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Echo15:優しい毒
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「久し振りだね、ジョゼフ・エルヴァンにミーシャ・エルヴァン」
微笑むエリックに向かい、ジョゼフは慇懃無礼に頭を下げた。
「ご記憶に留めていただけていたとは、ありがたく存じます」
「君の働きぶりは、報告を受けている。看守として、よく務めを果たしてくれているね。それで、こちらの子が君たちの娘かい?」
エリックに視線を向けられ、アリセルは膝を折り、軽く頭をさげた。
「はじめまして、アリセル・エルヴァンです」
「ご丁寧にどうも。僕はエリック・ジルベールと申します」
「はい、お名前は存じております」
差し出された手を握り返しながら、アリセルは答える。
エリックの手は、人形のようにひんやりとしていた。握手を解くと、エリックはジョゼフに目を向けた。微笑はそのままに、声だけが少し低く落ちる。
「ところでルネ・サントレール君の様子はどうかな?」
「ご安心ください。おとなしく過ごしております」
「そうか。それは何よりだ」
エリックは満足げに頷いたが、アリセルはそっと眉をひそめた。
ルネの姿が、脳裏に浮かぶ。
痩せこけた体、薄汚れた肌、無数の傷跡。声を出すこともできず、壁にもたれて座るだけの、虚ろな目。
確かに「おとなしい」のは間違いない。
だが、そうなるまでに何があったのかを、エリックは知っているのだろうか。そう思った途端、気が付いたら声をあげていた。
「あの、エリック様……。ルネ様は、前任の看守から虐待を受けておられました。おとなしくならざるを得なかったのだと思います」
「アリセル!」
張りつめた声でミーシャに名を呼ばれ、アリセルはびくりと肩を震わせた。
叱られるような心当たりはなく、驚きが先に立つ。そんな彼女にエリックは膝を折り、視線を合わせてきた。
「その話は、僕も耳にしているよ。彼には、ずいぶんと辛い思いをさせてしまったらしい。けれど今は、君が看守だろう? きっと、彼も救われる」
「救われるかどうかは分かりませんけど、そうなるように努力いたします」
頷くアリセルを、エリックはどこか眩しそうに目を細めて見つめる。
その唇には慈愛といっても良い程の、優しい笑みが浮かんでいた。
「……君の目には、まだ曇りがないようだね」
エリックの声は、穏やかな囁きだった。
それは褒め言葉にも聞こえたが、どこか不可解な響きを孕んでいる。
真意を測りかねて瞬きをしたアリセルに向け、エリックはさらに小さな声で、彼女にだけ届くように言葉を紡ぐ。
「だけどアリセル。君は本当にかわいそうな子だね、こんなにも一生懸命で優しいのに、君は誰にも愛されず、誰にも見てもらえず、誰の心にも居場所がない。ずっとひとりきりのままなら、いっそ早く曇ってしまえばいいのに」
「え?」
エリックが何を言っているのか、わからなかった。
言葉は確かに聞こえているのに、その意味が分からず、理解に届かない。
戸惑うアリセルをよそに、エリックは何事もなかったように背筋を伸ばし、再びジョゼフの方へと向き直った。
「ふたりとも、良い娘さんをもったね」
「恐縮です、エリック様。それで本日は、どのようなご用向きでこの村へ?」
「ん? ノクスが寄りたいと言い出してね」
そう言って、エリックは黒猫をひょいと片手で抱き上げた。猫の額を撫でながら、彼は少しだけ首を傾げる。
「それに君たちにも会いたかった。元気そうでよかったよ」
その言葉に感情の起伏はなく、まるで天気の話でもするかのような調子だった。
だが、その何気ない声色の奥に、何かを測るような静かな重みがあった。
ジョゼフはわずかに頭を下げ、ミーシャが口元に微笑を浮かべた。アリセルは言葉を飲み込み、ただ黙ってそのやりとりを見つめている。
「さて、そろそろ行こうか。……ノクスも、もう十分満足しただろう」
エリックは黒猫を腕に抱いたまま、ゆるやかに背を向けた。ひらりと片手を上げ、振り返ることなく歩き出す。足取りは軽く、後ろ姿に迷いはない。
エリックの背が角を曲がって見えなくなってからもしばらく、アリセルは無言で立ち尽くしていた。すると、肩に手が置かれる。
「アリセル」
低い声でジョゼフに名を呼ばれ、アリセルは顔をあげる。
目の前にいる両親の顔には、いつものような穏やかさはなく、どこか硬さが滲んでいた。ふたりの表情に戸惑いながらも、アリセルは口を開いた。
「あの人がエリック・ジルベールさんなのね。……何だか思っていたより……普通だった」
そう言いながらも、アリセル自身、自分の感じたものをうまく言い表せずにいた。
ただ、冷酷で無慈悲な人物だと聞かされていたはずのその男が、猫を抱き上げ、穏やかに微笑んでいた。その姿になぜだか、心のどこかが引き寄せられたのだった。
「それが、奴のやり口なんだよ」
ジョゼフが静かに言った。
「優しく、笑顔を見せ、人の懐に入り込む。あの男は、そうやって多くの人間を動かしてきた。話し方も、仕草も、すべて計算のうちだ」
アリセルが何か言い返そうとする前に、ミーシャがそっと口を挟んだ。
「優しく見えたのなら、それこそが危ういの。あなたはまだ若いから、人の表面だけを見てしまうわ。けれどね、アリセル、本当に恐ろしいのは、怒鳴りつけてくる人じゃないのよ。黙って笑っている人。ああいう人なの」
「そうだ。奴のような人間に関わってはいけない。ましてや情を抱くなど、もってのほかだ。分かったね?」
両親は理解を求めるように、言葉を重ねていく。
