看守の娘

山田わと

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Echo73:雨と剣

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 馬車の外では、風が木々を揺らしていた。
 細い枝が車体に触れ、擦れる音が途切れ途切れに響く。

 出発した頃にはまだ夕陽が森の端を照らしていたが、その光はすぐに翳り、雲が空を覆いはじめた。
 やがて雨粒がぽつり、ぽつりと落ち、屋根を叩く音が夜の静けさを細かく刻んだ。

 窓の向こうでは、松明の列が湿った空気の中を揺れている。
 護衛の兵たちが馬に跨り、雨を避けるように身を屈めながら、森の奥へと進んでいた。蹄の音がぬかるんだ土を打ち、重く低い響きを残す。
 車内には冷えた森の匂いが仄かに漂った。

 アリセルは虚ろな目でその光の揺れを追っていた。
 視界の端が滲み、輪郭が遠ざかっていく。意識は浅い水面に浮かぶようで、何かを考えようとしても、すぐに波に呑まれてしまう。

 瞼が重くなる。鼓動が遠くで打ち、手の感覚が薄れていく。

 世界の輪郭が少しずつ溶け、残るのは雨と車輪の軋む音、そして炎のかすかな唸りだけだった。

 やがて空の色が、わずかに灰を混ぜたように変わり始めた。
 木々の影は薄れたが、夜明けの雨はまだ細く、光を拒むように降り続けていた。
 ルネが彼女の傍らで静かに息を吐く。その音すらも遠くに感じながら、アリセルは夢と現の狭間を行き来していた。
 濡れた森はしんと静まり、馬車の揺れは子守唄のように穏やかだった。

 突然、車輪が石を踏みつけたような音とともに、馬車が大きく揺れた。
 がくん、と軋む音がして、天井のランプが激しく揺れる。アリセルの身体もわずかに前へと傾き、膝の上に置いた手が滑り落ちた。

「まあ……どうしたのかしら?」

 ミーシャが息を呑み、窓の外を覗き込む。向かいの婦人も同じように身を乗り出した。
 外では、低い怒号と蹄の音が重なり合っていた。
 松明の光が乱れ、不規則に明滅する。馬が嘶き、誰かが何かを叫んでいる。
「まさか、道が崩れたのかしら……?」
「分かりませんわ。けれど……兵たちの様子が……」
 二人の声が交錯する。
 アリセルはそのやりとりを、ぼんやりと聞いていた。
 ミーシャは窓を少し開け、身を乗り出した。外の空気が流れ込み、冷たい風が頬を撫でる。
「何があったのですか?」
 彼女が声を張り上げると、すぐそばを駆け抜けていた兵の一人が振り返った。
「詳細は不明ですが、どうやら襲撃を受けている模様です」
 その言葉に、ミーシャと婦人は顔を見合わせた。
「……野盗か何かでしょうか?」
「きっとそうですわ。野盗程度なら、護衛の方々がすぐに追い払ってくださいますわね」
 婦人の声音には、わずかな安心が滲んでいた。ミーシャも小さく頷く。
「ええ、心配はいらないでしょう」
 雨脚がわずかに強まった。
 雨が枝葉を叩く音に紛れて、いつのまにか怒号と蹄の響きが滲みはじめた。松明の光が窓の外で乱れ、何本もの影が交錯する。

「……随分、長引いていますわね」

 婦人が不安げに言う。
 先ほどまでの穏やかな声音はすっかり消えていた。
 ミーシャは唇を結び、窓の外に目を凝らした。闇の向こうで金属が打ち合う音がする。湿った風がひゅうと吹き込み、誰かの叫び声が聞こえた。

「まさか……まだ野盗を追い払えていないの?」

 ミーシャの声が震える。婦人は手を胸の前で握りしめた。
「ただの野盗ではないのかもしれません……。こんな音……まるで戦っているみたい」
 不意に馬が嘶き、車体が激しく揺れた。
 天井のランプが大きく揺れ、炎が一瞬細くなる。外では誰かが「下がれ!」と叫び、別の声がそれをかき消すように怒鳴った。
 ミーシャは窓枠を掴み、顔を引き攣らせた。
「……様子がおかしいわ」
 婦人は頷きながらも、言葉を失っていた。雨と叫びと金属音が渾然と混じり合い、森全体が戦場のように騒めいていた。

 ルネの手が、アリセルの手を強く握り締めた。

 冷えていた手の甲に、かすかな熱が伝わっていく。彼女の意識は深い霧の底に沈んでいたが、その体温だけが現実の印のように感じられた。
 遠くで蹄の音と怒号が混じり合い、車体が揺れるたびに、握られた手がわずかに震える。
 外の騒めきがひときわ強くなり、車輪が泥をはねた。
 車内のランプが激しく揺れ、光が壁を乱反射する。

 その直後、金属が軋む鋭い音が響き、馬車の扉が勢いよく叩き開けられた。
 扉の向こうに立っていたのはジョゼフだった。
 いつもは冷静で沈着な彼の顔に、見たことのない焦りが浮かんでいる。肩には泥がはね、外套の裾は濡れて重く垂れていた。
 ミーシャと婦人が息を呑む。
 アリセルは半ば夢の中のような意識のまま、開け放たれた扉の方へ視線を向けた。

「……統領軍だ」

 低く押し殺した声が、雨音の合間に響いた。普段なら冷静なその声音が、わずかに震えている。
「な、なんですって……?」
 ミーシャの顔から血の気が引いた。婦人も口元を覆い、立ち上がりかける。

 ジョゼフは扉の外を一瞥した。

 松明の光がちらつき、森の奥から兵たちの影が近づいてくる。甲冑がぶつかり合う音が次第に鮮明になり、雨に混じって鋭い号令が飛んだ。
「……もうすぐ来る。ここにいては危険だ」
 ジョゼフの声が低く響いた。雨で濡れた外套の裾から水が滴り落ちる。
「馬車は目立ちすぎる。森に入ればまだ間に合う……。歩きで行くぞ」
 ミーシャが驚いたように顔を上げた。
「歩いて……? この雨の中を?」
「構わん。馬車ごと見つかれば終わりだ」
 短く言い捨てると、ジョゼフは外へ視線を戻した。
 遠くで誰かが「陣形を整えろ!」と叫ぶ声がした。松明の列がさらに増え、光が木々の間を這うように揺れる。婦人が怯えたようにミーシャの腕を掴んだ。
「そ、そんな……。森の中で見つかったら……」
「見つかる前に動くんだ」
 ジョゼフは振り返り、ルネに目を向けた。
「ルネ様、アリセルを頼みます。すぐに出てください」
 その言葉に、ルネは小さく頷き、まだ意識の浅いアリセルの肩を支えた。

 馬の嘶きが近づき、地面を蹴る音が重なって響く。

 ジョゼフは剣の柄に手をかけ、冷たい空気を胸に吸い込みながら言った。
「……急げ。もう時間がない」
 彼の言葉が終わるより早く、袖口を掴む手があった。
 アリセルの指だった。
 白く、細く、爪先に傷を散らした指先が、濡れた布に沈むように食い込む。
「おとうさま……」
 アリセルはゆっくりと顔を上げた。
 焦点の合わない瞳が、どこを見るでもなく宙を彷徨う。唇が動くたびに、息が細く震え、声が途切れそうになる。
「わたし、みているから……。ちゃんと、みているよ……」
「……アリセル、離しなさい」
 低く制する声にも、彼女は耳を傾けなかった。
 その眼差しはどこか幼く、泣き出す寸前の子どものようでもあり、同時に底知れぬ静けさを宿していた。
「おとうさま…わたしは……あなたがだいすきでした……」
 その言葉が途切れると、ミーシャの手が娘の肩を掴んだ。
「行くわよ、アリセル!」
 鋭い声とともに、ミーシャが娘を力ずくで引きはがした。
 濡れた布が擦れ、アリセルの指先が空を掴むようにほどけていく。抵抗の気配もなく、彼女の身体は糸の切れた人形のようにふらりと揺れた。

 母に引かれるまま、靴が濡れた地面に沈む。

 アリセルの瞳はまだ焦点を結ばず、唇が何かを言いかけては消えていった。
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