69 / 92
Echo63:朽ち逝く日々
しおりを挟む
家の玄関先には、両親が揃って姿を見せていた。
父ジョゼフは静かに微笑み、母ミーシャは温かい声で「お帰りなさい」と迎える。アリセルは微笑みながら応じると、まっすぐに自室へと向かった。
部屋に入ると、窓から差し込む光が棚を照らし、本の列が淡い影となって広がっていた。
籠を取り出し、衣服や小物など必要なものを一つずつ確かめながら収めていく。
最後にルネに頼まれていた昆虫の図鑑を加えた。
「アリセル、お茶にしましょう」
荷をまとめ終えると、母の声が届いた。
階段を下りて扉を開けると、卓上には茶器がすでに並べられていた。
蒸気を立てる香ばしい匂いが漂い、木椅子に腰を下ろしたアリセルは、一息ついた。
「ご苦労だったな、アリセル。ルネ様のご様子はどうだった?」
「変わりはないわ。昨日の晩は一緒に食事の支度をしてくれて、野菜も切ってくださったの」
「あの方がか?」
ルネが料理という図が想像できなかったのか、ジョゼフは意外そうな顔をした。
「まぁ、それは良かったわ。共に食事を整えるひとときほど、心を近づけるものはないのだから」
「うん」
母の言葉に頷きながら、手にしたカップを顔に近づける。
立ちのぼる香気を吸い込んでから、口をつけた。
澄みわたるようなミントの清涼が、喉をすっと通り抜けた。
皿の上のクッキーを一つ取り齧ると、口の中でほろりと崩れ、蜂蜜の淡い甘さが広がる。
先ほどのミントの清涼が残る喉をやわらかく包み、ほっとした気持ちになる。向かいに腰かけたミーシャも同じようにクッキーを一つを手に取り、噛みしめてから視線を娘に移した。
「ところで、アリセル」
声は穏やかで、あたかも他愛のない話の続きのように響く。
「昨晩、ルネ様とは、どんなふうに過ごしたの?」
唐突な問いに、アリセルは指先を止めた。
クッキーの欠片を持ったまま視線を落とし、ためらいながら口を開く。
「……ふつうに過ごしたわ。食事をして、それから眠ったの」
「ルネ様は、お前と結ばれることを望んでいなかったのか?」
あまりに率直な父の問いかけに、思わず視線を落とした。
「初めてだものね。戸惑う気持ちはよく分かるわ。でもあなた、月のものが終わってから、しばらく経ったでしょう? 今は丁度、授かりやすい頃なのよ。幸せを掴んでから欲しいから、この時を大切にしてね」
すぐさまミーシャが、にっこりと微笑んだ。
親に愛されているという実感と、娘として望まれる役割を背負わされている感覚とが、ひとつに絡まり合い、喉の奥にせり上がってきた。カップを取り上げ、残っていたミントの茶を口に含む。
胸のつかえは消えてはくれないが、清涼を流し込むことで、その重さを無理やり押し沈めるしかなかった。
「それとも、もしあなたの心にまだユーグ君がいるのなら……。その気持ちを抱えたまま生きていくしかないのよ」
深い哀しみと慈しみを滲ませて、ミーシャは言葉を続けた。
突然、思ってもいなかった名前を出されて、アリセルの身体は条件反射のように強張った。
「どういう意味……?」
「彼はもう、帰っては来ない。だから、どんなに想っていても、縋ることは叶わないのだ」
ジョゼフが言葉を継いだ。
「お父様……」
「彼は亡くなったのだよ」
ジョゼフの眼差しは、胸の奥底から絞り出された哀惜に満ちていた。
「報せをくれたのは村の者だった。私も確かめに行ったが、彼はすでに事切れていた。遺体は葬られたが、場所の痕跡はそのままにしてある」
その言葉が落ちた瞬間、アリセルの胸の奥で張りつめていたものが、音もなく断ち切られた。
ここしばらく、ユーグはもうこの世にはいないかもしれないと、かすかに思い描いたことはあった。
けれど、それは思考の片隅に追いやり、敢えて形にせずにいたのだ。
