けないね」
 自分を軽くあざけるような調子だった。
 思えば、ルネが怯えるのは当然のことだった。
 長い間塔に閉じ込められ、前任の看守に虐げられてきたのだ。今はすっかり人間らしさを取り戻したとはいえ、身体に残る痛みと、心に刻まれる恐怖は簡単に消えはしないのだろう。
 むしろ今、こうして正直に弱さを口にできること自体が、どれほどの強さなのか。アリセルにはそれが痛いほど伝わっていた。
「情けないなんて、そんなことはありません」
「……アリセルも、怖い夢を見ることがある?」
 不安と好奇心の入り混じったような眼差しに、アリセルは視線を落とした。

 以前は、夢など気にも留めなかった。

 だが、ユーグがいなくなってからは、眠るたびにあの場面がよみがえる。
 刃が閃き、血に濡れ、倒れる彼の姿が、何度も、何度も。
 夜ごとにその夢に捕らわれ、目を覚ましては心臓の鼓動が痛いほど耳に響く。しかしルネに対して、それを語ることは、どうしてもためらわれた。
 代わりに、少し間をおいて落ち着いた声で答える。
「……たまに、あります」
 ルネは深くは問わなかった。
 瞳の奥に、どこか察したような光がかすかに揺れたが、再び視線を落とし、黙ってパンを口に運んだ。
 静かな沈黙が落ち、石の壁に麦湯の香ばしい匂いだけが漂う。

 やがて、空気を変えるようにアリセルは口を開いた。
「今日のうちに、一度家に戻ろうと思います。足りないものが色々とあって。ルネ様も、何か必要なものがあれば教えてください。持ってきますから」
 問いかけに、ルネはしばらく手を止め、ためらいがちに顔を上げる。
「……無理でなければ、昆虫の図鑑が欲しいんだ」
「昆虫……ですか?」
 ルネは頷き、少しだけ声を弾ませる。
「昨日、アリセルが話してくれただろ。夜に鳴く虫……ええと、コオロギって言ったかな。どんな姿なのか知りたいんだ」
「そういう事なら、お安い御用です。私の持っている虫の図鑑には、コオロギもちゃんと描かれているんですよ。姿も鳴き方も分かりやすく書いてあります」
 そう言ってから、アリセルは少し得意そうに笑みを浮かべた。
「それに、私の好きな昆虫も載っているんです。パープル・エンペラーっていう蝶なんだけど、大きな羽を広げると、光の加減で紫にきらめいて……まるで宝石みたいに、本当に綺麗なんです。角度によって青にも銀にも見えて、羽ばたくたびに違う光を見せてくれるの。ルネ様にもぜひ見てほしいな。図鑑の絵でも、その美しさはきっと伝わると思います」
 語りながら、幼い頃の光景がよみがえった。
 森の小径を歩いていた時、不意に高い梢から一匹の蝶が舞い降りてきたのだ。
 光を浴びて羽がきらめき、色が一瞬ごとに変わってゆく。その美しさに息を呑み、夢を見ているのかと錯覚したものだった。
 ほんのわずかな時間だったのに、瞬きは心に深く刻まれている。
 図鑑を開くたび、胸の高鳴りが甦り、思い出すだけで頬が緩んでしまう。
 それはひそかな宝物のような記憶だった。
「うんっ、見てみたい」
 弾むような声が返ってきた。
 アリセルはその響きに顔を上げ、ルネの表情を見つめた。
 彼はいつもより頬を緩め、子どものように目を輝かせている。
 自分の言葉が相手の中にも届いたのだと思うと、アリセルの頬は自然とほころんだ。

 やがて食事を終えると、木椀や杯を洗い、残ったパン屑を布でぬぐった。
 静かな石の空間に、器のかすかな触れ合う音が響く。
 すべてを片づけ終えると、立ち上がり、腰紐を締め直して外套を肩に掛けた。
「では、行ってきますね」
「いってらっしゃい」
 どこか愛しそうな眼差しで応えるルネに、アリセルは微笑み、扉へと歩を進めた。
 石段を下りていく彼女の背を、塔の奥から朝の光がやさしく照らしていた。

 扉を押し開けると、ひやりと澄んだ朝の空気が流れ込んできた。
 塔の中の静けさとは違い、外には草原を渡る風の音と小鳥のさえずりが広がっている。
 いつもの道へと足を向けた。
 けれど歩き出してすぐ、胸の内に小さな違和感が芽生える。

 普段は家を出て、草原を抜け、塔へと向かう順序だった。

 だが今はその道を逆に辿っている。塔を後にし、家へ帰る。
 たったそれだけの事なのに、見慣れた景色がどこかよそよそしく感じられるのだった。

 やがて、この違和感も消えていくのだろうか、とそんな事をぼんやりと考える。

 塔と家を行き来することが日常になり、逆を行く景色が当然になる日が来るのだろうか。
 胸の奥に生まれたその予感を確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。
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