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Echo72:偽りの安寧
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ルネの言葉が落ちた後、馬車の中は静まり返った。
アリセルは彼の膝の上に頭を預けたまま、目を閉じていた。
耳の奥で鳴っていた低い唸りが、少しずつ遠のいていく。
胸の奥のざわめきも落ち着き、呼吸が深く吸えるようになった。
車体がぐらりと傾いた。
木の壁が軋み、窓枠ががたつく。蹄の音がやみ、森の匂いが風とともに入り込んできた。
「……少々お待ちを。車輪がぬかりましたので、整えてまいります」
外から聞こえる御者の声に、アリセルはほっと息をつき、身を起こす。
「大丈夫?」
ルネの声は不安を含んでいた。アリセルは頷き、軽く微笑んだ。
「……はい。でも少しだけ、外の空気が吸いたいの」
その言葉に、ミーシャが静かに息をついた。
「このまま座っているより、外に出たほうが楽かもしれないわね」
彼女はアリセルの頬に手を伸ばし、体温を確かめるように撫でた。
婦人も窓の外をのぞき込み、薄暗い空を見上げた。
「雨が降りそうですけれど、少しなら大丈夫でしょう」
「そうね……。行ってらっしゃい。すぐに戻ってくるのよ」
ミーシャの言葉を受けて、ルネが立ち上がり、手を差し出す。アリセルはその手を取り、馬車の扉へ身を乗り出した。
扉が開くと、ひんやりとした風が頬を撫で、湿り気を帯びた森の匂いが流れ込んでくる。
空はまだ沈みきらない夕暮れ色で、光が地面を鈍く照らしていた。鳥の声も遠く、風の音ばかりが残る。
アリセルは一歩外に出て、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
土と葉の匂い、遠い雷のような低い響き。それらが胸の中に沈んでいた重さを少しずつ溶かしていく。
「……何か…違う気がする……」
背後から届いたルネの呟きを、アリセルは確かに聞いた。
振り返った先で、彼は拳を口元に当て、思案に沈んでいるようだった。
「ルネ様はこの話ご存知だったのですか? 私は、王妃になるなんて初めて聞きました」
ルネはちらりと、馬車の奥に座るミーシャと婦人を見た。
彼女たちの様子を確かめるように視線を揺らし、死角になる位置へと身を寄せる。振り返り、アリセルを見つめた。
「アリセル……。僕は、自分が王となることを知っていた。君が王妃になるという話も、その時すでに耳にしていた。でも、それを君に話すのはまだ早いと止められていたんだ」
「それはいつのお話ですか……?」
「僕が熱を出したときのことだよ。ジョゼフさんから聞かされたんだ」
アリセルは記憶を手繰った。
あれは確か、初めてルネを市場へ連れて行った後のことだった。
その時点で、すでに自分とルネの結婚が決まっていたのだとしたら。
婚約の話を聞かされ、「考えさせてほしい」と口にしたときに、両親が言った「無理強いはしない」という言葉は、一体何だったのだろう。
「僕は本当に王になる事を望まれているのかな……」
「分かりません……。私が知っている国や政治のことは、両親やその周りの人たちから聞かされることだけなんです」
「不思議に思っていたんだ。ユーグが話していた国のことと、君のご両親やデイジーさんが言っていた国のこと。それが、まるで別のものみたいに違っていると」
「それは私も感じていました……」
「きっと、どちらかが嘘をついているんだ。ユーグか……今ここにいる人たちか……」
アリセルは知らず内に息をつめた。
その人の立場によって、国の形は違って見えると思い込むことで、ずっと心の中の違和感を封じてきたのだ。
けれど、現実は一つしかない。
見え方が違うことはあっても、真実そのものが正反対になる筈がないのではないか。
そのとき、唐突に肩を叩かれ、アリセルはドキリとして顔を上げた。すぐ背後に立っていたのはジョゼフだった。
「……具合が悪いと聞いたが、大丈夫か?」
低く落ち着いた声が、耳の奥に届く。アリセルは息を整え、胸の鼓動を押し隠すように小さく頷く。
