看守の娘

山田わと

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Echo74:灰の都

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 雨は細く降り続き、地面はぬかるみ、靴が沈むたびに冷たい水が跳ね上がる。
  空の向こうで、かすかに朝焼けの気配が滲みはじめていたが、その光は厚い雲に遮られて届かない。
 ミーシャはアリセルの腕を抱え、重い息を吐いた。濡れた裾が脚に絡みつき、頬には雨と汗が入り混じる。

「どうして……軍が、こんなところに……」
 言葉が風に溶けるように消える。
 先を行くルネは、婦人にマントを掛けられていた。
 婦人は自分の肩まで濡らしながら、若い王を守るようにその頭上へ布を広げている。
 護衛の兵が二人、剣を抜いたまま警戒し、馬に乗る者が前方を照らす松明を掲げていた。
 アリセルは母に支えられながら、ほとんど無意識に歩いていた。足元の感触も、音も遠くにあるようで、何度もよろめきながら進む。視線は焦点を結ばず、ただ光と影の中を漂っている。

「アリセル、転ばないで」

 ミーシャが呼びかけても、応えなかった。彼女は歩みを止め、アリセルの顔を覗き込みながら、掠れた声で言った。
「……エリック・ジルベールは死んだはずよ。それなのに、どうして統領軍がまだ動いているの?」
 前を歩いていた護衛兵が足を止め、振り返る。肩には雨粒が光り、兜の下から水が滴っている。
「分かりません、奥さま。統領の死は確かに公に告げられ、国葬も執り行われました。それでも、あの隊列の旗印は間違いなく統領軍のものです」
「まさか、偽物では……?」
 婦人が不安げに声を上げた。ミーシャはかぶりを振る。
「……わからないわ。でも、私たちの隊列がここまで乱されるなんて、まるで動きを読まれていたみたいだわ。あの軍が本当に統領軍なら……誰かが、命令を出しているということになる」
 護衛兵が口を引き結び、低く答えた。
「しかし統領軍は閣下の命令がなければ一歩も動かないはずです。文官にも、軍幹部にも指揮権はありません。あの方が亡くなられた今、命令を出せる者はいない……」
「そう、それが問題なのよ」
 ミーシャは彼の言葉を遮った。
「命令を出す者がいないのに軍が動くなんて、ありえない。あの軍が統領のものである限り、誰かがまだその名の下に指揮を執っているということになるわ」
 雨音がひときわ強くなり、森の空気が冷たく沈んだ。ミーシャの唇の端には、かすかな苦笑が浮かびあがった。
「まるで亡霊のようね。……ほんと目障りな男」
 その声音は静かで、冷えた軽蔑が滲んでいた。

 やがて木々の密度が薄れ、森の終わりが近いことを知らせた。
 馬上の護衛兵が前方を指し示す。

「もうすぐ開けます」

 言葉の通り、前方の木々の合間に淡い光が差し込みはじめた。
 霧を帯びた雨が細く漂い、その先には、ゆるやかな丘の起伏がぼんやりと続いている。
 一行は慎重に足を進め、ついに森を抜け出した。閉ざされていた空気が一気に開き、湿った匂いが薄れていく。

 遠くには都の外郭が見えた。

 薄い靄の中に城壁が浮かび、尖塔が霞の向こうで輪郭を滲ませている。
 瓦屋根が鈍い光を返し、その全景はまるで灰の海のように静かだった。

 護衛兵たちは周囲を警戒し、婦人はルネの肩を支える。アリセルはミーシャに手を引かれながら、ぼんやりと立ち尽くし、丘の風に髪を揺らしていた。

「……皆、何をそんなに急いでいるのですか?」

 森を抜ける間、ずっと沈黙を貫いていたルネが、遠くの城壁を見つめたまま不意に呟いた。

「もし統領軍が今も動いているのなら、統領が生きているということか、あるいは政権がまだ生き続けているということでしょう? だとすれば、僕が王になる理由なんて、どこにもないはずです」
 その言葉に、婦人が小さく息を呑んだ。ミーシャはすぐに口を開く。
「そんなことを言ってはなりません、ルネ様」
 声は強いが、焦りがにじんでいた。
「たとえ統領が生きていようと、あの人はこの国を導く資格を失ったのです。この国の頂点に立つのは、王の血を継ぐあなた以外にありえません」
 ルネはゆっくりと彼女を見た。その瞳には怒りも迷いもなく、ただ冷ややかな光が宿っていた。
「……それを決めるのは、誰ですか?」
「神が、お決めになるのです。この国を救うために、神があなたをお選びになった。そうでなければ、あの日、あなたは生き残らなかったはずです」
 ミーシャの声はどこか祈るような響きが混じっていた。しかしルネは緩やかに首を左右に振る。
「……子どもの頃は信じていました。神がすべてを見ておられると。どんな苦しみにも意味があると、そう教えられてきた。でも、あの塔で知ったんです。もし本当に神が見ていたのなら、あれは見殺しという名の祝福だったんでしょうか。神はただ見ているだけで、決して手を伸ばさない」
 ミーシャはかすかに顔を上げた。
「……けれど、あなたにはアリセルがいます。この子こそ神から与えられた救いではありませんか?」
 ルネはその言葉に、短く息を吐いた。
「確かに、そう思ったこともありました。アリセルが僕に優しくしてくれて、神はようやく僕を赦したのだと思いました。でも……だとしたら、どうして神は僕に彼女を壊させたんでしょうか」
 雨が頬を伝い、声の輪郭を曖昧にした。
 それでも、ルネの言葉はひとつひとつ確かに地に落ちていくようだった。

「いや、違う。神じゃない。アリセルを壊したのは、僕自身だ。神なんて、最初からどこにもいなかった」
 ミーシャは思わず首を振った。
「壊れてなどいませんわ。アリセルは今、少し疲れているだけです」
 ルネの視線がふとアリセルに向かった。
 雨は細く、霧のように漂っている。その中で、彼女は立ち尽くしていた。
 顔を上げ、空を見ている。唇はわずかに開き、瞳は虚ろだった。
 その姿はすべてを失った者だけが持つ、奇妙な透明さがあった。まるで、雨と空のあいだに溶け込んでいく幻のような光景を、ルネは息をすることすら忘れたように見つめていた。

 やがて彼は低く言う。

「……本当にそう思うのなら、あなたは彼女の母ではありません。それに神が定めた、だなんて方便でしょう。僕を王に据えようとしたのは神でも民でもない。あなたたちだ……」
 その言葉は静かに落ち、雨音の下に沈んでいった。
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