現実の言葉として突きつけられた今、心は叫ぶことすらできなかった。
驚きも悲嘆もすべてが遠のき、頭の中が白く塗り潰されていく。
目の前に父の姿はあるのに、声も、表情も、届いてこない。
ただ「事切れていた」という響きだけが何度も胸の奥で反響し、ほかの思考を押し流していった。
座っているはずの身体が、どこか宙に浮いたように頼りなく感じられる。
指先に力が入らず、目を瞬かせることすら遅れてしまう。
ミーシャは立ち上がり、座ったままのアリセルを背後から優しく抱きしめる。
「アリセル……。あなたの気持ちを思うと、私たちまで息が詰まりそうなの。愛した人を失う痛みを、どうして娘に背負わせねばならないの……。こんなことになるなんて……あまりに酷くて、悲しくて、胸が裂けそうだわ」
「もしお前さえ良ければ、残された痕跡を一緒に見にいくか?」
父の言葉に返事をする気力も沸かない。
背を包む母の温もりが、唯一の現実の証だった。そのぬくもりに寄りかかるように、アリセルは小さく首を縦に動かした。
けれどそれは意志のある応えではなく、力の抜けた頭がただ傾いたにすぎなかった。
☆
母の腕に支えられるようにして道を歩いていく。
足元は覚束ず、自らの意志で歩いているのか、それともただ導かれるままに動いているのかすら分からない。
ジョゼフが前に立ち、無言のまま歩を進める。
アリセルはその背をぼんやりと見つめ、ただ従った。
道は見慣れたはずの村外れへと続いていたが、景色はどこか色を失い、輪郭さえも揺らいで見えた。
やがて辿り着いたのは、人の足が遠ざかった荒れ地だった。
風に揺れる草の波の中に、不自然にぽっかりと円を描くような裸地が広がっていた。
丈の伸びた草がその一帯だけ根を張らず、地面は乾いて黒ずみ、周囲より固く踏みしめられている。
「ここだ」
ジョゼフが振り返った。
近づけば、土の上にまだらな影のような跡があった。
雨に洗われ、陽に焼かれて色褪せてはいるものの、そこだけ暗く沈み、石と土の粒がざらつきを帯びている。
まるで何かを吸い込んだ地面が、いまもなお痕跡を手放せずにいるかのようだった。
更に、あたりの草には不規則な枯れの斑が残っていた。黄ばんで崩れた茎が風に揺れ、そこだけ生気が絶たれたように見える。
ふと鼻先をかすめるのは、土の湿りと入り交じった鉄のにおいだ。
現実に匂い立っているのか、それとも父の言葉に引きずられた幻なのか、アリセルには判別できなかった。
しばらく言葉を失い、ただ眼前の跡を凝視していた。
沈黙が重く降り積もる中、ジョゼフは心配げに娘の肩へと手を置いた。
「もし辛かったら泣いてもいいんだぞ」
父の声は柔らかく、気遣いを込めて告げられたものだった。
だがその響きは、もう胸の奥には届かない。
悲しみを押し殺しているのではなく、泣くという行為そのものをどこかに置き忘れてしまったようで、どうすれば涙がこぼれるのかさえ思い出せなかった。
胸に広がる空洞を感じながら、アリセルはぽつりと言う。
「ユーグは、あの時なぜ刺されたの?」
返答を待つ間、風に揺れる草のざわめきがやけに大きく耳に響く。
ジョゼフは視線を伏せ、それから低く答えた。
「どうして、あんな事になったのか理由なんて、誰にも分からない。知ろうとしても、きっと答えは出ない……」
「ユーグは分かっていた」
その言葉を遮るように、きっぱりとした口調で言って、アリセルは顔を上げた。
あの日のことが脳裏によみがえる。彼は確かに襲い掛かる相手に告げたのだ。
『待っていた』と。この結末をあらかじめ悟っていたかのように。
ジョゼフはただ静かに眼を閉じ、ミーシャは唇を震わせながら娘を抱き寄せる。
「……そうかもしれんな。だが、その意味は誰にも測ることはできない」
「私のせいなの?」
「アリセル……」
