看守の娘

山田わと

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Echo76:統領の子

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 剣の刃先から滴る水がアリセルの喉もとを冷たく伝った。
 息が詰まり、胸の奥で心臓の音だけが強く響く。目の前の男は、ただ無言で立っていた。
 アリセルは呼吸を忘れたまま、微かに唇を震わせる。

 ……なぜ。

 声にならない問いが、胸の奥でかすかに泡立つ。
 ほんの少しでも動けば、剣の切っ先が喉を裂く。アリセルは、ただその瞳を見つめ返すことしかできなかった。

「ユーグ……なの?」

 掠れた声で名を呼んでも、男の表情は動かない。
 アリセルに剣を突きつけたまま、彼はゆっくりと顔を傾けた。
 その仕草に、かつての面影が一瞬よぎる。しかし彼の表情は仮面でもかぶっているように揺るがない。

 時間が止まったようだった。雨の音が消え、風も凍りつく。
 刃の感触だけが現実で、それ以外のすべてが夢のように遠ざかっていく。
「ユーグ!!」
 背後でルネの声が響く。続いてミーシャと婦人、護衛の兵たちも動き出す。
 ぬかるんだ地を踏みしめながら、彼らは二人のもとへと駆け寄る。
 それでもアリセルは、身じろぎひとつできなかった。
 ルネはようやく二人の距離に気づき、眉を寄せた。

「……どういうこと?」

 ルネの呼びかけが雨に滲んだ途端、止まっていた世界が動いた。
 男はわずかに唇の片端を歪める。
 それは微笑の形をしていながら、どこか露悪的なものだった。冷たい光が瞳の奥をかすめ、雨の帳の中でその表情だけが際立つ。
 その顔にアリセルの胸がざわめく。この笑みを確かに知っている。

 ユーグが時折、ふとした瞬間に見せていた、歪んだ愉悦の笑みだった。

 彼はルネに視線を移し、口を開いた。
「立場を変えてお目にかかるのは、これが初めてですね。元王子殿下。ノクス・ジルベールと申します」
「……君は…ユーグでは……」
「たしかにそう名乗っておりました。ですがあれは職務上の仮名です。本来の名はノクス・ジルベール。エリック・ジルベールの息子です」
 ユーグ……いや、ノクスと名乗った男の背後から、黒の外套をまとった兵たちが、次々と現れる。
 ノクスはアリセルの首元に突きつけていた剣を鞘へと戻す。アリセルは弾かれたように、彼の方へ一歩踏み出した。

「ユーグ……!」

 しかし、その足が地を踏むより早く、両脇から二人の兵が進み出た。
 長槍の穂先が、十字を描くように交差し、目前で静止する。
 行先を阻まれても抑えきれなかった。必死にノクスの姿を追いかけるように、身体を前へと押し出す。槍の穂先が喉元すれすれで交わり、鎧の擦れる音が耳の奥で鋭く響く。
 ノクスは冷ややかな視線を彼女に向けた。瞳の奥は深く暗く、感情の影ひとつなかった。

「ノクス・ジルベール……」

 背後から、母の掠れた声がした。
 アリセルが振り向くと、ミーシャは立ち尽くしていた。顔は蒼白で、唇がわななく。隣の婦人が怯えたようにその腕に縋りついていた。
「……嘘よ。エリック・ジルベールの息子は幼い頃に亡くなったはずだわ、それに……あなたはユーグ君でしょう? アリセルと仲が良くて、色々と手伝ってくれた。あなたの事なら知っているわ! ……ご両親は前王に処刑されて、もうこの世にはいないはずじゃないの……!」
「確かに、ユーグ・アージュという男はそういう設定でしたね」
「設定……?」
「ミーシャ・エルヴァン婦人。物語を紡いでいたのが、あなた方だけだと思っていたのですか」
 ノクスの声はどこまでも静かだった。だがその静けさの奥には、冷ややかな嘲りが潜んでいた。
「あなた達は筋書きを描いたつもりでいたのでしょう。けれど、舞台の外で別の脚本が進んでいたことには、気づかなかった」
 ミーシャは息を詰め、後ずさる。
「……何を言っているの……?」
「設定の話ですよ。あなた方が書いた筋書きは、こちらが用意した、道具立てに過ぎなかったということです」
 後方の森の奥からは、金属のぶつかる音が響いていた。

 はじめは遠かったその音が、やがて一息ごとに近づいてくる。

 アリセルが目を凝らすと、森の陰から数人の護衛兵が飛び出してくるのが見えた。鎧に泥が跳ね、肩で息をしながら、アリセルたちの立つ場所へとやって来る。
 その背後には、黒い外套をまとった統領軍が見えた。まるで獲物を追い立てるように、じりじりと護衛兵との間を詰めていた。
「下がれ! 包囲されるぞ!」
 護衛兵の叫ぶ声が、雨に湿った空気に響いた。
 しかし、退く先はもうなかった。統領軍の列が森の縁をなぞるように広がり、弧を描いて包囲の輪を締めていく。
 端で短い号令が上がる。雨の向こうで、統領軍の兵が一人の男を取り囲んでいた。
 剣を構えたまま立ち止まったその背中は父だった。アリセルは息を呑む。
 ジョゼフは抵抗することもなく、ゆっくりと剣を地に置いた。
 濡れた地面に刃が沈み、わずかに泥が跳ねる。兵たちは互いに視線を交わすと、距離を取りながら、彼を中央へと促した。

 兵に付き添われたまま、ジョゼフは一歩ずつ、歩みを進めていく。
 やがて、彼はノクスの前に立った。統領軍の兵たちは道の両側へ退き、中央にわずかな空間が生まれる。
 雨の名残が地を打ち、二人の間だけが、不自然なほど静かだった。

 ノクスはジョゼフから視線を外し、ゆるやかに空を仰いだ。
 灰色の雲が流れ、そこに裂け目のような光が差し込む。淡い陽の筋が雨の名残を照らし、彼の外套と頬に微かな輝きを落とした。

 濡れた横顔がその光を掠め、吐息が白くほどける。

 まるでその一刻だけ、彼のまとう闇が薄らいだように見えた。ノクスは目を細め、光の中で静かに言葉を落とした。

「時間ならいくらでもある。筋書きも知らずに配役を与えられた娘と、歯車として使われた元王子殿下にも分かるように話してやろう。……さて、どこから始めようか。エルヴァン家と王政復権派が仕立てた、下劣な芝居の脚本から話そうか」

 先ほどまでの丁寧な口調とは打って変わり、その声の響きも、言葉の選び方も、アリセルの記憶にあるユーグそのものだった。
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