「ええ……もう平気」
「それならいい。もうすぐ発つそうだ、中に戻りなさい」
ジョゼフがそう言って踵を返したとき、アリセルの指先が無意識に彼の服の裾を掴んでいた。
父がわずかに振り返る。驚いたように眉を上げたが、静かに娘を見つめた。
アリセルははっとして手を放す。
「……ごめんなさい」
言葉はか細く、息のように消えた。
ジョゼフは何も言わず、代わりに大きな手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
その手のひらは温かく、昔と変わらぬ優しさがあり、胸の奥がかき乱された。
信じたいと思う気持ちと、疑いの影がせめぎ合い、どちらも消えてくれない。髪の根元まで掌の熱が沁み込み、涙のようなものが喉の奥に込み上げた。
こんなにも温かくて優しいのに、もしこの手が嘘を隠しているのだとしたら。
考えたくない想いに心を引き裂かれた途端、思考の糸がぷつりと切れた。
それは、あの夜の後に繰り返し襲ってきたものだった。世界の輪郭がゆっくりと溶けていく。
音も光も遠ざかり、ただ空気の重さだけが身体にまとわりつく。
自分の内側で何かがずれていくのが分かるのに、どうすることもできない。
また始まってしまったと、頭の片隅どこか冷静な部分で理解し、心がひやりと凍りついた。
隣にいたルネはすぐに異変に気づいたようだった。アリセルの腕を支え、そのまま彼女を伴って馬車の中へと戻る。
扉を開けると、薄暗い車内に灯されたランプの光が、柔らかく二人を包み込む。ミーシャと婦人が並んで座り、どちらも笑みを浮かべていた。
「まあ、顔色が戻ってきたじゃない」
ミーシャは穏やかな声で言う。
けれどアリセルには、その言葉の意味がうまく届かず、ぼんやりと母の顔を見つめた。
唇が動いている。声が聞こえる。
なのに、どんな言葉が発せられているのか、頭の中で形を成さない。婦人は銀の盆に載せられた小さなカップを二人に手渡す。
「少しは休めたかしら? 外の風に当たると気分も違うでしょう」
アリセルは両手でカップを受け取り、こくんと頷いた。
考えるより先に、感情が遠ざかり、ただ安心も恐怖も、すべてが溶けてしまうような感覚だけが残った。
アリセルは彼の膝の上に頭を預けたまま、目を閉じていた。
耳の奥で鳴っていた低い唸りが、少しずつ遠のいていく。
胸の奥のざわめきも落ち着き、呼吸が深く吸えるようになった。
車体がぐらりと傾いた。
木の壁が軋み、窓枠ががたつく。蹄の音がやみ、森の匂いが風とともに入り込んできた。
「……少々お待ちを。車輪がぬかりましたので、整えてまいります」
外から聞こえる御者の声に、アリセルはほっと息をつき、身を起こす。
「大丈夫?」
ルネの声は不安を含んでいた。アリセルは頷き、軽く微笑んだ。
「……はい。でも少しだけ、外の空気が吸いたいの」
その言葉に、ミーシャが静かに息をついた。
「このまま座っているより、外に出たほうが楽かもしれないわね」
彼女はアリセルの頬に手を伸ばし、体温を確かめるように撫でた。
婦人も窓の外をのぞき込み、薄暗い空を見上げた。
「雨が降りそうですけれど、少しなら大丈夫でしょう」
「そうね……。行ってらっしゃい。すぐに戻ってくるのよ」
ミーシャの言葉を受けて、ルネが立ち上がり、手を差し出す。アリセルはその手を取り、馬車の扉へ身を乗り出した。
扉が開くと、ひんやりとした風が頬を撫で、湿り気を帯びた森の匂いが流れ込んでくる。
空はまだ沈みきらない夕暮れ色で、光が地面を鈍く照らしていた。鳥の声も遠く、風の音ばかりが残る。
アリセルは一歩外に出て、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
土と葉の匂い、遠い雷のような低い響き。それらが胸の中に沈んでいた重さを少しずつ溶かしていく。
「……何か…違う気がする……」
背後から届いたルネの呟きを、アリセルは確かに聞いた。
振り返った先で、彼は拳を口元に当て、思案に沈んでいるようだった。