「なぜか分からないけど、みんな……私とルネ様の婚約に固執していた。お父様も、お母様も、デイジーも、ここに来るお客様たちも……。みんな、みんな同じだった。だから秋祭りの時、ユーグが私と誓いを結んだから。そのせいで彼は刺されたのではないの?」
その声は、自分でも気づかぬうちに口をついて出ていた。
長く胸の奥底で渦巻き、夜ごと反芻しては押し殺してきた思いが、とうとう言葉の形を取って溢れ落ちたのだ。
口にした途端、喉の奥に残っていた苦い塊がほどけ、代わりに全身が空っぽになる。
ジョゼフとミーシャは、わずかに目を見張った。
呼吸が止まったような沈黙が流れる。
「それは違う。アリセル、お前のせいなどではない。皆がお前の婚約を望んだのは、ルネ様が前王の御子だからだ。たとえ閉ざされた塔にあろうとも、その血筋が絶えてはならぬと、誰もが思っている。お前と結びつけようとしたのは、ただその想いゆえだ」
ミーシャはアリセルの肩を抱いた腕に力をこめる。
「だからこそ、みんなが願ったのよ。あなたが彼のそばにいて、これからの人生を支えてくれることを……」
「みんながそう願ったから……。それで、ユーグは狙われたの?」
問いかけは掠れた声で、幼子のように素直に響いた。
だがその一言に、ジョゼフは強く首を振った。
「違う!」
声は厳しく響いたが、すぐに抑え込むように続けた。
「それとこれとは別の話だ。お前とルネ様のことを望む人々の気持ちと、ユーグ君が命を落としたことに繋がりはない。彼が狙われた理由をお前に背負わせるつもりもない」
言葉の端々に滲むのは、娘を守ろうとするかのような必死さだった。
アリセルはそれ以上何も言わず、地を見つめる。
そこに刻まれた跡を目にしても、悲嘆の声は上がらなかった。
胸の奥で渦巻いていた問いも、次第に形を失っていく。
やがて思考そのものが色を失い、静かな空洞の中へ溶けていった。
父ジョゼフは静かに微笑み、母ミーシャは温かい声で「お帰りなさい」と迎える。アリセルは微笑みながら応じると、まっすぐに自室へと向かった。
部屋に入ると、窓から差し込む光が棚を照らし、本の列が淡い影となって広がっていた。
籠を取り出し、衣服や小物など必要なものを一つずつ確かめながら収めていく。
最後にルネに頼まれていた昆虫の図鑑を加えた。
「アリセル、お茶にしましょう」
荷をまとめ終えると、母の声が届いた。
階段を下りて扉を開けると、卓上には茶器がすでに並べられていた。
蒸気を立てる香ばしい匂いが漂い、木椅子に腰を下ろしたアリセルは、一息ついた。
「ご苦労だったな、アリセル。ルネ様のご様子はどうだった?」
「変わりはないわ。昨日の晩は一緒に食事の支度をしてくれて、野菜も切ってくださったの」
「あの方がか?」
ルネが料理という図が想像できなかったのか、ジョゼフは意外そうな顔をした。
「まぁ、それは良かったわ。共に食事を整えるひとときほど、心を近づけるものはないのだから」
「うん」
母の言葉に頷きながら、手にしたカップを顔に近づける。
立ちのぼる香気を吸い込んでから、口をつけた。
澄みわたるようなミントの清涼が、喉をすっと通り抜けた。
皿の上のクッキーを一つ取り齧ると、口の中でほろりと崩れ、蜂蜜の淡い甘さが広がる。
先ほどのミントの清涼が残る喉をやわらかく包み、ほっとした気持ちになる。向かいに腰かけたミーシャも同じようにクッキーを一つを手に取り、噛みしめてから視線を娘に移した。
「ところで、アリセル」
声は穏やかで、あたかも他愛のない話の続きのように響く。
「昨晩、ルネ様とは、どんなふうに過ごしたの?」
唐突な問いに、アリセルは指先を止めた。
クッキーの欠片を持ったまま視線を落とし、ためらいながら口を開く。
「……ふつうに過ごしたわ。食事をして、それから眠ったの」