腑に落ちないものを感じながらも、それでも、ああいう人間こそ警戒するべきなのかも知れないとも思う。父と母がそう言うのなら……きっと、そうなのだろう。アリセルは黙って頷いた。
微笑むエリックに向かい、ジョゼフは慇懃無礼に頭を下げた。
「ご記憶に留めていただけていたとは、ありがたく存じます」
「君の働きぶりは、報告を受けている。看守として、よく務めを果たしてくれているね。それで、こちらの子が君たちの娘かい?」
エリックに視線を向けられ、アリセルは膝を折り、軽く頭をさげた。
「はじめまして、アリセル・エルヴァンです」
「ご丁寧にどうも。僕はエリック・ジルベールと申します」
「はい、お名前は存じております」
差し出された手を握り返しながら、アリセルは答える。
エリックの手は、人形のようにひんやりとしていた。握手を解くと、エリックはジョゼフに目を向けた。微笑はそのままに、声だけが少し低く落ちる。
「ところでルネ・サントレール君の様子はどうかな?」
「ご安心ください。おとなしく過ごしております」
「そうか。それは何よりだ」
エリックは満足げに頷いたが、アリセルはそっと眉をひそめた。
ルネの姿が、脳裏に浮かぶ。
痩せこけた体、薄汚れた肌、無数の傷跡。声を出すこともできず、壁にもたれて座るだけの、虚ろな目。
確かに「おとなしい」のは間違いない。
だが、そうなるまでに何があったのかを、エリックは知っているのだろうか。そう思った途端、気が付いたら声をあげていた。
「あの、エリック様……。ルネ様は、前任の看守から虐待を受けておられました。おとなしくならざるを得なかったのだと思います」
「アリセル!」
張りつめた声でミーシャに名を呼ばれ、アリセルはびくりと肩を震わせた。
叱られるような心当たりはなく、驚きが先に立つ。そんな彼女にエリックは膝を折り、視線を合わせてきた。
「その話は、僕も耳にしているよ。彼には、ずいぶんと辛い思いをさせてしまったらしい。けれど今は、君が看守だろう? きっと、彼も救われる」
「救われるかどうかは分かりませんけど、そうなるように努力いたします」
頷くアリセルを、エリックはどこか眩しそうに目を細めて見つめる。
その唇には慈愛といっても良い程の、優しい笑みが浮かんでいた。
「……君の目には、まだ曇りがないようだね」
エリックの声は、穏やかな囁きだった。
それは褒め言葉にも聞こえたが、どこか不可解な響きを孕んでいる。
真意を測りかねて瞬きをしたアリセルに向け、エリックはさらに小さな声で、彼女にだけ届くように言葉を紡ぐ。
「だけどアリセル。君は本当にかわいそうな子だね、こんなにも一生懸命で優しいのに、君は誰にも愛されず、誰にも見てもらえず、誰の心にも居場所がない。ずっとひとりきりのままなら、いっそ早く曇ってしまえばいいのに」
「え?」
エリックが何を言っているのか、わからなかった。
言葉は確かに聞こえているのに、その意味が分からず、理解に届かない。
戸惑うアリセルをよそに、エリックは何事もなかったように背筋を伸ばし、再びジョゼフの方へと向き直った。
「ふたりとも、良い娘さんをもったね」
「恐縮です、エリック様。それで本日は、どのようなご用向きでこの村へ?」
「ん? ノクスが寄りたいと言い出してね」
そう言って、エリックは黒猫をひょいと片手で抱き上げた。猫の額を撫でながら、彼は少しだけ首を傾げる。
「それに君たちにも会いたかった。元気そうでよかったよ」
その言葉に感情の起伏はなく、まるで天気の話でもするかのような調子だった。
だが、その何気ない声色の奥に、何かを測るような静かな重みがあった。
ジョゼフはわずかに頭を下げ、ミーシャが口元に微笑を浮かべた。アリセルは言葉を飲み込み、ただ黙ってそのやりとりを見つめている。
「さて、そろそろ行こうか。……ノクスも、もう十分満足しただろう」
エリックは黒猫を腕に抱いたまま、ゆるやかに背を向けた。ひらりと片手を上げ、振り返ることなく歩き出す。足取りは軽く、後ろ姿に迷いはない。
エリックの背が角を曲がって見えなくなってからもしばらく、アリセルは無言で立ち尽くしていた。すると、肩に手が置かれる。
「アリセル」
低い声でジョゼフに名を呼ばれ、アリセルは顔をあげる。
目の前にいる両親の顔には、いつものような穏やかさはなく、どこか硬さが滲んでいた。ふたりの表情に戸惑いながらも、アリセルは口を開いた。
「あの人がエリック・ジルベールさんなのね。……何だか思っていたより……普通だった」
そう言いながらも、アリセル自身、自分の感じたものをうまく言い表せずにいた。
ただ、冷酷で無慈悲な人物だと聞かされていたはずのその男が、猫を抱き上げ、穏やかに微笑んでいた。その姿になぜだか、心のどこかが引き寄せられたのだった。
「それが、奴のやり口なんだよ」
ジョゼフが静かに言った。
「優しく、笑顔を見せ、人の懐に入り込む。あの男は、そうやって多くの人間を動かしてきた。話し方も、仕草も、すべて計算のうちだ」
アリセルが何か言い返そうとする前に、ミーシャがそっと口を挟んだ。
「優しく見えたのなら、それこそが危ういの。あなたはまだ若いから、人の表面だけを見てしまうわ。けれどね、アリセル、本当に恐ろしいのは、怒鳴りつけてくる人じゃないのよ。黙って笑っている人。ああいう人なの」
「そうだ。奴のような人間に関わってはいけない。ましてや情を抱くなど、もってのほかだ。分かったね?」
両親は理解を求めるように、言葉を重ねていく。
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