2 / 92
Echo2:槐の指輪
しおりを挟む
絵の具を流し込んだような真っ青な空に、霞がかった雲が風に吹かれて移動する。
村外れの丘にある大樹の根に腰掛けて、アリセルは息を吐き出した。
陽光に煌めく木の葉を見上げていると、鬱々とした気分が少しばかり晴れるような気がした。
塔に幽閉された前国王の嫡子、ルネ・サントレール。
彼の処遇を一言で言うならば「悲惨」だ。
不潔極まりない部屋に閉じこめられ、食事も十分に与えられていないのだろう。そればかりか、夥しい傷から察するに虐待も受けている。昔、罪人には人権などないと聞いた事がある。確かにそうなのかも知れない。しかし、だからと言って、あの有様は明らかに常軌を逸していた。
何度目か分からない溜息を吐くと、不意に肩をぽんっと叩かれた。驚いて振り向くと、そこには見知った顔があった。
「なーんだ、ユーグか。びっくりした」
「なんだ、とはなんだよ」
ユーグは笑ってアリセルの隣に腰かける。
引き締まった体躯に鋭い眼差しをしたユーグは見かけこそ、とっつきにくい印象を与える。
だが、アリセル達家族がこの村に引っ越してきたすぐ後に越して来た事もあって、今では一番の親友だ。
「家にいなかったから探したんだ」
「私を探した? あ、もしかしてお誕生日おめでとうって言いに来てくれたの?」
一瞬ムッとした表情になるユーグに、図星だったのだと知る。
思わず破顔すると額を軽く小突かれた。
「折角祝ってやろうというのに、先に言われるなんて台無しだ。こういう時は察して黙っているものだぞ」
「ごめんね。でもつい口が滑っちゃうのよね、困った困った」
「全然困っていないだろ」
ユーグとの気の置けない軽口が心地良い。幽閉された青年の凄惨な光景を見た後には尚更だ。
「とにかく。少し遅れたけど誕生日おめでとう。俺からの贈り物だ」
ユーグに右手をすっと掬いあげられる。
流れるような動作で、右の中指に嵌められたのは木製の指輪だった。アリセルは自分の目の前に右手を広げる。ほんの少しだけサイズの大きい指輪は光沢が出るまでに磨かれて、さざ波のような模様を刻む年輪が何とも美しかった。
「これ、ユーグが作ったの?」
「ああ、エンジュの木を使って作ったんだ。これがまた、すぐ割れるから苦労したよ」
「ユーグ、すごい。ありがとう!」
親友から貰った唯一無二の贈り物に、思わず抱き着こうとした所、手で制されてアリセルは固まる。
気安く他人に、しかも男性に抱きついてはいけないと、ユーグ本人に言われてきたのを思い出したのだ。
行き場のない手を取り繕おうと、口元に拳をあてて咳払いで誤魔化すと、ユーグは楽しそうに笑う。
「アリセルも少しは大人になったな」
「もう大人だもん」
「エンジュの木は邪気除けになるって言われているんだ。まぁ、お前の馬鹿正直さには、こんなものなくても邪気も逃げ出すだろうけどな」
「何、ソレ。誉め言葉に聞こえないんだけど。でもとっても嬉しいから許してあげる」
左手で指輪に触れて、そっと胸に手をあてがう。指先から木の温もりが伝わってくるようだった。
長閑で明るい景色に、友からの贈り物。
先程まで強張っていた心が柔らかくなるのを感じる。再度、胸の内でユーグに感謝を告げてからアリセルは顔をあげた。
「あのね、ユーグ。私ね、お父様の手伝いで看守をする事になったの」
「ああ、それ聞いたよ。村で噂になっていた。お前が「奴」の看守になったって」
「奴」と言った時、ユーグの表情は僅かに固くなった。
そう言えば、とアリセルは思い出す。ユーグの家族は前国王によって処刑されたと聞いた。
税である穀物を納める事ができなかったとか、確かそんなくだらない理由で、だ。
身内を殺された彼にとって、その血を引くルネは矢張り憎いだろう。親の罪は親のもので、子に非はないと言ったアリセルだが、その怨恨は理解できる。
「この前、ルネ様が幽閉されている塔へ行ったの。酷い有様だったわ。家畜のほうがよっぽどマシな扱いよ」
「そりゃ、国民を苦しめた王の子だ。とびっきりの罪人だから何をされても文句は言えないだろ」
「ユーグもそう思う?」