「ルネ様は、お前と結ばれることを望んでいなかったのか?」
あまりに率直な父の問いかけに、思わず視線を落とした。
「初めてだものね。戸惑う気持ちはよく分かるわ。でもあなた、月のものが終わってから、しばらく経ったでしょう? 今は丁度、授かりやすい頃なのよ。幸せを掴んでから欲しいから、この時を大切にしてね」
すぐさまミーシャが、にっこりと微笑んだ。
親に愛されているという実感と、娘として望まれる役割を背負わされている感覚とが、ひとつに絡まり合い、喉の奥にせり上がってきた。カップを取り上げ、残っていたミントの茶を口に含む。
胸のつかえは消えてはくれないが、清涼を流し込むことで、その重さを無理やり押し沈めるしかなかった。
「それとも、もしあなたの心にまだユーグ君がいるのなら……。その気持ちを抱えたまま生きていくしかないのよ」
深い哀しみと慈しみを滲ませて、ミーシャは言葉を続けた。
突然、思ってもいなかった名前を出されて、アリセルの身体は条件反射のように強張った。
「どういう意味……?」
「彼はもう、帰っては来ない。だから、どんなに想っていても、縋ることは叶わないのだ」
ジョゼフが言葉を継いだ。
「お父様……」
「彼は亡くなったのだよ」
ジョゼフの眼差しは、胸の奥底から絞り出された哀惜に満ちていた。
「報せをくれたのは村の者だった。私も確かめに行ったが、彼はすでに事切れていた。遺体は葬られたが、場所の痕跡はそのままにしてある」
その言葉が落ちた瞬間、アリセルの胸の奥で張りつめていたものが、音もなく断ち切られた。
ここしばらく、ユーグはもうこの世にはいないかもしれないと、かすかに思い描いたことはあった。
けれど、それは思考の片隅に追いやり、敢えて形にせずにいたのだ。
現実の言葉として突きつけられた今、心は叫ぶことすらできなかった。
驚きも悲嘆もすべてが遠のき、頭の中が白く塗り潰されていく。
目の前に父の姿はあるのに、声も、表情も、届いてこない。
ただ「事切れていた」という響きだけが何度も胸の奥で反響し、ほかの思考を押し流していった。
座っているはずの身体が、どこか宙に浮いたように頼りなく感じられる。
指先に力が入らず、目を瞬かせることすら遅れてしまう。
ミーシャは立ち上がり、座ったままのアリセルを背後から優しく抱きしめる。
「アリセル……。あなたの気持ちを思うと、私たちまで息が詰まりそうなの。愛した人を失う痛みを、どうして娘に背負わせねばならないの……。こんなことになるなんて……あまりに酷くて、悲しくて、胸が裂けそうだわ」
「もしお前さえ良ければ、残された痕跡を一緒に見にいくか?」
父の言葉に返事をする気力も沸かない。
背を包む母の温もりが、唯一の現実の証だった。そのぬくもりに寄りかかるように、アリセルは小さく首を縦に動かした。
けれどそれは意志のある応えではなく、力の抜けた頭がただ傾いたにすぎなかった。
☆
母の腕に支えられるようにして道を歩いていく。
足元は覚束ず、自らの意志で歩いているのか、それともただ導かれるままに動いているのかすら分からない。
ジョゼフが前に立ち、無言のまま歩を進める。
アリセルはその背をぼんやりと見つめ、ただ従った。
道は見慣れたはずの村外れへと続いていたが、景色はどこか色を失い、輪郭さえも揺らいで見えた。
やがて辿り着いたのは、人の足が遠ざかった荒れ地だった。
風に揺れる草の波の中に、不自然にぽっかりと円を描くような裸地が広がっていた。
丈の伸びた草がその一帯だけ根を張らず、地面は乾いて黒ずみ、周囲より固く踏みしめられている。
「ここだ」
ジョゼフが振り返った。
近づけば、土の上にまだらな影のような跡があった。
雨に洗われ、陽に焼かれて色褪せてはいるものの、そこだけ暗く沈み、石と土の粒がざらつきを帯びている。
まるで何かを吸い込んだ地面が、いまもなお痕跡を手放せずにいるかのようだった。
更に、あたりの草には不規則な枯れの斑が残っていた。黄ばんで崩れた茎が風に揺れ、そこだけ生気が絶たれたように見える。
ふと鼻先をかすめるのは、土の湿りと入り交じった鉄のにおいだ。
現実に匂い立っているのか、それとも父の言葉に引きずられた幻なのか、アリセルには判別できなかった。
しばらく言葉を失い、ただ眼前の跡を凝視していた。
沈黙が重く降り積もる中、ジョゼフは心配げに娘の肩へと手を置いた。
「もし辛かったら泣いてもいいんだぞ」
父の声は柔らかく、気遣いを込めて告げられたものだった。
だがその響きは、もう胸の奥には届かない。
悲しみを押し殺しているのではなく、泣くという行為そのものをどこかに置き忘れてしまったようで、どうすれば涙がこぼれるのかさえ思い出せなかった。
胸に広がる空洞を感じながら、アリセルはぽつりと言う。
「ユーグは、あの時なぜ刺されたの?」
返答を待つ間、風に揺れる草のざわめきがやけに大きく耳に響く。
ジョゼフは視線を伏せ、それから低く答えた。
「どうして、あんな事になったのか理由なんて、誰にも分からない。知ろうとしても、きっと答えは出ない……」
「ユーグは分かっていた」
その言葉を遮るように、きっぱりとした口調で言って、アリセルは顔を上げた。
あの日のことが脳裏によみがえる。彼は確かに襲い掛かる相手に告げたのだ。
『待っていた』と。この結末をあらかじめ悟っていたかのように。
ジョゼフはただ静かに眼を閉じ、ミーシャは唇を震わせながら娘を抱き寄せる。
「……そうかもしれんな。だが、その意味は誰にも測ることはできない」
「私のせいなの?」
「アリセル……」
「なぜか分からないけど、みんな……私とルネ様の婚約に固執していた。お父様も、お母様も、デイジーも、ここに来るお客様たちも……。みんな、みんな同じだった。だから秋祭りの時、ユーグが私と誓いを結んだから。そのせいで彼は刺されたのではないの?」
その声は、自分でも気づかぬうちに口をついて出ていた。
長く胸の奥底で渦巻き、夜ごと反芻しては押し殺してきた思いが、とうとう言葉の形を取って溢れ落ちたのだ。
口にした途端、喉の奥に残っていた苦い塊がほどけ、代わりに全身が空っぽになる。
ジョゼフとミーシャは、わずかに目を見張った。
呼吸が止まったような沈黙が流れる。
「それは違う。アリセル、お前のせいなどではない。皆がお前の婚約を望んだのは、ルネ様が前王の御子だからだ。たとえ閉ざされた塔にあろうとも、その血筋が絶えてはならぬと、誰もが思っている。お前と結びつけようとしたのは、ただその想いゆえだ」
ミーシャはアリセルの肩を抱いた腕に力をこめる。
「だからこそ、みんなが願ったのよ。あなたが彼のそばにいて、これからの人生を支えてくれることを……」
「みんながそう願ったから……。それで、ユーグは狙われたの?」
問いかけは掠れた声で、幼子のように素直に響いた。
だがその一言に、ジョゼフは強く首を振った。
「違う!」
声は厳しく響いたが、すぐに抑え込むように続けた。
「それとこれとは別の話だ。お前とルネ様のことを望む人々の気持ちと、ユーグ君が命を落としたことに繋がりはない。彼が狙われた理由をお前に背負わせるつもりもない」
言葉の端々に滲むのは、娘を守ろうとするかのような必死さだった。
アリセルはそれ以上何も言わず、地を見つめる。
そこに刻まれた跡を目にしても、悲嘆の声は上がらなかった。
胸の奥で渦巻いていた問いも、次第に形を失っていく。
やがて思考そのものが色を失い、静かな空洞の中へ溶けていった。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる