看守の娘

山田わと

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Echo63:朽ち逝く日々

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 家の玄関先には、両親が揃って姿を見せていた。
 父ジョゼフは静かに微笑み、母ミーシャは温かい声で「お帰りなさい」と迎える。アリセルは微笑みながら応じると、まっすぐに自室へと向かった。

 部屋に入ると、窓から差し込む光が棚を照らし、本の列が淡い影となって広がっていた。
 籠を取り出し、衣服や小物など必要なものを一つずつ確かめながら収めていく。
 最後にルネに頼まれていた昆虫の図鑑を加えた。

「アリセル、お茶にしましょう」

 荷をまとめ終えると、母の声が届いた。
 階段を下りて扉を開けると、卓上には茶器がすでに並べられていた。
 蒸気を立てる香ばしい匂いが漂い、木椅子に腰を下ろしたアリセルは、一息ついた。
「ご苦労だったな、アリセル。ルネ様のご様子はどうだった?」
「変わりはないわ。昨日の晩は一緒に食事の支度をしてくれて、野菜も切ってくださったの」
「あの方がか?」
 ルネが料理という図が想像できなかったのか、ジョゼフは意外そうな顔をした。
「まぁ、それは良かったわ。共に食事を整えるひとときほど、心を近づけるものはないのだから」
「うん」
 母の言葉に頷きながら、手にしたカップを顔に近づける。
 立ちのぼる香気を吸い込んでから、口をつけた。
 澄みわたるようなミントの清涼が、喉をすっと通り抜けた。
 皿の上のクッキーを一つ取り齧ると、口の中でほろりと崩れ、蜂蜜の淡い甘さが広がる。
 先ほどのミントの清涼が残る喉をやわらかく包み、ほっとした気持ちになる。向かいに腰かけたミーシャも同じようにクッキーを一つを手に取り、噛みしめてから視線を娘に移した。

「ところで、アリセル」

 声は穏やかで、あたかも他愛のない話の続きのように響く。
「昨晩、ルネ様とは、どんなふうに過ごしたの?」
 唐突な問いに、アリセルは指先を止めた。
 クッキーの欠片を持ったまま視線を落とし、ためらいながら口を開く。
「……ふつうに過ごしたわ。食事をして、それから眠ったの」
「ルネ様は、お前と結ばれることを望んでいなかったのか?」
 あまりに率直な父の問いかけに、思わず視線を落とした。
「初めてだものね。戸惑う気持ちはよく分かるわ。でもあなた、月のものが終わってから、しばらく経ったでしょう? 今は丁度、授かりやすい頃なのよ。幸せを掴んでから欲しいから、この時を大切にしてね」
 すぐさまミーシャが、にっこりと微笑んだ。
 親に愛されているという実感と、娘として望まれる役割を背負わされている感覚とが、ひとつに絡まり合い、喉の奥にせり上がってきた。カップを取り上げ、残っていたミントの茶を口に含む。
 胸のつかえは消えてはくれないが、清涼を流し込むことで、その重さを無理やり押し沈めるしかなかった。
「それとも、もしあなたの心にまだユーグ君がいるのなら……。その気持ちを抱えたまま生きていくしかないのよ」
 深い哀しみと慈しみを滲ませて、ミーシャは言葉を続けた。
 突然、思ってもいなかった名前を出されて、アリセルの身体は条件反射のように強張った。
「どういう意味……?」
「彼はもう、帰っては来ない。だから、どんなに想っていても、縋ることは叶わないのだ」
 ジョゼフが言葉を継いだ。
「お父様……」
「彼は亡くなったのだよ」
 ジョゼフの眼差しは、胸の奥底から絞り出された哀惜に満ちていた。
「報せをくれたのは村の者だった。私も確かめに行ったが、彼はすでに事切れていた。遺体は葬られたが、場所の痕跡はそのままにしてある」
 その言葉が落ちた瞬間、アリセルの胸の奥で張りつめていたものが、音もなく断ち切られた。

 ここしばらく、ユーグはもうこの世にはいないかもしれないと、かすかに思い描いたことはあった。

 けれど、それは思考の片隅に追いやり、敢えて形にせずにいたのだ。
 現実の言葉として突きつけられた今、心は叫ぶことすらできなかった。
 驚きも悲嘆もすべてが遠のき、頭の中が白く塗り潰されていく。

 目の前に父の姿はあるのに、声も、表情も、届いてこない。

 ただ「事切れていた」という響きだけが何度も胸の奥で反響し、ほかの思考を押し流していった。
 座っているはずの身体が、どこか宙に浮いたように頼りなく感じられる。
 指先に力が入らず、目を瞬かせることすら遅れてしまう。

 ミーシャは立ち上がり、座ったままのアリセルを背後から優しく抱きしめる。
「アリセル……。あなたの気持ちを思うと、私たちまで息が詰まりそうなの。愛した人を失う痛みを、どうして娘に背負わせねばならないの……。こんなことになるなんて……あまりに酷くて、悲しくて、胸が裂けそうだわ」
「もしお前さえ良ければ、残された痕跡を一緒に見にいくか?」
 父の言葉に返事をする気力も沸かない。
 背を包む母の温もりが、唯一の現実の証だった。そのぬくもりに寄りかかるように、アリセルは小さく首を縦に動かした。
 けれどそれは意志のある応えではなく、力の抜けた頭がただ傾いたにすぎなかった。