問いかけるとユーグは肩を竦める。
否定とも肯定とも取れない仕草だった。アリセルはその場に座り込み、膝を抱える。
およそ10年前に民衆の前で首を落とされたサントレール王と妃のことは朧気ながらに覚えている。
当時幼かったアリセルは父に肩車をされて、処刑の瞬間を見ていた。
しかし国王夫婦が首を落とされた光景そのものよりも、民衆の熱狂の方が恐ろしくて早く帰りたいと切実に願ったものだった。
腐敗された王政が一新され、新たにこの国を統治しているのは民衆から選ばれた市民だ。
とは言っても、国や政治についてアリセルに直接影響がある訳でもなく、よく分からないというのが本音だった。
前の王政がどれ程酷かったのか。今の国は昔よりも良くなっているのか。
悪しき王の死によって、民は平和の園を手に入れたのだろうか。
未だに貧困や略奪が横行していると耳にするが、それは本当なのだろうか。考えた所で分からない。しかし目の前にいるルネの存在はアリセルにとって切に迫った現実だった。
自分の力が及ぶ範囲で、変えることができる事は変えたいと思う。
「私は罪人の子だから何をされても良いとは思わない」
「アリセルならそう考えると思った」
「私の事はお見通しって訳?」
「だってお前分かりやすいし」
「悪かったわね」
「不貞腐れるなって。ルネ・サントレールの面倒を見るんだろ。間違っていると思う所は正せば良いし、自分がやりたいようにやれば良いんじゃないか?」
「うん」
アリセルは伏せていた顔をあげた。ユーグの言葉はもっともだ。
ルネに課せられた過去の惨状を嘆くよりも、これから出来ることをやろう。決意を秘めてユーグに頷いてみせた。
「ありがとう。お陰で気が晴れたわ」
「お役にたてて何よりです」
ユーグはふざけた調子で応じる。その様子に思わず笑ってからアリセルは空を仰いだ。
中指に嵌めた指輪の温もりが、そっと背を押してくれているようだった。
村外れの丘にある大樹の根に腰掛けて、アリセルは息を吐き出した。
陽光に煌めく木の葉を見上げていると、鬱々とした気分が少しばかり晴れるような気がした。
塔に幽閉された前国王の嫡子、ルネ・サントレール。
彼の処遇を一言で言うならば「悲惨」だ。
不潔極まりない部屋に閉じこめられ、食事も十分に与えられていないのだろう。そればかりか、夥しい傷から察するに虐待も受けている。昔、罪人には人権などないと聞いた事がある。確かにそうなのかも知れない。しかし、だからと言って、あの有様は明らかに常軌を逸していた。
何度目か分からない溜息を吐くと、不意に肩をぽんっと叩かれた。驚いて振り向くと、そこには見知った顔があった。
「なーんだ、ユーグか。びっくりした」
「なんだ、とはなんだよ」
ユーグは笑ってアリセルの隣に腰かける。
引き締まった体躯に鋭い眼差しをしたユーグは見かけこそ、とっつきにくい印象を与える。
だが、アリセル達家族がこの村に引っ越してきたすぐ後に越して来た事もあって、今では一番の親友だ。
「家にいなかったから探したんだ」
「私を探した? あ、もしかしてお誕生日おめでとうって言いに来てくれたの?」
一瞬ムッとした表情になるユーグに、図星だったのだと知る。
思わず破顔すると額を軽く小突かれた。
「折角祝ってやろうというのに、先に言われるなんて台無しだ。こういう時は察して黙っているものだぞ」
「ごめんね。でもつい口が滑っちゃうのよね、困った困った」
「全然困っていないだろ」
ユーグとの気の置けない軽口が心地良い。幽閉された青年の凄惨な光景を見た後には尚更だ。
「とにかく。少し遅れたけど誕生日おめでとう。俺からの贈り物だ」
ユーグに右手をすっと掬いあげられる。
流れるような動作で、右の中指に嵌められたのは木製の指輪だった。アリセルは自分の目の前に右手を広げる。ほんの少しだけサイズの大きい指輪は光沢が出るまでに磨かれて、さざ波のような模様を刻む年輪が何とも美しかった。
「これ、ユーグが作ったの?」
「ああ、エンジュの木を使って作ったんだ。これがまた、すぐ割れるから苦労したよ」
「ユーグ、すごい。ありがとう!」