「ルネ様はこの話ご存知だったのですか? 私は、王妃になるなんて初めて聞きました」
ルネはちらりと、馬車の奥に座るミーシャと婦人を見た。
彼女たちの様子を確かめるように視線を揺らし、死角になる位置へと身を寄せる。振り返り、アリセルを見つめた。
「アリセル……。僕は、自分が王となることを知っていた。君が王妃になるという話も、その時すでに耳にしていた。でも、それを君に話すのはまだ早いと止められていたんだ」
「それはいつのお話ですか……?」
「僕が熱を出したときのことだよ。ジョゼフさんから聞かされたんだ」
アリセルは記憶を手繰った。
あれは確か、初めてルネを市場へ連れて行った後のことだった。
その時点で、すでに自分とルネの結婚が決まっていたのだとしたら。
婚約の話を聞かされ、「考えさせてほしい」と口にしたときに、両親が言った「無理強いはしない」という言葉は、一体何だったのだろう。
「僕は本当に王になる事を望まれているのかな……」
「分かりません……。私が知っている国や政治のことは、両親やその周りの人たちから聞かされることだけなんです」
「不思議に思っていたんだ。ユーグが話していた国のことと、君のご両親やデイジーさんが言っていた国のこと。それが、まるで別のものみたいに違っていると」
「それは私も感じていました……」
「きっと、どちらかが嘘をついているんだ。ユーグか……今ここにいる人たちか……」
アリセルは知らず内に息をつめた。
その人の立場によって、国の形は違って見えると思い込むことで、ずっと心の中の違和感を封じてきたのだ。
けれど、現実は一つしかない。
見え方が違うことはあっても、真実そのものが正反対になる筈がないのではないか。
そのとき、唐突に肩を叩かれ、アリセルはドキリとして顔を上げた。すぐ背後に立っていたのはジョゼフだった。
「……具合が悪いと聞いたが、大丈夫か?」
低く落ち着いた声が、耳の奥に届く。アリセルは息を整え、胸の鼓動を押し隠すように小さく頷く。
「ええ……もう平気」
「それならいい。もうすぐ発つそうだ、中に戻りなさい」
ジョゼフがそう言って踵を返したとき、アリセルの指先が無意識に彼の服の裾を掴んでいた。
父がわずかに振り返る。驚いたように眉を上げたが、静かに娘を見つめた。
アリセルははっとして手を放す。
「……ごめんなさい」
言葉はか細く、息のように消えた。
ジョゼフは何も言わず、代わりに大きな手を伸ばして彼女の頭を撫でた。
その手のひらは温かく、昔と変わらぬ優しさがあり、胸の奥がかき乱された。
信じたいと思う気持ちと、疑いの影がせめぎ合い、どちらも消えてくれない。髪の根元まで掌の熱が沁み込み、涙のようなものが喉の奥に込み上げた。
こんなにも温かくて優しいのに、もしこの手が嘘を隠しているのだとしたら。
考えたくない想いに心を引き裂かれた途端、思考の糸がぷつりと切れた。
それは、あの夜の後に繰り返し襲ってきたものだった。世界の輪郭がゆっくりと溶けていく。
音も光も遠ざかり、ただ空気の重さだけが身体にまとわりつく。
自分の内側で何かがずれていくのが分かるのに、どうすることもできない。
また始まってしまったと、頭の片隅どこか冷静な部分で理解し、心がひやりと凍りついた。
隣にいたルネはすぐに異変に気づいたようだった。アリセルの腕を支え、そのまま彼女を伴って馬車の中へと戻る。
扉を開けると、薄暗い車内に灯されたランプの光が、柔らかく二人を包み込む。ミーシャと婦人が並んで座り、どちらも笑みを浮かべていた。
「まあ、顔色が戻ってきたじゃない」
ミーシャは穏やかな声で言う。
けれどアリセルには、その言葉の意味がうまく届かず、ぼんやりと母の顔を見つめた。
唇が動いている。声が聞こえる。
なのに、どんな言葉が発せられているのか、頭の中で形を成さない。婦人は銀の盆に載せられた小さなカップを二人に手渡す。
「少しは休めたかしら? 外の風に当たると気分も違うでしょう」
アリセルは両手でカップを受け取り、こくんと頷いた。
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