 母の腕に支えられるようにして道を歩いていく。
 足元は覚束ず、自らの意志で歩いているのか、それともただ導かれるままに動いているのかすら分からない。

 ジョゼフが前に立ち、無言のまま歩を進める。

 アリセルはその背をぼんやりと見つめ、ただ従った。
 道は見慣れたはずの村外れへと続いていたが、景色はどこか色を失い、輪郭さえも揺らいで見えた。
 やがて辿り着いたのは、人の足が遠ざかった荒れ地だった。

 風に揺れる草の波の中に、不自然にぽっかりと円を描くような裸地が広がっていた。

 丈の伸びた草がその一帯だけ根を張らず、地面は乾いて黒ずみ、周囲より固く踏みしめられている。
「ここだ」
 ジョゼフが振り返った。
 近づけば、土の上にまだらな影のような跡があった。
 雨に洗われ、陽に焼かれて色褪せてはいるものの、そこだけ暗く沈み、石と土の粒がざらつきを帯びている。
 まるで何かを吸い込んだ地面が、いまもなお痕跡を手放せずにいるかのようだった。
 更に、あたりの草には不規則な枯れの斑が残っていた。黄ばんで崩れた茎が風に揺れ、そこだけ生気が絶たれたように見える。

 ふと鼻先をかすめるのは、土の湿りと入り交じった鉄のにおいだ。
 現実に匂い立っているのか、それとも父の言葉に引きずられた幻なのか、アリセルには判別できなかった。

 しばらく言葉を失い、ただ眼前の跡を凝視していた。
 沈黙が重く降り積もる中、ジョゼフは心配げに娘の肩へと手を置いた。

「もし辛かったら泣いてもいいんだぞ」

 父の声は柔らかく、気遣いを込めて告げられたものだった。
 だがその響きは、もう胸の奥には届かない。
 悲しみを押し殺しているのではなく、泣くという行為そのものをどこかに置き忘れてしまったようで、どうすれば涙がこぼれるのかさえ思い出せなかった。
 胸に広がる空洞を感じながら、アリセルはぽつりと言う。

「ユーグは、あの時なぜ刺されたの?」

 返答を待つ間、風に揺れる草のざわめきがやけに大きく耳に響く。
 ジョゼフは視線を伏せ、それから低く答えた。
「どうして、あんな事になったのか理由なんて、誰にも分からない。知ろうとしても、きっと答えは出ない……」
「ユーグは分かっていた」
 その言葉を遮るように、きっぱりとした口調で言って、アリセルは顔を上げた。
 あの日のことが脳裏によみがえる。彼は確かに襲い掛かる相手に告げたのだ。

 『待っていた』と。この結末をあらかじめ悟っていたかのように。

 ジョゼフはただ静かに眼を閉じ、ミーシャは唇を震わせながら娘を抱き寄せる。
「……そうかもしれんな。だが、その意味は誰にも測ることはできない」
「私のせいなの?」
「アリセル……」
「なぜか分からないけど、みんな……私とルネ様の婚約に固執していた。お父様も、お母様も、デイジーも、ここに来るお客様たちも……。みんな、みんな同じだった。だから秋祭りの時、ユーグが私と誓いを結んだから。そのせいで彼は刺されたのではないの?」

 その声は、自分でも気づかぬうちに口をついて出ていた。
 長く胸の奥底で渦巻き、夜ごと反芻しては押し殺してきた思いが、とうとう言葉の形を取って溢れ落ちたのだ。
 口にした途端、喉の奥に残っていた苦い塊がほどけ、代わりに全身が空っぽになる。

 ジョゼフとミーシャは、わずかに目を見張った。

 呼吸が止まったような沈黙が流れる。
「それは違う。アリセル、お前のせいなどではない。皆がお前の婚約を望んだのは、ルネ様が前王の御子だからだ。たとえ閉ざされた塔にあろうとも、その血筋が絶えてはならぬと、誰もが思っている。お前と結びつけようとしたのは、ただその想いゆえだ」
 ミーシャはアリセルの肩を抱いた腕に力をこめる。
「だからこそ、みんなが願ったのよ。あなたが彼のそばにいて、これからの人生を支えてくれることを……」
「みんながそう願ったから……。それで、ユーグは狙われたの?」
 問いかけは掠れた声で、幼子のように素直に響いた。
 だがその一言に、ジョゼフは強く首を振った。
「違う!」
 声は厳しく響いたが、すぐに抑え込むように続けた。
「それとこれとは別の話だ。お前とルネ様のことを望む人々の気持ちと、ユーグ君が命を落としたことに繋がりはない。彼が狙われた理由をお前に背負わせるつもりもない」
 言葉の端々に滲むのは、娘を守ろうとするかのような必死さだった。

 アリセルはそれ以上何も言わず、地を見つめる。

 そこに刻まれた跡を目にしても、悲嘆の声は上がらなかった。
 胸の奥で渦巻いていた問いも、次第に形を失っていく。

 やがて思考そのものが色を失い、静かな空洞の中へ溶けていった。
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