親友から貰った唯一無二の贈り物に、思わず抱き着こうとした所、手で制されてアリセルは固まる。
気安く他人に、しかも男性に抱きついてはいけないと、ユーグ本人に言われてきたのを思い出したのだ。
行き場のない手を取り繕おうと、口元に拳をあてて咳払いで誤魔化すと、ユーグは楽しそうに笑う。
「アリセルも少しは大人になったな」
「もう大人だもん」
「エンジュの木は邪気除けになるって言われているんだ。まぁ、お前の馬鹿正直さには、こんなものなくても邪気も逃げ出すだろうけどな」
「何、ソレ。誉め言葉に聞こえないんだけど。でもとっても嬉しいから許してあげる」
左手で指輪に触れて、そっと胸に手をあてがう。指先から木の温もりが伝わってくるようだった。
長閑で明るい景色に、友からの贈り物。
先程まで強張っていた心が柔らかくなるのを感じる。再度、胸の内でユーグに感謝を告げてからアリセルは顔をあげた。
「あのね、ユーグ。私ね、お父様の手伝いで看守をする事になったの」
「ああ、それ聞いたよ。村で噂になっていた。お前が「奴」の看守になったって」
「奴」と言った時、ユーグの表情は僅かに固くなった。
そう言えば、とアリセルは思い出す。ユーグの家族は前国王によって処刑されたと聞いた。
税である穀物を納める事ができなかったとか、確かそんなくだらない理由で、だ。
身内を殺された彼にとって、その血を引くルネは矢張り憎いだろう。親の罪は親のもので、子に非はないと言ったアリセルだが、その怨恨は理解できる。
「この前、ルネ様が幽閉されている塔へ行ったの。酷い有様だったわ。家畜のほうがよっぽどマシな扱いよ」
「そりゃ、国民を苦しめた王の子だ。とびっきりの罪人だから何をされても文句は言えないだろ」
「ユーグもそう思う?」
問いかけるとユーグは肩を竦める。
否定とも肯定とも取れない仕草だった。アリセルはその場に座り込み、膝を抱える。
およそ10年前に民衆の前で首を落とされたサントレール王と妃のことは朧気ながらに覚えている。
当時幼かったアリセルは父に肩車をされて、処刑の瞬間を見ていた。
しかし国王夫婦が首を落とされた光景そのものよりも、民衆の熱狂の方が恐ろしくて早く帰りたいと切実に願ったものだった。
腐敗された王政が一新され、新たにこの国を統治しているのは民衆から選ばれた市民だ。
とは言っても、国や政治についてアリセルに直接影響がある訳でもなく、よく分からないというのが本音だった。
前の王政がどれ程酷かったのか。今の国は昔よりも良くなっているのか。
悪しき王の死によって、民は平和の園を手に入れたのだろうか。
未だに貧困や略奪が横行していると耳にするが、それは本当なのだろうか。考えた所で分からない。しかし目の前にいるルネの存在はアリセルにとって切に迫った現実だった。
自分の力が及ぶ範囲で、変えることができる事は変えたいと思う。
「私は罪人の子だから何をされても良いとは思わない」
「アリセルならそう考えると思った」
「私の事はお見通しって訳?」
「だってお前分かりやすいし」
「悪かったわね」
「不貞腐れるなって。ルネ・サントレールの面倒を見るんだろ。間違っていると思う所は正せば良いし、自分がやりたいようにやれば良いんじゃないか?」
「うん」
アリセルは伏せていた顔をあげた。ユーグの言葉はもっともだ。
ルネに課せられた過去の惨状を嘆くよりも、これから出来ることをやろう。決意を秘めてユーグに頷いてみせた。
「ありがとう。お陰で気が晴れたわ」
「お役にたてて何よりです」
ユーグはふざけた調子で応じる。その様子に思わず笑ってからアリセルは空を仰いだ。
中指に嵌めた指輪の温もりが、そっと背を押してくれているようだった。
1
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
二度目の初恋は、穏やかな伯爵と
柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。
冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる